2015年4月29日水曜日

横浜交響楽団第662回定期演奏会

2015-04-29 @県立音楽堂


飛永悠佑輝:指揮
高品綾野:ソプラノ
池内響:バリトン
横響合唱団:合唱
横浜交響楽団

【 宗教合唱曲① フォーレ 】
<山田耕筰没後50年>
山田耕筰:序曲 ニ長調 
山田耕筰:「この道」・「中国地方の子守唄」・「赤とんぼ」
シューベルト:交響曲第7番ロ短調「未完成」D759
フォーレ:レクイエム ニ短調作品48


今日の音楽堂は超満員。え~なんで?と一瞬思ったが、舞台には横響合唱団がおよそ200人並んでいる。多分、その関係者がどっと詰めかけたのだろう。

「序曲ニ長調」は山田耕筰が初めて書いた管弦楽曲で、日本人としても初の西洋音楽による管弦楽曲だそうだ。
3分少々の曲で、途中短調への転調部分があったが、全体としてえらく開放的で明るい音楽だった。

序曲は良かったが、今日は、申し訳ないことに体調不十分で、「中国地方の子守唄」ほかが、すっかり僕の子守唄になってしまった。

曲が終わるたびに拍手が起こるから、それで覚醒して僕もパチパチ…。次の曲ではまたもや居眠り。また拍手で覚醒…を繰り返してしまい、「未完成」になるともう確信犯的に寝てしまった。

今日、一番聴きたかったのはフォーレの「レクイエム」だ。これさえ聴けたらよしとしよう。そのためには英気を養っておかなくてはならぬ。

そんな訳で、覚醒し、刮目してきちんと聴いたのは、「レクイエム」だけだった。


フォーレの「レクイエム」はモーツァルト、ベルディと並んで三大レクイエムの一つと目されているようだがその構成は後二者がレクイエムの典型をほぼなぞっているのに対してフォーレのは多くのあるべき詠唱が欠けており、ずいぶん変則的だ。
それに曲調もあまりレクイエムらしくない。

全体に「レクイエム」というより「合唱組曲」のような感じがする。モーツァルトやベルディ、ブラームスの作品のような重々しさや威圧感はほとんどなく、ドラマ性は乏しい(第1曲と第6曲にやや重厚感がある)のだけど、まあ、この柔らかな明るい感じの「レクイエム」も一興だ。

個人的にはブラームスの「ドイツ・レクイエム」の方が数段好きだし、シューマンもいい。
僕が三大レクイエムを選ぶなら、やはりフォーレは外して「ブラームス」を入れたいな。


さて、横響の演奏は、(たいていいつもそう思うが、)最初はいまいちバラバラの感があり、(途中は寝ていたが…)フォーレとなるとこれはとても良かった。技術的な破綻には少なくとも気付かなかったし、低弦はいつもの様にきれいにまとまっている。

来月の横響定期はシベリウスのバイオリン協奏曲だ。これは楽しみ。しっかり体調を整えて、刮目傾聴せねばなるまい。


♪2015-35/♪県立音楽堂-04

2015年4月26日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第106回

2015-04-26 @ミューザ川崎シンフォニーホール


秋山和慶:指揮[桂冠指揮者]
半田美和子:ソプラノ(スキャット)*
堀江一眞:ナレーション*
東京交響楽団

E.シュトラウス:ポルカ「テープは切られた」op.45
J.シュトラウスⅡ世 :ポルカ「観光列車」op.281
ヴィラ=ロボス:カイピラの小さな列車(ブラジル風バッハ第2番より)
ロンビ:コペンハーゲンの蒸気機関車のギャロップ
オネゲル:パシフィック231
青木望:組曲「銀河鉄道999(スリーナイン)」*


