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2025年5月16日金曜日

東京都交響楽団 第1021回 定期演奏会Bシリーズ

2025-05-16 @サントリーホール



クシシュトフ・ウルバンスキ
東京都交響楽団
アンナ・ツィブレヴァ:ピアノ*

【ショスタコーヴィチ没後50年記念】
ペンデレッキ:広島の犠牲者に捧げる哀歌
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番へ長調 op.102
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
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ショスタコーヴィチ:24の前奏曲 op.34から 第10番嬰ハ短調






ウルバンスキはかつて東響で何度も聴いた。たまたまかもしれないが、「レニングラード」や「カルミナ・ブラーナ」などの大作を実に面白く聴いたので好感を持っている。

後半の交響曲第5番を楽しみにしていた。

ショスタコの交響曲の中では抜群に聴く機会が多く、3回のうち1回は5番という割合だ。それだけ馴染んでいると、好きになる。確かに若い頃はこれを聴くと血湧き肉躍る感じで、アドレナリンが噴出したものだ。

それで、楽しみにしていたのではない。
なぜか、最近、耳タコのせいかどこが面白いのか分からなくなっているので、じっくり聴いて、昔の興奮を取り戻せないか?が課題だった。

ウルバンスキのオケ掌握は確かで、波のある都響だが、今日は良い出来だった様に思った。

が、やはり、この作品、どこが面白いのか?バラバラな楽想が無理やりくっついている気がしてダメだった。
2度続いたのでかなり重症だ。困ったことだ。


♪2025-061/♪サントリーホール-05

2021年11月14日日曜日

東京交響楽団川崎定期演奏会 第83回

2021-11-14 @ミューザ川崎シンフォニーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
東京少年少女合唱隊

バイオリン:弓新*
ソプラノ:盛田麻央
カウンターテナー:彌勒忠史
バリトン:町英和

シマノフスキ:バイオリン協奏曲第1番 op.35*
オルフ:カルミナ・ブラーナ

「カルミナ・ブラーナ」は今年の最大の楽しみだった。

しかも、指揮は久しぶりに好感度大のウルバンスキだ。


とは言え、「カルミナ〜」は過去にも名演を聴いており、特に2018年のNHK音楽祭におけるPヤルヴィ+N響の素晴らしい演奏が頭にこびりついている。


あれに敵うものはなかろう。

まあ肉薄できたらいい。

いや、生で聴けるだけでもよしとせねば…

と、うんとハードルを下げて臨んだが、どっこい。


バリトンが入るまでは少しもたつきを感じたが、徐々にエンジンが暖まり、オケも合唱も独唱も調子を上げて、こちらも前のめりに、オルフの描く奇妙な世界にズンズン惹きこまれて行った。


重厚で荘厳な響あり、自然賛歌あり、官能的な歌、清らかな世界を描く歌など聖俗混淆のごった煮が、次から次へと繰り出され、原始脳を刺激する狂乱の60分。


NHK音楽祭に立派に肉薄する!上出来だった。


欲を言えば、合唱がかなりの熱量だったとはいえ、薄い。

児童合唱団は10人、新国立劇場合唱団は48人?


これでは弦14型多くの管打鍵盤楽器を交えたオケを圧倒するには至らない。


因みに18年N響の「カルミナ〜」では児童50人、新国80人という編成だった。


今の時期ではやむを得ないが、出来が良かっただけに、やはり大ホールを揺るがす厚みが欲しかった。


前半にシマノフスキのVn協奏曲。急遽選手交代で弓新が登場したが、かつてチャイコを聴いて好感を持ったのでちょっと楽しみだった。

たぶん、技術的は相当難しそうだ。とても歌えない旋律?が延々と続き、決して心地良い音楽ではないけど、緊張感あふれる気迫の演奏にオケも応えて存外楽しめた。


♪2021-128/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-36

2019年3月23日土曜日

東京交響楽団 川崎定期演奏会 第69回

2019-03-23 @カルッツかわさき


クシシュトフ・ウルバンスキー:指揮
東京交響楽団
ヴェロニカ・エーベルレ:バイオリン*

モーツァルト:バイオリン協奏曲第5番イ長調* K219「トルコ風」
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調 作品43
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プロコフィエフ:無伴奏バイオリンソナタニ長調 作品115 第2楽章から*

