2015年2月21日土曜日

NHK交響楽団2015横浜定期演奏会

2015-02-21 @みなとみらいホール


パーヴォ・ヤルヴィ:指揮
ピョートル・アンデルジェフスキ:ピアノ
NHK交響楽団

R.シュトラウス:交響詩「ドン・フアン」作品20
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」作品40


N響の横浜定期。と言っても1年に1回なんだけど。
2/8の定期Aプログラムに続いて次期首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィの指揮だった。

「ドン・ファン」冒頭の響が違う。
何と違うか?いつもここで聴いているオーケストラの響と違う。

透明感があって、それでいて重厚だ。
こういうサウンドを聴いているだけで楽しい。心地よい。

モーツァルトはやや、場違いな感じだし、特に好きな曲でもなかったので、なんとなく聴き流したが、R・シュトラウスはやはりなかなかいい。

特に「英雄の生涯」は大管弦楽のための交響詩という副題が付いているが、少なくとも105名の4管編成が必要だそうだ。

弦の数は60名を超えていた。これに多彩な管、打、ハープ、オルガンなどが加わって壮麗なる響。

R・シュトラウスはこれら交響詩やオペラ作家としての業績が有名だけど、ピアノ曲(ソナタや小品集)も書いていて、これが一連の派手な交響詩を書いた人の作品とも思えないくらい可愛らしいもので、深く知れば味わい深い作曲家なんだろうと思う。


♪2015-17/♪みなとみらいホール-07

2015年2月20日金曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第306回定期演奏会

2015-02-20 @みなとみらいホール


川瀬賢太郎(常任指揮者)
アンドレアス・オッテンザマー (Cl)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ウェーバー:クラリネット協奏曲第1番へ短調
チャイコフスキー:交響曲第2番ハ短調 小ロシア
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アンコール(Cla+管弦楽)
レオー・ヴィネル:2つの楽章から第2曲"Barndance"


ウェーバーの協奏曲を吹いたクラリネットのアンドレアス・オッテンザマー(墺)はマルチプレイヤーというか、マルチタレントというか、クラリネットのみならず、ピアノ、チェロでも国際コンクールの優勝経験があるそうだ。

エージェント?らしいプロアルテムジカの紹介ページをそのまま引き写しておこう。
「1989年、ウィーンにて音楽一家に生まれる。4歳でピアノのレッスンを始め、1999年よりウィーン国立音楽大学にてチェロをヴォルフガング・ヘルツァーに師事。11歳のときにクラリネットに転向し、2003年よりウィーン国立音楽大学にてヨハン・ヒンドラー~に教えを受ける。

 オーストリア青少年音楽コンクールではクラリネット、チェロ、ピアノ、室内楽部門で12度の優勝。2007年、Musica Juventutisコンクールに優勝し、コンツェルトハウスでの受賞者演奏会に出演。

 アメリカ・ハーヴァード大学にてリベラルアーツの勉学に励む中の2009年、ベルリンのカラヤン・アカデミーに入学、ほどなくベルリン・ドイツ交響楽団首席奏者に就任。

2011年3月、22歳の若さでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者に就任。父エルンストは83年より、兄ダニエルは09年よりウィーン・フィルの首席奏者を務めるという、クラリネットの超名門一家。ソロ・クラリネット奏者としては史上初めてドイツ・グラモフォンとの専属契約を結んだ若きカリスマ。」



ということで、大した才人だ。
「音楽性」はどんな楽器(奏者)にも共有できるけど、各楽器の演奏技術はそれぞれに異なるのだから、彼が「天才」かどうかは別にしても、相当な努力家…くらいにはとどまらない霊感の持ち主なのだろう。


ウェーバーのことはほとんど知識がない。
考えてみると中学時代に「音楽」で学んだ知識を一歩も出ていない(苦笑)。
ドイツ・ロマン派のオペラ様式を打ち立てた作曲家として重要な位置にあるらしいが、オペラはもとより他の器楽曲もあまり演奏されないようだ。我がCDコレクションにも小品3曲数えるのみ。