今日のプログラムはどういうコンセプトか、といえば、「列車の旅」だ。
東響桂冠指揮者の秋山和慶マエストロが大の鉄道ファンということで、選曲されたそうだ。

そういう観点から音楽を聴いたこともないから、知らない曲が多かった。

ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」は、たぶん第5番の第1曲「アリア」が突出して有名で、初めて聴いた時は20世紀の音楽でもこんなきれいな旋律を書く人がいるのかと驚いた。
でもこれはナマで聴いたことがない。ソプラノと8本のチェロという編成だからめったに公演で取り上げられないのだろう。
ところで、今日の「ブラジル風バッハ」は残念ながら第2番の第4曲だ。

ブラジル風バッハのCDを持っているから、「アリア」を聴くついでにこの曲も何度か耳にしているのだけど、いちいち曲名(<オーケストラのための>ブラジル風バッハ第2番 IV. トッカータ: カイピラの小さな汽車)を確認せずに垂れ流し状態だから、列車の動きを描写しているとは知らなかった。なるほど、蒸気機関車が重々しく動き出すところから始まっている。
パーカッションの多彩さは半端ではない。全く見たことも聴いたこともない楽器が並んでいた。
ガンザ、ショカーリョ、ヘコヘコなど…。
そういう音楽だとは知らなかったが耳には馴染んでいるせいもあってなかなか楽しい曲だった。


オネゲルの「パシフィック231」はかつて聴いたことがあったのでそのタイトルも覚えていたが、まあ、初めて聴くに等しかった。
楽しいとは言えないね。

休憩を挟んで、後半が青木望という人の作品だけど、知らない人だ。でも「銀河鉄道999」は知っている、というか、マンガは読んだ(見た?)ことがないし、アニメも観たことがない。組曲「銀河鉄道999」という作品があることも知らなかった。
全8曲で構成され、演奏時間50分という大作で、演奏に当っては各曲の前にナレーションが入って物語を説明してくれたが、あまり惹きこまれなかった。
途中、ソプラノのスキャットが入るのだけど、ステージには歌手の姿が見えない。それに肉声ではない。舞台袖などでマイクを使って歌っているのだろうと思ったが、3階のバルコニーで歌っていたらしい。気が付かなかった。
マイク、スピーカーなんてどうかとも思うけど、この会場とオーケストラの規模からして肉声では管弦楽に埋没してしまうだろう。このスキャットがとてもよい感じだった。


東響はいい音を出している。今日はホームグラウンドのミューザだけど、時々サントリーでも聴くがどこでも変わらない響だと思う。
特に管楽器、とりわけ音がひっくり返りやすいホルンも抜群の安定性がある。クラリネットもうまかった。
ただ、今日の演目ではしかたがないけど、弦楽合奏の響が物足りなかったな。

♪2015-34/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-07

2015年4月24日金曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第669回東京定期演奏会

2015-04-24  @サントリーホール


ピエタリ・インキネン[首席客演指揮者]
アンジェラ・ヒューイット:ピアノ
日本フィルハーモニー交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 WAB107 [ハース版]


僕の体調は悪くなかったし、ホールも席も悪くないのに、今日の日フィルの響に全く満足できなかったなあ。
いつもはみなとみらいホールで聴いているけど、横浜定期の日程が他のオケとバッティングしたので、今日の東京定期に振り替えてもらったのだけど、これはよくあることで、どこで聴こうとたいてい満足できたのに、今日はハナから変調だった。

最初のブラームスはとても楽しみにしていたのに、出だしのティンパニーロールに続く管弦楽の響がなんだか空疎な感じで、食いつけなかった。最初に食いつけないとその疑問を引きずったまま全曲を聴いてしまう。

ピアノのアンジェラ・ヒューイットは、多分相当達者な人なのだろうけど、オーケストラと呼吸が合っていなかったような気がする。決め所のアタックがオケと重ならず、先走っていたところがあった。
明日も同じ公演があるが、そのための練習かと不信感。

指揮のインキネン(次季から首席指揮者になるそうだ。)のテンポが遅めではなかったか。
グールドとバーンスタインの解釈をめぐる争い(バーンスタインが折れた!)もブラームスの1番の主にテンポが原因だったが、この逸話を思い出しながら聴いたよ。