カルッツかわさきでのクラシック・コンサートは先月初めの名曲全集以来の2度目。
そもそも、このホールはアコースティックな音響効果はうまくチューニングされていないのではないかと思う。

個人的な好みもあるが、このホールの響は乾きすぎていると思う。弦に潤いがない。とはいえ、管・打楽器では音はよく出ているので、芸術劇場のように舞台上で音が閉じ込められているような不快感はないのだけど。

ともかく、クラシック向きとは思えない。

まだ、しばらくミューザが改修のために使えないので東響川崎定期も名曲全集もカルッツで開催されるのが、辛いところだ。

ヴェロニカ・エーベルレは初めてだとばかり思っていたら、2015年に読響との共演でメンデルスゾーンの協奏曲を聴いていた。その時の記録には可もなく不可もなく、あまり印象に残らなかったようだ。で、今回もまあ上手な演奏だと思うけど、モーツァルトじゃ独自色も出せないのかもしれない。

なぜ、モーツァルトとショスタコーヴィチがカップリングなのか分からない。プログラムにもコンセプトが書いてない。

政権に翻弄されたショスタコーヴィチにとって色々な思いのこもった作品なのだろうが、何しろ馴染みがほとんどないので、楽しめるというところまでは至らなかったけど、モーツァルトとの対比では編成の規模が倍ほど大きく(ショスタコの全交響曲15曲中最大編成だそうな。)、楽器も多彩なので、退屈することもなかった。

後刻、Wikipediaを読むと弦の編成も指定してあるようで、それによると22型!で弦だけで90人。菅・打楽器を含め合計134人を必要とすると書いてある。
この日の東響は大編成ではあったが、これほどではなかった。第一、134人もステージに並ばないのではないか。一度見てみたいし聴いてみたいが。

♪2019-023/♪カルッツかわさき-02

2015年10月11日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第111回

2015-10-11 @ミューザ川崎シンフォニーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
小菅優:ピアノ*
東京交響楽団

ベートーベン:「エグモント」序曲 作品84
ベートーベン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37*
ベートーベン:交響曲 第3番 変ホ長調 作品55 「英雄」


オール・ベートーベン・プログラム。

どれも聴き馴染んだものばかりだけど、何度聴いても満足感がある。

東響は管も弦もきれいで安定感がある。両者が交響する時に管弦楽の醍醐味を感じさせてくれる。

この日のピアノの音は抜けの良い音で気持ちがいい。
タッチの問題ではないし、席の問題でもない(いつも同じだから)。
不思議に、日によって音が違う。
ベートーベンの唯一短調のピアノ協奏曲だが、第3楽章の途中に登場するクラリネットから始まる長調のテーマにウィーンを感じたなあ。
最近、独墺の音楽に、ドイツらしさとウィーンらしさを嗅ぎ分けようと意識しているので。

指揮のウルバンスキはとてもシャイな人柄のようだ。
指揮者である以上大きな身振り手振りが必要だが、それがどうも板についている感じがしない。
しかし、音楽への誠実、堅実、冷静な態度が伝わってきていつも好感できる。

「英雄」では、ベートーベンが如何に精緻な構造物を作り上げたかを今更ながら実感できたのはウルバンスキの丁寧な音楽作りとそれに応える東響の優れた演奏によると思う。



♪2015-101/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-21

2014年10月18日土曜日

東京交響楽団第624回定期演奏会

2014-10-18 @サントリーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
庄司紗矢香:バイオリン
東京交響楽団

ヴィチェフ・キラル:交響詩「クシェサニ」
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53
ヴィトルト・ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲
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アンコール
パガニーニ:「うつろな心」による変奏曲から(Vnソロ)