クラリネットは好きな楽器だったのか、協奏曲が2曲。ほかにクラリネットを含む室内楽作品もいくつかある。

で、この協奏曲第1番。
まるでオペラのようなドラマチックな出だしだったな。
ほかには、低音域と高音域の間を急上昇したり急降下したりの名人芸が駆使されていたやに思う。


チャイコフスキーの交響曲第2番は生で聴くのは初めて。CDでもまず聴くことはないので、コンサートの前に2、3度聴いてみたけど、いまいち楽しめないので本番が不安だったが、やはりナマの音楽は全然違うね。冒頭からすんなりとその世界に入れた。

4番以降の交響曲のような馴染みの旋律は出てこないけど、「小ロシア」のタイトルの理由になったウクライナの民謡が中心に据えてあるので、土着的というか、素朴な味わいだけど、終楽章はその民謡によるお祭り騒ぎのようだ。

♪2015-16/♪みなとみらいホール-06

2015年2月18日水曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.64 神奈川フィル名手による室内楽④

2015-02-18 @みなとみらいホール


山田恵美子(神奈川フィルハーモニー管弦楽団 首席フルート奏者)
土屋律子(ピアノ)

フンメル:フルート・ソナタ ニ長調 op.50
アンデルセン:オペラ編曲集より「ランメルモールのルチア」
タファネル:ウェーバーの「魔弾の射手」による幻想曲
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アンコール
アンデルセン:魔笛

山田恵美子




土屋律子
フンメルと言えば、トランペット協奏曲しか知らなかった。
彼はモーツァルトにその才能を見出されたらしい。ハイドンにも学んだそうだ。少なくとも当時は神童だったのかもしれないが、長じて才能が枯渇したのか、不運だったのか、多作だった割には今日まであまり有名な作品は残っていないようだ。あるいは、研究が進み、演奏される作品が増えたら、脚光を浴びるかもしれないけど。
J.S.バッハだって、メンデルスゾーンが100年ぶりに「マタイ受難曲」を復活演奏しなければ、今頃は存在さえ忘れ去られていたかもしれないのだもの。

8歳の時にモーツァルトの家に住み込んで2年間ピアノの手ほどきを受けたという。
そのためか、フルート・ソナタ ニ長調はモーツァルトの作品だといわれたら信じてしまうだろう(トランペット協奏曲でも同様だけど)。ところどころモーツァルトの節回しが聴こえてくる。


2曲めのアンデルセンは名前すら知らなかった。
時代的にはフンメルの孫の世代の人だ。
ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」の中の「狂乱の場」のアリアをフルートとピアノ用に編曲したもので、なかなか技巧を要するようであった。
デンマーク王立管弦楽団やベルリン・フィルのフルート奏者であり、指揮者でもあったようで、難曲のフルート用編曲は得意だったようだ。

タファネルも数年前まではまったく知らない人だったが、全日本学生音楽コンクールを聴きに行くようになって、そのフルート部門で自由曲にタファネルの作品が頻繁に取り上げられ、「魔弾の射手」による幻想曲も何度も聴いたものだが、それほど技巧を聴かせる作品なのだろう。

ま、もちろん、神奈川フィルの首席奏者、いずれも苦もなく妙なる調べを奏でてくれた。



♪2015-15/♪みなとみらいホール-05

2015年2月14日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽堂シリーズ第3回定期演奏会

2015-02-14 @県立音楽堂


川瀬賢太郎(常任指揮者)
半田美和子(ソプラノ)
門脇大樹(首席チェロ奏者)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

リゲティ:ミステリー・オブ・マカブル
ハイドン:チェロ協奏曲第1番ハ長調Hob.VIIb:1
ハイドン:交響曲第60番ハ長調Hob.I:60「うかつ者」
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アンコール
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番からプレリュード


今日の3本はどういうコンセプトなのか。
プログラムには「音楽は全てお芝居だ」ということらしいが、相当無理がある。そんなことでこの3本がくっつくのならどんな3本だって組めそうだ。