ブルックナーの7番は最近では「ノヴァーク版」というのを聴いたけど、今日の「ハース版」との違いなんてもちろん全然分からない。

音楽自体、もちろん悪くないし、オーケストラを楽しむ要素が盛り込まれていると思っている。
けど、ブルックナーって本当に才能あるのだろうか、と思ってしまった。無駄な繰り返しが多くてそれで、演奏時間が1時間以上もかかるんだ。
…なんてことを思ったりするのも、すべて最初の空疎な響が尾を引いていたからだと思う。


ところで、アンジェラ・ヒューイットが弾いたピアノは「FAZIOLI」だった。そういう超高級(高額?)ピアノを作るメーカーが有ることは知っていたが、実物を見るのもナマで聴くのも初めてだ。
彼女が持ち込んだものらしい。
客席からでは凡夫の耳にはYAHAMAやスタインウェイとの音色の差は分からなかったが、よく響いてこの音には何の不満もなかった。

♪2015-33/♪サントリーホール-02

2015年4月18日土曜日

東京交響楽団 川崎定期演奏会 第50回

2015-04-18 @ミューザ川崎シンフォニーホール


飯森範親:指揮
ニコライ・ホジャイノフ:ピアノ
青木篤子:ビオラ(東京交響楽団首席奏者)
東京交響楽団

ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21
カンチェリ:ステュクス ~ビオラ、混声合唱と管弦楽のための
ドビュッシー:海 ~管弦楽のための3つの交響的素描
-------------
アンコール
ショパン:ワルツ第14番「遺作」
ドビュッシー:ベルガマスク組曲第3曲「月の光」


ショパンのピアノ協奏曲は第1番がダントツに有名で、第2番は多分、ナマで聴いたことがなかったように思う。
それで、という訳でもないけど、予習のために家ではCDでさんざん第2番を聴きまくって、相当耳に馴染ませてから臨んだのだけど、不思議なことに演奏が始まった途端、違う曲かと思った。
僕が家で予習していた曲は別の曲を間違って聴いていたのだろうか、と焦った。
やはり、ナマではあらゆる楽器の音が明瞭この上ないので、聴き慣れたCDとは一瞬別の曲かと思ったのだ。
でも、しばらくしたら、聴き覚えのある、いかにもショパンです!という旋律がそこここに顔を出したので、安心した。

第2番には、彼の夜想曲第20番嬰ハ短調遺作のメロディが第1楽章と第3楽章で表れる。先取りした訳ではなく、夜想曲のほうが後年に作られている。
また、ピアノ協奏曲第1番にみられる音形も顔を出すように思うのだけど、気のせいかも。

ニコライ・ホジャイノフはまだ22歳でモスクワ音楽院の学生だそうだ。こんなに若くても日本のオケと共演するというのは、数々の国際コンクールで優勝したりファイナリストに残っているという実力が故だろう。

当然、苦もなく弾きこなしていたが、驚くほど、無表情で、淡々と弾いていたけど、だからといって音楽的表情に乏しいという訳ではない。何人かの女流ピアニストの顔の表情にも腕や身体の使い方にも感情丸出しの様子を思わず思い浮かべた。
これって、性差なのだろうか、それとも個体差なのだろうか。
感情丸出しの方が、聴き手というか観ている側にはその音楽がよく伝わるのでそれも表現の1つかなとも思うが、時に、悩ましいのもあって、それも楽しみだったり…。


カンチェリという作曲家は、ジョージア(2015-04-22から。旧国名グルジア)の人で1935年生まれの現役だ。同国人で同年生まれのアルヴォ・ペルトはよく知っているし、とても好きだけど、カンチェリは初耳だった。
演奏された「ステュクス ~ビオラ、混声合唱と管弦楽のための」ももちろん初めて聴く音楽だ。
大規模弦楽構成に多彩な管打楽器が加わって、100名を超える規模だったと思う。
完全に現代音楽で、演奏時間約36分の全篇が刺激に満ちていた。
オーケストラの最強音の大打撃から始まり、最弱音、はたまた最強音とえらくダイナミックレンジの広いさ音楽で、ぼんやりとは聴いておれない。