6日前に同じウルバンスキ指揮東響でショスタコの大作を聴いたが、今日は、彼の故郷ポーランドの現代作曲家と隣国チェコの大家ドボルザークのプログラム。

ドボルザークは聴き馴染んでいるけど、ポーランドの2人は初めて聞く名前であり、音楽も初めてだ。

ヴィチェフ・キラルという人は、1932年生まれで2013年(去年!)まで存命だった人だ。その作品交響詩「クシェサニ」(「打つ」とか「閃光」というような意味らしい。)は74年の初演なので、もうとびきりの現代音楽だ。

7分程度の小粒な作品だけど、オーケストラの規模はものすごい。
ティンパニは3人の奏者が計9つを操るのも壮観。
木管、金管の数も非常に多く、これに見合う弦楽5部の総勢もステージに目一杯並んでいる。そして、オルガンも使われた。

この大編成は、ドボルザークを挟んで最後のヴィトルト・ルトスワフスキ(1913~1994)の「管弦楽のための協奏曲」においてもほぼ同様に維持されていた。


コチラの初演は「クシェサニ」より少し古いがそれでも1954年だ。
だからというわけでもないのだろうけど「前衛度」は「クシェサニ」程ではなかったものの、やはり、一体これはなんだろう?というような感じの音楽だ。
2作ともポーランドの民族音楽が取り入れられているそうで、それを感じさせる部分もあるし、そういう箇所はメロディを追うこともできるけど、全体としては強烈な不協和の連続で、こんな音楽ならいっその事調弦しなくともいいのではないかとさえ思わせる。

ところがどっこい。CDで聴けばとても聴くに耐えないだろうが、この100人超のオーケストラで生を聴くと、これがなかなかおもしろいのだ。
また、聴いてみたい、というより、あのプリミティヴな感性を直撃するような体験をもう一度味わってみたいという気にさせる。

ただし、不協和大音響と変質を繰り返す強烈なリズムに浸りながら、「音楽ってなんだろう」と、これはいつも現代音楽を聴く度にもたげる疑問を同居させていたが。



ドボルザークは中規模編成。といっても60人位だろうか、これでもハイドンが見たらびっくりするような大編成だろうけど、この規模で演奏したのは当然なのだろうね。

このスラブぽいちょっとセンチな曲調が、掃き溜めに鶴といった感じでとても安心感を与えてくれた。

ウルバンスキは、前回のショスタコ第7番も完全暗譜で指揮をしたが、今回も3曲とも総譜は持たなかった。
ドボルザークはともかく、他の2曲は極めて複雑な上「~協奏曲」など3楽章構成で30分程度の長さはあるのだけど、よく隅々まで勉強が行き届いているんだろうな。
完全に自分のものにしているのはすごいよ。

♪2014-93/♪サントリーホール-05

2014年10月12日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第101回

2014-10-12  @ミューザ川崎シンフォニーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
東京交響楽団

ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」


今月は東京交響楽団のコンサートが3回も続くことになった。
前回はオール・プロコフィエフ・プログラム。
今回はオールというかオンリーというかショスタコーヴィチの交響曲第7番だけ。
(因みに次回はチェコとポーランドの作品。)

演奏されるのが1曲だけ、というのは演奏時間が長いからで、プログラムに記載された(予定)時間は75分だ。当然休憩はなし。

この交響曲は、1941年末に完成し、初演は42年3月だった。
この時期は、ちょうどナチス・ドイツによるレニングラード包囲戦(41/9/8~44/1/18。戦闘自体は大掛かりなものではなかったが、交通が遮断されたことで軍人のみならず一般市民の多くが飢餓の犠牲となった。その数100万余人と言われている。)のさなかだ。


ショスタコはレニングラードに生まれ、その時点も暮らしていた。
いわば戦火の中で作曲を続け、第3楽章まで仕上げた後脱出して、当時政府の疎開地であったクイビシェフ(現在のサマーラ)に移り住んでから終楽章を書き上げて完成させたそうだ。

「レニングラード」を書く前(1936年)に共産党から所謂「プラウダ批判」を受け、作風を一変させてかの有名な交響曲第5番(日本では「革命」という副題が付いている。)を発表して熱烈歓迎され、その後は政府の路線に沿った作品を作り続けた。

