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2024年4月7日日曜日

團伊玖磨生誕100年記念公演 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 Dramatic Series 歌劇「夕鶴」

 2024-04-07 @横須賀芸術劇場



沼尻竜典:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
横須賀芸術劇場少年少女合唱団:子どもたち

砂川涼子(すなかわりょうこ):つう
清水徹太郎(しみずてつたろう):与ひょう
晴雅彦(はれまさひこ):運ず
三戸大久(さんのへひろひさ):惣ど

團伊玖磨生誕100年記念公演
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
Dramatic Series
團伊玖磨:歌劇「夕鶴」<セミステージ形式>

第1部
 約85分
---休憩20分---
第2部
 約30分




「夕鶴」は、記憶が正しければ、半世紀近く僕が前に初めて観たオペラだ。つうは伊藤京子さんだったと思う。

それ以来の「夕鶴」だったが、物語自体は有名な木下順二の戯曲なのでいろんな形で頭に入っている。


横須賀芸劇は、あまり良い印象がないのだけど、今日の神奈川フィル・オペラの出来栄えが好印象に塗り替えた。


前回の神奈川フィル・オペラ「サロメ」も<セミステージ形式>と謳ってあったが、これが<演奏会方式>とどう違うのか、両者の違いに関する確立された見解はないようだが、この2回と、典型的な<演奏会形式>の東フィル・オペラと比べると、神奈川フィル版では、歌手はふさわしい衣装を纏い、舞台を縦横に動き回って演技をしながら歌う。舞台装置は極めて簡素だが一応ある。

したがって、歌手がドレスや燕尾服を着て立ったまま譜面台の前で歌うスタイルに比べるとずっと本舞台形式に近い上演だった。


特に、今回の横須賀芸劇では、ピット部分と客席の前3列を潰して舞台を拡張し、オケの前に相当広いスペースを確保したので、より本舞台に近い感じで観ることができた。


そして演唱と児童合唱とオケが、いずれも見事な上出来で、ぐいぐい引き込まれた。


なんと言っても、我がマドンナ、砂川涼子姫が抜群に良い。

これまでいろんな役を歌うのを聴いてきた。中ではミミやミカエラなどが嵌り役のように思っていたが、違うね。つうこそ砂川涼子にぴったりだ。もう他のソプラノじゃイメージできないくらいの嵌り役だった。


与ひょうの清水徹太郎も、運ずの晴雅彦も、惣どの三戸大久も、終わってみればすべて嵌り役だった。

横須賀芸術劇場少年少女合唱団もきれいな声で大役を果たした。


終盤のつうの最後の歌。

つうが鶴となって飛び立ち、残された与ひょうが痛恨の思いで「つう」と叫ぶシーンは、もうウルウルとしてしまった。


CCで並んだ際の砂川涼子の眼は潤んでいたと思う。オケの面々も心なしか眼を瞬かせていたようにも見えた。

舞台と客席が暖かい空気で一体感を以て繋がった、そんな印象を持った。


♪2024-049/♪横須賀芸術劇場-01

2018年10月13日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第343回

2018-10-13 @みなとみらいホール


川瀬賢太郎:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

波多野睦美:メゾソプラノ*
野田清隆:ピアノ*
横須賀芸術劇場少年少女合唱団(児童合唱)*
市原愛:ソプラノ**

権代敦彦:子守歌ーメゾ・ソプラノ、ピアノ、児童合唱とオーケストラのための*
マーラー:交響曲第4番ト長調**

権代敦彦作「子守歌~」は表題のとおり、管弦楽にメゾ・ソプラノの独唱とピアノに児童合唱が加わった編成だ。
その独唱と児童合唱の中で独唱を受け持つ2人、計3人に拡声装置が使われた。独唱についてはマイクで拾いアンプを通して舞台上のスピーカーから大きな音量で明瞭に聴こえる訳だ。
しかし、歌謡ショーじゃあるまいし、どうして生の声を使わなかったのか違和感があった。

その疑問に対する神奈川フィルの回答は、「スコアにPA使用の指示はありませんが、指揮者、ソリストともにオーケストラとのバランスを取るため、PAを使用するべきと選曲時から考えておりました。
3年前の名古屋フィルでの子守歌(川瀬賢太郎指揮、独唱藤井美雪)の演奏は、作曲家も会場に来場しておりましたが、その際もPAを使用していましたので作曲家も公認のセッティングということで理解をしております。」ということだった。

稀に作曲家が拡声装置の仕様を楽譜上指示する場合がある(コリリアーノ作曲「ミスター・タンブリンマン─ボブ・ディランの7つの詩」)。それならば仕方がない、というか、当然なのだが、今回のは、公認というより黙認なのだろう。

楽譜上作曲家の指示が無いのなら、演奏時においてナマの独唱がオケにかき消されないようにバランスをとるのが指揮者の腕だ。また、拡声装置などなくたって声は会場に十分響き渡ったと思う。
現に、2曲めのマーラーでは独唱はナマで歌われた。オケとのバランスを言うなら、むしろ、この曲でこそ独唱に拡声装置をつけるべきだった(本気でいうのではなく、皮肉だ。)。

マイク〜アンプ〜スピーカーを通したことによって、この作品の情感が安っぽく盛り上がってしまったと思う。

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尤も、この拡声装置の問題を抜きにしても、この音楽は素直に聴くことができなかった。

この作品は、2001年の池田小児童殺傷事件の被害者遺族のうちの1人の母親の手記と旧約聖書を素材に編集した、嘆き、鎮魂、祈りの歌だ。
まだ誰も忘れていない具体的な事件を題材にしている。
テキストも、淡々と綴られていることがむしろ聴く者の胸をかきむしるはずだ。
生々しい記憶のおかげで、犠牲になった児童8人と合唱団諸君が重なり、一層、事件の非情・悲痛は訴えるものの、「音楽」以前に「この鎮魂歌」の目的・存在そのものが腑に落ちず混乱してしまった。
誰のための鎮魂なのか~遡って鎮魂とは何かまで、考え込んでしまった。
作品の出来は別としてもう聴きたくない。

しかし、横須賀芸劇少年少女合唱団が難しい音楽を歌い切ったのには驚いた。これは立派だった。また、オケも終始高い緊張を維持した。

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後半のマーラー4番。
先月のパーヴォ・ヤルヴィ+N響とつい比較してしまうが、こちらも川瀬賢太郎の指揮が行き届いている感じで、神奈川フィルは健闘した。
長過ぎる!第3楽章がようやく終わっていよいよ第4楽章のソプラノが始まると、その軽やかな旋律にホッとし、天上界へと誘われる…段取りなのだが、今回のソプラノ嬢は、きれいな声だけど音圧不足。天上界気分に浸れずに終わった。

狙いは、「子守唄ー」の後を継いで苦しみの浄化を果たすはずだったが、その点ではやや不満が残った。

♪2018-129/♪みなとみらいホール-28