ハイドンがこれを先に聴いていたら、彼は交響曲第94番「驚愕」を作ることはしなかったろう。

♪2015-32/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-06

2015年4月17日金曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.66 ドビュッシー、ジョリヴェ・・・音色の魔術師たちを訪ねて

2015-04-17 @みなとみらいホール


山崎祐介(ハープ)
小林明子(東京都交響楽団ビオラ奏者)
小池郁江(東京都交響楽団フルート奏者)

ジャック・イベール:2つの間奏曲 Fl、Vla、Hp
ガブリエル・ピエルネ:奇想的即興曲 Hp
フランツ・シューベルト:アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821から第1楽章 Vla、Hp
アンドレ・ジョリヴェ:クリスマス・パストラーレ Fl、Vla、Hp
--------------------
アンコール(トリオ)
J.S.バッハ:管弦楽組曲第2番ロ短調から「ポロネーズ」


2015年上半期シリーズの最初のコンサート。
ハープ、フルート、ビオラという変わった組合わせのトリオだ。
プログラムに並んだ作曲家を見てもシューベルト以外は初めてお目にかかる名前・曲目ばかり。

説明を読むと、シューベルト(ウィーン)以外は全員フランス人。
このフランス人たちはいずれも19世紀後半から20世紀初頭に生まれ、活躍したのは当然20世紀で、一番若いジョリヴェは1974年に没したというから、まだ半世紀も経っていない。

つまり、<現代フランス音楽>という訳で、ハープやフルートという楽器もいかにもの感じがする。

しかし、ジョリヴェに若干の新しさ(現代音楽風味)を感じたけれど、イベールもピエルネも、癒し系イージーリスニングぽい音楽で大変耳ざわりの良いものだった。

ちょっと洒落たサロンミュージックという感じ。

一味違うのはもちろんシューベルトだ。
アルベジョーネ・ソナタは本来アルペジョーネ(6弦の小型チェロだが、ギターのようにフレットがある。)とピアノのための作品だが、アルペジョーネという楽器が短命であったためにいまではほとんどチェロに取って代わられており、たまにビオラなどの他の楽器で演奏されるそうだが、今回は、ビオラとハープという超珍しい組み合わせで聴いた。ビオラにせよチェロにせよ、元々6弦楽器用に書かれたものだから4弦で演奏するのは相当難しいようだ。

冒頭から泣かせるベタ甘の旋律だが、大好きな曲だ。
今日の楽器の組合わせも悪くない。これはこれで楽しめる。
サロンミュージック風アルペジョーネ・ソナタだ。

でも、やっぱり、きちんと聴くならチェロとピアノでガリガリと弾きまくってほしいな。

司会進行を兼ねたハーピストがアンコール曲を紹介するときに、最後は音楽の王道を演奏します、と言って曲名を言わなかったので、何だろ、と思ったら、バッハの管弦楽組曲第2番のポロネーズだった。第2番は全曲にわたってフルートが大活躍するが、とりわけこのポロネーズが心にしみて美しい。

洒落た現代フランス音楽もいいけど、やっぱり、ドイツ・オーストリアのクラシックこそ本当に音楽の王道だなあ、と納得するの巻だった。


♪2015-31/♪みなとみらいホール-13

2015年4月12日日曜日

N響第1805回 定期公演 Aプログラム

2015-04-12 @NHKホール


セバスティアン・ヴァイグレ:指揮
ヨン・グァンチョル:バス*
NHK交響楽団

ベートーベン:交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から
 ①前奏曲、②「それはほんとうか」*、③イゾルデの愛の死
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から
 ① 「親方たちの入場」、②ポーグナーのことば「あすは聖ヨハネ祭」*、③(第1幕への)前奏曲