ジョルジュ・リゲティ(1923-2006)という人の名前は初めて聞いた。
ハンガリーの超前衛作曲家だ(もっとすごい曲を書く人もいるとは思うけど。何しろ、ピアノの前で座ったきり音を出さないで帰る、という作品の<作曲家>もいると聞くから)。

トーン・クラスターとかミクロ・ポリフォニーといった技法の得意な人らしい。と書いたけど、説明能力はない。

「ミステリー・オブ・マカブル」はソプラノに管弦楽が伴奏?するスタイルだけど、歌う訳ではない。歌とはいえない。
呻き声、裏声、金切り声、雷声、嗄れ声、癇声、甲声、歓声、奇声、擬声、叫声、笑い声、濁声、怒声、喚き声…etc。およそあらゆる音を発してそのほとんどは意味が無い(ところどころ意味が聞き取れる場合があった。それは簡単な英語だったり日本語だったりするので。)。

不規則なリズム、というかリズムもないようなものだけど、こんな音楽を合わせるのは容易なことではないな。



でも、ソプラノも管弦楽も格別破綻もなく演奏が終わった。
面白かったか?と尋ねられたら、面白かったと答えよう。

7分程度の曲だ。
こういうとんでもない作品を、作ってみたいという気持はよく分かる。

次のURLはこの作品の一部だ。

リゲティの作品の中ではポピュラーな部類に入るらしいピアノ練習曲第13番「悪魔の階段」が以下のURLだ。
これなんかは「ミステリー~」に比べるとずっと分かりやすく面白い。

今回、NETでこの作曲家のことを調べて分かったのだが、なんと、映画「2001年宇宙の旅」でも彼の作品が使われているそうだ。
オーケストラのための「アトモスフェール」(1961)、オーケストラと声楽のための「レクイエム」(1965)、無伴奏合唱のための「ルクス・エテルナ」(1966)、3人の独唱者とアンサンブルのための「アヴァンチュール」(ノークレジット)(1962)だという。

この映画ではR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りぬ」やJ・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が有名だけど、リゲティの音楽が4曲も使われていたなんて大いにびっくり。

映画の公開は68年だから、監督のキューブリックは、出来たての、いわば評価の確立していない音楽を自作に使ったのだ。これも驚きだ。


ハイドンは2曲とも良かった。
チェロ協奏曲はどちらかと言えば第2番が好き(多分こちらがポピュラーだろう)で、第1番のナマは初めて聴いた。楽しめた。

交響曲第60番はハイドンのユーモアが溢れた作品だ。
元は劇伴音楽だったせいか、全6楽章構成という珍しい構成だ。
途中にも吹き出しそうな部分があるけど、とりわけ終楽章の仕掛けはおかしい。
僕は手持ちのCDで何度も聴いているから知っていたけど、初めて聴いた人は大いにびっくりして、事故が起こったと思うだろうな。
ハイドンて、ホンに憎いやつだ。


♪2015-14/♪県立音楽堂-01

2015年2月8日日曜日

N響第1802回 定期公演 Aプログラム

2015-02-08 @NHKホール


パーヴォ・ヤルヴィ:指揮
アリサ・ワイラースタイン:チェロ
NHK交響楽団

E.エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」
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アンコール
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番から「サラバンド」


パーヴォ・ヤルヴィは過去にもN響に客演しているそうだが放送で聴いたかもしれないけど記憶に無い。
今月の定期3公演といくつかの定期外でN響を指揮するが、これは10年ぶりだそうだ。
懐かしさを覚えるコアなファンでなくとも今年9月からN響の首席指揮者に就任するというからには、観客の期待は大きい。

僕も当然期待する。
と言っても、パーヴォ・ヤルヴィのことはなんにも知らないし、指揮者の解釈の違いが演奏の違いとして聴き取れたところでそれぞれが極めた(あるいは極めつつある)音楽に不満を感ずるような才覚はないし、少し変わっておればそれはそれで音楽を聴く楽しみなので、N響の首席に誰が座ろうと僕の音楽生活に大した影響はないので、期待と言っても、団員と良い関係を築いてほしいというくらいかな。