交響曲第7番もその延長上にあり、対ドイツ戦のプロパガンダの側面は否定できない。
「反ナチズム」を込めたこの大曲の初演は厳しい環境の中だがソ連人民に受け入れられ成功した。

しかし、ショスタコはその後もジダノフ(ジダーノフとも)批判にさらされ、その評価が二転三転した作曲家だ。

第5番の評価・解釈も未だに定まっていないようだが、第7番も同様で、壮大なる失敗作という評があった。今もあるようだ。
一方、ショスタコが残した「証言」によって、第7番は「反ナチズム」というだけではなく、スターリンの圧政も含む「反ファシズム」を描いたものだという話になると、これまた評価が変わってきたようだ。中身は変わっていないのだけど。


音楽という抽象芸術は、生み出された途端、人の手を渡るたびに数々のストーリーを纏うことになる。作曲家の頭の中にあった音楽(コンテンツ)は、純粋な形ではもはや存在し得ない。
スコア(総譜)は共有されても、演奏家の解釈はそれぞれだし、同じ演奏を聴いても聴く耳の数だけの受け取り方がある。
その音楽がこれまでに纏ってきたストーリーが演奏家や聴衆をコンテンツから遠ざけたり過剰評価の原因を作るのだ。

佐村河内事件も、コンテンツがあまりに美しいストーリーを纏って登場していたのに、本人の作品ではなかったことが知られてしまうと、今度は薄汚いストーリーを身に纏うことになってしまった。コンテンツは少しも変わっていないのだけど。

僕は、佐村河内、否、新垣氏の作品が本当は立派なものだとか言うのではない。第一、聴いたことがないのだから好きも嫌いもないのだ。そうではなくて、(少なくとも)音楽はコンテンツが純粋に評価されることはない(作曲技法となると評価できるだろうけど)。
常に、我々はそれが身に纏ったストーリーを一緒に味わっている、ということを言いたいのだ。
良くも悪くも両者は切り離せない。
ストーリーは薄汚れているがコンテンツは美しいと言えればいいだろうけどそう簡単に割り切れない。割り切ってみたところで、その実、それはまたそういうストーリーを新たに付加させるのだ。

クラシック(音楽)は、そのストーリーに安定性がある。各自のストーリーがおよそ共有されるだけの時間を経てきたからだ。
安定評価までには長い時間がかかる。世間一般の評価が安定してきても、各人の受け取り方が一律になる訳ではない。各人には各人のストーリーがある。


で、この「レニングラード」は初めて聴く音楽だった。

でも、随所にショスタコーヴィチらしい旋律が顔を出して、全体として違和感なく受け入れることができた。
4つの楽章にはそれぞれショスタコが描いたイメージがある(最初は副題が付けられていたらしい。)。
「戦争」、「回想」、「祖国の大地」、「勝利」だ。

各楽章、そのイメージに沿って聴いておれば、なるほどそういう感じもする。
ただ、第3楽章は切れ目なく第4楽章に突入するので、そこのところを僕は聴き取れずに少しうろたえてしまった。

この曲も、先日の「千人の交響曲」程ではないにしてもオーケストラは大規模で、トランペット、トロンボーン各3本の組が2組。ホルンは9本。これに見合う弦や木管が並ぶ。
ラストの勝利の雄叫びは強力なものだった。


指揮のクシシュトフ・ウルバンスキも初めて。
ポーランド出身の32歳くらい。
レニングラード包囲戦は祖父の時代の話だろうが、ナチス・ドイツにもソ連にも侵略を受けたポーランド人としては、この曲を指揮するに当って、ショスタコが「証言」に残したように「反ファシズム」のストーリーを展開させたのではないだろうか。

75分の長尺を、暗譜で振り切った。
なんだか、すごいぞ!という感動のさざなみがホールにこだましたような気がした。

これが、僕の「レニングラード」が最初に纏ったストーリーだ。

♪2014-92/♪ @ミューザ川崎シンフォニーホール-11