N響とベートーベンの組合わせでは、時にびっくりさせられることがある。ジャナンドレア・ノセダ指揮の「運命」やロジャー・ノリントンの交響曲第7番(ほかベートーベン作品集)などは、これまでに聴いたことがない実に刺激的な演奏だった。
かと思えば、ネヴィル・マリナー指揮、セルゲイ・ハチャトゥリアンが独奏したバイオリン協奏曲は少しも刺激的ではなくて、つまりは堂々たる正統の音楽として好印象を残した。

何か特別の感慨を与えてくれそうなN響のベートーベン。
そんな期待を持って「田園」を聴いた。

でも、驚くようなことは何にもなかった。
相変わらず、弦・管の混ざり具合のきれいなこと。この透明感はやっぱり一流の音だと思う。まずはピッチに狂いがないからだろうな。その音を聴いているだけでも十分満足だが、その見事な響きを以ってたゆたう音楽「田園」を聴く幸せ。

ところで、ベートーベンはどうしてこれを5楽章形式にしたのだろう。
そこがまず変則なのに、第3楽章以降は途切れずに続けて演奏される(第3、第4楽章の終わりは音楽的にも小休止すらしていないから次に続けざるを得ない)ので、聴衆の耳には3楽章形式に聴こえる。これも大いに変則だ。
なぜこのように構成したのだろう?
…などと考えるともなく思いながらも、何の違和感もなく終曲に至った。これはこれでやっぱり必然形なのだろうと得心した。


交響曲がメインディッシュじゃないプログラムは珍しいけど、ワーグナーの楽劇からの抜粋が後半に据えられた。

ここで2つの楽劇が取り上げられ、いずれも各3曲ずつ。そのうち1曲はバスのヨン・ガンチョルという人の歌唱入りだった。
歌に馴染みはなかったけども管弦楽曲はよく聴いているものばかり。その馴染みのなかった歌も実に豊かな声量に驚きながら楽しめた。

「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」と「愛の死」は通常は一体のものとして演奏されることが多いが、今回は、その中間部に「それは本当か」という歌が入ったので、別々の独立した作品として演奏された。
若い頃はこの曲のどこがいいんだと思っていた。牛の涎のように終わりの見えない無限旋律についてゆけなかったけど、今となると心地良いのは、やはり慣れによるのだろうか。

できたら、楽劇はどちらか1本に絞ってアリアの出番も増やしてくれた方が楽しめたし良い勉強になったのにと思う。


♪2015-30/♪NHKホール-03

2015年4月11日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽堂シリーズ第4回定期演奏会

2015-04-11 @県立音楽堂


川瀬賢太郎:常任指揮者
豊田実加:首席ホルン奏者
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

モーツァルト:ホルン協奏曲第3番  変ホ長調 K447
ハイドン:交響曲45番 嬰ヘ短調 Hob.I45「告別」
シューマン:交響曲第3番 変ホ長調作品97 「ライン」
--------------------
アンコール
ピアソラ(大橋晃一編):アヴェ・マリア(ホルンと管弦楽)


実は、ホルン協奏曲には若干の不安があった。
けど、出だし快調。始め良ければ終わり良し。
これといって破綻もなく、多分、初めて聴く?作品を楽しめた。

ハイドンの「告別」は、音楽は多少の馴染みもあり、演奏上どういう仕掛けがあるか知っていたが、生の演奏を聴く・観るのは始めてで、なるほどおかしかった。

「告別」と聞くと「葬儀」をイメージするけど、ここでは言葉の本来の意味どおり「いとまごい」といった意味だ。

ハイドンたち宮廷楽団員の雇い主(エステルハージ公爵)が夏の別荘で思わぬ長居をすることになり、楽団員たちの単身赴任期間が延長されそうになって一計を案じたハイドンが、新しい交響曲で、もう家に帰らせてください!というシグナルを送り、公爵もその意味に気づいて滞在を切り上げたのだそうだ。