むしろ、N響の団員こそパーヴォ・ヤルヴィに期待するところ大きいだろうし、パーヴォ・ヤルヴィもN響に大きな期待をかけているに違いない。

今日は、そんな、いろんな期待がホール全体を確実に支配していた。

プログラムのメインはマーラーの所謂「巨人」だ。
マエストロのプレ・デビューにふさわしい大曲で、オーケストラも約100人の大規模編成だ。

マーラーはどうも苦手でなかなか好きになれなかったのだけど、最近、ナマで聴く機会が増えて、この苦手意識がだんだん薄れてきた。
特に第1番「巨人」は全10曲の交響曲の中でも一番耳に馴染んでいるだろう。

一応の完成をみた1888年3月はマーラーがまだ27歳だった。
それにしては堂々としているのは、その後も96年に現行の4楽章交響曲として完成*するまで何度も手を入れているからかもしれない。

その割に、第4楽章が前3楽章と様子が変わって青年らしさが爆発するのは受け入れられるとしても、構成が甘くて結果冗長に過ぎる不満は払拭できない。
それでも、親しみやすいメロディがそこここに噴出し、刺激的なクライマックスで大いにカタルシスが得られる。

今日、しっかり耳を澄ませて聴いたが、改めて、マーラーの旋律がとてもドイツ的**で、民謡なども取り入れているのだろうか。部分的にはベートーベンと聴き違えそうな旋律が混じっている。

帰宅後スコアを見ると、第一楽章の冒頭ひたすら鳴り続けるAの音(7層構造だ。最終的には56小節も続く。)に乗せてAEと4度で下がる鳥の鳴き声のようなフレーズは、ベートーベンの「第九」の第1楽章と非常によく似ている。ベートーベンとの類似性はマーラーを聴く際の一つの手がかりになるのかもしれない。





さて、そのクライマックスがいよいよ最高潮に達して、ティンパニーの長い長い連打と金管の咆哮が聴衆を焦らせながらついに沈黙した時、館内の拍手と歓声はこれまで聞いたことがない大きさで轟いた。

ブロムシュテットのコンサートも熱気がすごかったが、その何倍にも達しようかと思われるほどの興奮と大音響で、僕も、一緒に声をかけたいような衝動に襲われた。

始まる前に館内に漲っていたあれやこれやの期待は、見事に満足を得たのだ。

パーヴォ・ヤルヴィへの熱い歓迎の気持ちがマーラーが与えた高揚感そのままに全聴衆にもオーケストラ団員にも乗り移っていたようだ。



エルガーのチェロ協奏曲は、「威風堂々」や「愛のあいさつ」を書いた同じ人とは思えないほど全篇悲壮感が漂う。病床で作曲したということも影響しているのかもしれない。
全4楽章(第1楽章と第2楽章は連結演奏)はいずれもチェロのソロカデンツアかオーケストラを従えたチェロの演奏で始まり、ほとんど休むこと無く独奏チェロが鳴り響いている。オーケストラは終始控えめで協奏曲というより管弦楽伴奏付きチェロ組曲のようだ。
真っ赤な肩出しドレス?を纏った妖艶な雰囲気のアリサ・ワイラースタインのチェロは良く鳴って不満なし。

ところが、アンコールで弾いたバッハは表情過多のような気もしたが、サラバンドは同組曲で使われている他の舞曲に比べてテンポが非常に遅いのでそのようになりがちではある。好みの問題というか、これも「馴染み」の問題かもしれない。


* この時点で標題「巨人」は使われなくなった。ただの「交響曲第1番ニ長調」になった。
にも関わらずマーラーの意向に反して今でもプログラムなどから「巨人」が排除できないのは商業主義のせいだ、と柴田南雄が「グスタフ・マーラー」(岩波新書)で書いている。

