2018-10-07 @ミューザ川崎シンフォニーホール
大井剛史:指揮
東京交響楽団
阪田知樹:ピアノ*
深井史郎:架空のバレエのための三楽章
早坂文雄:ピアノ協奏曲*
小山清茂:弦楽のためのアイヌの唄
伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ(1979年改訂版)
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武満徹:雨の樹素描Ⅱ〜オリヴィエ・メシアンの追憶に〜*
1914年生(小山、伊福部、早坂)、東響が日本初演(早坂、伊福部、深井)、アイヌがテーマ(小山、伊福部)という繋がりによる日本人作曲家特集…とチラシに書いてあった。
このうち深井と小山はその存在さえ知らなかったのだから、当然初聴き。早坂と伊福部はコンサートでも複数回聴いているが、今日の作品はいずれも初聴き。全曲初聴き!って非常に珍しい。
4作品とも1948〜64年初演のほぼ同時代の邦人作品ということで、すべて初聴きのせいもあったか、結果的にはどれもよく似た感じだが、所謂「現代音楽」の嫌味がまったくない。
阪田知樹と共演で早坂文雄の「ピアノ協奏曲」(2楽章構成)はピアノ中心に管弦楽編成の規模も大きく、華やかな音楽で演奏時間も一番長かった(僅かな差だが)ので、メインに据えても良い感じだったが…。
小山清茂の「弦楽のためのアイヌの唄」も弦楽アンサンブルに小型パーカッションという珍しい組み合わせで、靴べらによるチェロのピチカートなど、全体に新鮮な魅力があった。
それらの中でも最後に登場した伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」が一番楽しめた。音楽的に他作より抜きん出ているかどうかは分からないが、聴いていて実に面白く楽しい。
他の3作にも共通するが、西洋音楽の調性はあるようなないようなではっきりしない。調性というより日本古来の旋法が取り入れられているのだろう。部分的に雅楽や民謡、祭り囃子(「タプカーラ」はアイヌの民族舞踊を意味するらしい。)のような音楽が西洋音楽の調性と組み合わされているのではないかと聴いていた。
そのような試みが一番親しみやすく発揮されていたのが「シンフォニア」だと思う。
大井剛史の指揮も複雑な変拍子をきれいに捌いて東響のアンサンブルも上等。
余談ながら:
全員の生没年と今日の作品の初演年を書いておこう。
深井史郎(1907〜1959)⇒1956年
早坂文雄(1914〜1955)⇒1948年
小山清茂(1914〜2009)⇒1964年
伊福部昭(1914〜2006)⇒1955年(世界)、56年(日本)、80年(改訂版)
全作品が20世紀中程に作曲・初演されたものだ。
西洋音楽史的に言えば「現代音楽」の始まりの頃か。
さて、これらの作品を音楽界(どんな世界だ?)で「現代音楽」と呼んでいるのかどうかは知らない。「現代音楽」の定義があいまいだから。「現代」の音楽と言うなら、「現代音楽」に違いがない。無調又は調性が拡大されているのが「現代音楽」ならこれらの作品は半分くらい(数ではなくどの作品も内容的に)は「現代音楽」と言えるのかもしれない。
しかし、「現代音楽」という場合、その代表とされるジョン・ケージの「4分33秒」(幸いにして聴いた?ことがない。)とかリゲティの「ポエム・サンフォニック(100台のメトロノームのための)」(東響で聴かされた!腹立たしい。)など、「無調」さえ超え、古典的な「音楽」の定義にも外れるような作品も堂々とステージに掛けられているが、今日の邦人作品群はそんな不届きな作品とは別世界のものだ。だから、これらの作品を「現代音楽」という言葉で括るのは抵抗もあるし、間違いではないだろうか。
…などと余計なたわごとを記したのは、自分の備忘のためでもあるし、所謂「現代音楽」に時々我慢がならないからだ(アルヴォ・ペルトの作品などはほとんど抵抗なく受け入れられるから、時期的な括りで音楽の「現代」性を捉えるのも間違っていると考えている。)。
行き詰まりから始まり、調性を諦め、不協雑音と激しいリズムとダイナミックレンジで聴衆の<意表を突くだけ>の「現代音楽」に展望があるはずがない。「古典にもどれ!」と言いたい。
♪2018-125/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-19