元々はオーケストラと言っても当時はとても小規模だったし、特にこの曲は13人だったらしい。避暑地の演奏形態としてポータブルにしていたのかも。

今回の神奈川フィルの編成はさすがにそんなに小さくはなくて、20人前後はいたように思ったけど、まあ、いつもの編成に比べると格段に小さい。

ハイドンには珍しい短調(交響曲全108曲のうち短調は11曲。)で、これは何事か!というただならぬ気配で始まる。
第2楽章は倦怠感たっぷり。
第3楽章は、型どおりのメヌエットを配置しました、という感じ。
そして問題の第4楽章。
後半アダージョに変調してから残り4分位からかな。楽団員が一人、また一人と舞台からいなくなってしまう。
照明もだんだん落ちていった。
ハイドンの初演時は消えてゆく楽団員はそれぞれろうそくを消して退場していったらしいからそれに倣った演出なのだろう。

やがて小規模弦楽合奏になり、そこから、チェロが去り、ビオラが去り、バイオリンを2人残して指揮者もいなくなる。
最後の最後はコンサートマスターがラストの音を弾き終えて彼も舞台を去る。

こういうハイドンらしいユーモアに満ちた仕掛けで、公爵も重い腰を上げざるを得なかったようだ。

コンサートは誰もいなくなった舞台に明かりがついて、休憩に入った。


この後、シューマンの「ライン」で、音楽的にはこれが一番の楽しみだったが、どうもいまいちピンと来なかった。

古典派の音楽は、オケも小編成なので、各パートの音もクリアに聴こえる、残響の短い音楽堂ならではのソリッドなサウンドがピッタリあっているように思うけど、ロマン派の場合、音があまりにクリアカットだと音楽としてはどうも情感に乏しい。
ましてやシューマンだ。芳醇な響きがほしい。
どうも、ハイドンの続きのような乾いたシューマンだったのは、音楽堂のせいもあるだろうけど、オケの規模が小さすぎたのかもしれない。

それはそれとして、前に、読響でモーツァルト「魔笛」序曲、シューマン交響曲第3番「ライン」、ベートーべン交響曲第3番「英雄」のプログラムを聴いた時の解説に、すべてに共通する「3」という数字に秘められた意味が書いてあったが、今回の神奈川フィルのプログラムにも同旨のことが書いてあった。

その表面的な部分だけ抜き出せば、ホルン協奏曲も「ライン」も第「3」番。
このいずれも変ホ長調で♭が「3」つ。
「告別」も嬰ヘ短調で♯が「3」つ。
「ライン」の冒頭は3拍子が2拍子に聴こえる作曲手法「ヘミオラ」を多重に用いて、本来の4分の3拍子と2分の3拍子の「ヘミオラ」に1分の3拍子の「二重ヘミオラ」の「3」つの3拍子を組み合わせている。
で、だから何だ、ということだが、キリスト教社会にあって、「3」は「三位一体」を表している。
教会音楽では長く頑なに3拍子が守られ、2拍子の導入は宗教上の大問題だったらしい。

たまたまのことなのか、作曲家がそんなこだわりを以って作曲したのか、僕は分からない。

♪2015-29/♪県立音楽堂-03

2015年4月10日金曜日

松竹創業120周年 中村翫雀改め 四代目中村鴈治郎襲名披露 四月大歌舞伎

2015-04-10 @歌舞伎座


●玩辞楼十二曲の内 碁盤太平記(ごばんたいへいき)
山科閑居の場

大石内蔵助     扇雀
岡平
 実は高村逸平太  染五郎
大石主税      壱太郎
医者玄伯      寿治郎
空念
 実は武林唯七   亀鶴
妻およし      孝太郎
母千寿       東蔵

●六歌仙容彩(ろっかせんすがたのいろどり)
〈遍照〉
僧正遍照      左團次
小野小町      魁春

〈文屋〉
文屋康秀      仁左衛門

〈業平小町〉
在原業平      梅玉
小野小町      魁春

〈喜撰〉
喜撰法師      菊五郎
祇園のお梶     芝雀
所化        團蔵
同         萬次郎
同         権十郎
同         松江
同         歌昇
同         竹松
同         廣太郎