** 曖昧な表現だ。現在のオーストリアは、ハンガリーチェコなどとともに現在のドイツと離合集散を繰り返している。この場合はウィーン的と言っても同じかもしれないが、ベートーベンやブラームスの音楽を彷彿とさせるという意味。


♪2015-13/♪NHKホール-2

2015年2月7日土曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第105回

2015-02-07 @ミューザ川崎シンフォニーホール


シュテファン・アントン・レック:指揮
ルドルフ・ルッツ:オルガン
東京交響楽団

レスピーギ:ローマの噴水
バーバー:トッカータ・フェスティーヴァ
バルトーク:管弦楽のための協奏曲


「ローマの噴水」はレスピーギの3部作の中でも生ではあまり聴いていないような気がするので、いい加減な記録だけど、日記を検索してみたら、平成4年(1992年)7月に外山雄三指揮東京シティフィルで聴いていた。場所は書いてないので分からない。
なぜ、こんな古い記録のことを書くかというと、その時、ラロのスペイン交響曲も演奏されて、バイオリンのソロを弾いたのが大谷康子だと書いてあった。
つまり、大谷康子は、現在東響のソロ・コンサートマスターで、今日も登場したが、何か、不思議な縁を感じたからだ。

オルガンも入る近代管弦楽の華のようなオーケストレーションが楽しい。それでいて、まさにローマ時代を思わせる古風な旋律が混じっていて面白い。

今日のオルガンは管弦楽の並ぶ同じステージに据えられた。アップライトピアノを2台縦に重ねたくらいの大きさだ。
え~!なんでパイプオルガンがあるのに移動オルガンなんて使うのかなあ、と不審に思っていたが、音楽が始まってオルガンが演奏されると音は舞台後方の大きなパイプオルガンから出るのだ。


これはびっくり。
遠隔操作オルガンだ。
こんなことまでできるなら、楽屋で指揮者のモニター画面を見ながらポロシャツ・ジーンズでもオーケストラに合わせることができるなあ!と思ったが。


でも、2曲めのバーバー(「弦楽のためのアダージョ」が超有名。でもこれしか思い出せない。)の「トッカータ・フェスティーヴァ」では、これも管弦楽とオルガンのための曲だが、こんどはパイプオルガン席の鍵盤に向かって演奏した。

するとなぜ、1曲めは舞台で演奏したのか分からなくなるが、ひょっとして、ストップ(音色)の数は71、パイプの総数は5,248本という日本最大級のオルガンを扱いこなすにはやはり正規のコンソールでなければできない操作があるのかもしれない。



バルトークと言えば、「トランシルヴァニア舞曲」とか「ルーマニア民俗舞曲」位しか知らない。いや、ほかにも色々聴いてはいるだろうけどハンガリーの民族音楽の大家という程度の知識・印象しかない。僕にとっては未開の分野だ。この人も入り込めば奥が深くて面白いのだろうけど、当面の課題が山積しているから消極に接することにしよう。

「管弦楽のための協奏曲」は1944年初演という新しい音楽だけど、やはりバルトークらしい土着の匂いを感じさせながらオーケストラは派手に各パートごとがいわゆるパートソ・ロを聴かせるもので、初めて聴いた割には楽しむことができた。



指揮のシュテファン・アントン・レックも初めて聴く人だった。クセのない素直な指揮ぶりに好感した。
また、カーテンコールではミューザの舞台を取り囲む客席構造を踏まえて四方八方にぐるりと笑顔を見せ、楽団員にも舞台横、後方席にお愛想を慫慂して思わず観客も楽団員にも笑いが起こるなどサービス精神旺盛だった。

♪2015-12/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-03

2015年2月5日木曜日

松竹創業120周年二月大歌舞伎

2015-02-05 @歌舞伎座


一 吉例寿曽我(きちれいことぶきそが)
 鶴ヶ岡石段の場
 大磯曲輪外の場

 近江小藤太 又五郎
 八幡三郎 錦之助
 化粧坂少将 梅枝
 曽我五郎 歌昇
 曽我十郎 萬太郎
 朝比奈三郎 巳之助
 喜瀬川亀鶴 児太郎
 秦野四郎国郷 国生
 茶道珍斎 橘三郎
 大磯の虎 芝雀
 工藤祐経 歌六

二 彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)

 毛谷村六助 菊五郎
 お園 時蔵
 微塵弾正実は京極内匠 團蔵
 お幸 東蔵
 杣斧右衛門 左團次

三 積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)

 関守関兵衛実は大伴黒主 幸四郎
 小野小町姫/傾城墨染実は小町桜の精 菊之助
 良峯少将宗貞 錦之助


江戸歌舞伎においては、正月興行には曽我兄弟の仇討を素材にした所謂「曽我狂言」を上演するのが吉例となっているそうだ。
と言っても、仇討の端緒も仇討ちに至る艱難辛苦も肝心の仇討ちも描かれない。「伊賀越え」と比べると物語としての面白みはない。

が、ここが歌舞伎の難しいところであり面白いところで、舞台芸能の一つの洗練された型を楽しむものなのだろう。

なぜ、正月を寿ぐ演目になっているのか、劇場で買った筋書きにも説明がなかった(と思う)が、おそらく書く必要も感じないくらい吉例になっているからだろうが、素人考えでは、仇討ちを果たせたということがおめでたいということのほかに、仇討の舞台が富士の裾野であるということがその理由ではないかと思う。
仇討ちがめでたいなんて、野蛮な感じもするけど。

1幕2場で、その場面転換は鶴岡八幡宮の石段が90度持ち上がって富士山を望む大磯曲輪の外に早替わりするという「がんどう返し」だ。奇しくも1年前の1日違いの歌舞伎座で「青砥稿花紅彩画」を観た時にもこの「がんどう返し」があった。
石段に役者が乗ったまま立ち上がってゆくのだから怖いだろうな。

江戸歌舞伎の様式美を勉強するには良い作品のようだが、巻物の取りっこだけで終始するような筋に、なにか今日的な色付けはできないものかと正直なところ残念感が漂ったなあ。

「積恋雪関扉」も、芝居というより常磐津を伴奏にした舞踊劇で、「曽我」ともども頭のスイッチを切り替えて楽しむべき演目だ。

この作品で覚えたこと。
「見顕(あらわ)し」と「ぶっ返り」。
自ら本性を顕にすることと、多くの場合その際に瞬間的に衣裳を変えることをいう。
幸四郎演ずる関守関兵衛、実は大伴黒主だと正体を顕す際に衣裳を手早く赤から黒主体に変え、菊之助が演ずる傾城墨染は墨染の桜模様から明るい桜模様の衣裳に変えて小町桜の精の正体を顕した。
菊之助は立役では甘いマスクが邪魔をすることがあるけど女形はホンに似合う。



この3枚は團十郎と藤十郎の舞台。Eテレから
やはり楽しめたのは「彦山権現誓助剱」。
元は人形浄瑠璃だそうで、その中から九段目の「毛谷村(けやむら)」だけが歌舞伎として伝わっているそうだ。

百姓だが剣術の使い手でもある六助(菊五郎)は、彼が託されて育てている幼い弥三松(やそまつ)と二人暮らしだが、その日、あれこれあった挙句、訪ねてきた老婆お幸(東蔵)と弥三松の叔母であるお園(実はお幸の娘で六助の許嫁⇒時蔵)が顔を合わせることになり、お園の仇が六助にとっても憎い相手であると分かって、(別の)老婆を殺された村人たちの願いもあって、仇討ちに出かけよう、という(ところで終わる)話だ。

話自体はありふれているけど、お園が俄然面白い。よくこういうキャラクターを考えたものだ。
登場は虚無僧姿で、悪者をやっつけるが、六助はその虚無僧が本物ではないことを見抜く。実は…と正体を明かせば怪力女であった。そして話しているうちに六助が父の決めた許嫁だと分かるや途端にしおらしく恥じらいを見せたりしながらも、つい片手で臼を転がしたり、甲斐甲斐しく台所に立つも火吹き竹と間違えて尺八を吹くとか、実におかしい。

前に同じ菊五郎と時蔵のコンビで「魚屋宗五郎」を観た時も面白くて、特に時蔵がすごく巧いと思ってそれ以来楽しみにしているけど、今回も期待を裏切らなかったなあ。


今回は3つの演目というより3通りの歌舞伎を楽しんだ。
たくさんの引き出しを持っている芸能だ。

♪2015-11/♪歌舞伎座-01