〈黒主〉
大伴黒主      吉右衛門
小野小町      魁春

●玩辞楼十二曲の内 廓文章(くるわぶんしょう)吉田屋
劇中にて襲名口上申し上げ候

藤屋伊左衛門   翫雀改め鴈治郎
吉田屋喜左衛門  幸四郎
若い者松吉    又五郎
藤屋番頭藤助   歌六
おきさ        秀太郎
扇屋夕霧       藤十郎


「碁盤太平記」という演目があることは知っていたけど、これが所謂「忠臣蔵」の話とは知らなかった。大筋はこれまでにさんざ、映画、テレビなどで観てきたエピソードと同じだ。

大石内蔵助(扇雀)が吉良側を欺くために、遊興放蕩し、ついには、これを諌める妻(孝太郎)を離縁し、呆れる母(東蔵)からは勘当されてまでも、腹の中を隠し通そうとする。

吉良の家来・岡平(染五郎)は下僕に身を変えて大石に仕えながら彼らの動静を窺っていたが、字の読めないはずの岡平に手紙が届いたことから主税はその正体を見破り、若さゆえの短慮から、彼に斬りつけ、トドメを刺ささんとするところを内蔵助が押しとどめた。
内蔵助はとっくに岡平の正体を知りながら放置しむしろ陽動作戦に利用していたのだ。
しかし、主税が斬りつけたとあっては是非もない。
岡平に対し、吉良の身内なら屋敷の間取りを知っているだろうから、死ぬ前に教えてくれ、と虫のいいことを頼む。
頼まれた岡平は碁盤の上で碁石を並べて教えてから事切れる。

虫の息の岡平が吉良屋敷の間取りを教えるのは、実は岡平の親が浅野家家臣だったという理由だったか、大石親子の忠臣ぶりに情が移ったからか、ま、そんな理由があってのことなのだけど、この肝心な芝居に集中できずにいたものだから今や思い出せない。

筋書きを読めば思い出せる、あるいはそのものズバリの筋書きが書いてあったかもしれないが、終演後の飲み屋のはしごのどこかでカバンごと失くすという大失態。
それはともかく、NETで検索しても、「碁盤太平記」にはいくつかのパターンがあるらしい。


主役の名前が今回は「大石内蔵助」だったが、「碁盤太平記」の過去の上演記録では「由良之助」バージョンと「内蔵助」バージョンがあるようだ(後世、幾つもの忠臣蔵ものを集大成した「仮名手本忠臣蔵」では「大星由良之助」になっている。)。
名前の違いだけではなく、岡平の素性も、登場人物も若干異なる<あらすじ>が散見されるので、内容も少しずつ変化してきているのかもしれない、あるいは演出の違いなのか。

ま、ここはしかし、実の母や妻を欺かねばならない内蔵助や主税の心中と、斬られながらも死に際に大石親子の心中に共鳴する岡平の心の様をしっかり見届けなくてはいけなかったが、叙上の如く、岡平にはすまないことをした。

扇雀、染五郎の芝居は説得力があった。


さて、昼の部のメインは「廓文章 吉田屋」だ。

これは最近、テレビ録画で藤十郎の「伊左衛門」を観ていたのが良くなかったか。
四代目を襲名した鴈治郎がどんな風に演ずるのかという興味があったが、素人目にもどうも固い。

伊左衛門という男は、アホだけどにくめない人柄がとりえだと思うけど、それがいまいち出ていないように思う。
彼が惚れ込んだ夕霧はそんじょそこらにはお目にかかれないとびきりの才色兼備だ。そんな彼女でも商売抜きで心を寄せる、というにふさわしい伊左衛門の人柄がでなくちゃ、この話はアホらしいで終わってしまう。

そこがねえ。
ちょっと不足していたように思うよ。
夕霧が藤十郎で愛嬌振りまくのだもの、こっちのほうがずっと可愛い。

劇中口上では、芝居が面白おかしく口上につながって洒落ていた。
喜左衛門を演ずる幸四郎が紹介役なのだけど、貫禄十分!

♪2015/28 @歌舞伎座-02