2015年1月24日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第305回定期演奏会

2015-01-24 @みなとみらいホール


サッシャ・ゲッツェル(首席客演指揮者)
チーデム・ソヤルスラン(ソプラノ)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

コルンゴルト:組曲「シュトラウシアーナ」
R.シュトラウス:4つの最後の歌
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 (ノヴァーク版)


神奈川フィル「みなとみらい」定期としては今年最初の演奏会であり、指揮者サッシャ・ゲッツェルがウィーン出身ということもあったのかもしれないが、今回は「ウィーン関連でまとめました」というところか。

●コルンゴルトはオーストリア人で、ウィーンで活躍後、ハリウッドに渡った人だ。この人の作品は何故か最近聴く機会が多い。
もっとも、組曲「シュトラウシアーナ」はその存在さえ初めて知ったくらいだから聴くのも初めて。
コルンゴルトは、ウィンナ・ワルツ王ヨハン・シュトラウスⅡに大変傾倒していたらしい。「シュトラウシアーナ」は、そのシュトラウスⅡの作品をアレンジしたもので、3つの部分で構成されている。

1ポルカ、2マズルカ、3ワルツだ。
原曲がヨハン・シュトラウスⅡなので、全体を通してとても軽妙だ。でもわざわざ、1953年に至って作曲(正しくは編曲?)する以上、やはりオーケストレーションに新しさがあり、ハープやグロッケンシュピールなどを使って全体に華やかになっている。
コルンゴルトはこの曲に先立ってピアノ曲で「シュトラウス物語」という作品も同じ趣向で作曲しているというから相当なシュトラウス党だったのだろう。

●R・シュトラウスはオーストリア人ではなくドイツ人だ。といってもかつてドイツとオーストリアは同じ国であったのだから、今回のプログラムは「ウィーン」で束ねてみたというより、「ドイツ語圏」で束ねたという方が正確だろうが、そういう束ね方にあまり意味があるとも思えない。何しろ、バロック以降の作曲者リストを作ればその大半はドイツかオーストリア出身だから。

でも、R・シュトラウスがウィーンを活躍の場(の一つ)としていたことは確かなので、「ウィーン」関連であることには間違いない。

この「最後の4つの歌」はR・シュトラウスらしい大規模な管弦楽を伴奏にするソプラノ歌曲集だ。
死の前年(1948年)に作曲されたもので、事実上最後の作品(彼の死後もう1曲歌曲が作曲されたことが発見された。)だ。

4曲セットで、初めの3曲(春・9月・眠りにつく時)はいずれもヘッセの詩に基づいている。
最終曲(夕映え)だけアイヒェンドルフの詩に作曲したもの…と言ってもそんな詩人は知らなかったけど。
現代の作品だが、調性もギリギリ保っているようで、おっとりしたきれいな曲だ。特に最終曲が心平安にして死に臨むといった曲想のようできれいなソプラノと相まって好感が持てた。


●ブルックナーの交響曲第9番は、10曲ある交響曲中最後の作品。書くつもりの第4楽章がまったく進まず第3楽章までの未完成で終わっている(第0番があるので第9番までで全10曲)。
どういう訳か比較的聴く機会が多い。
だが、率直にいって、なかなか喰い付いて行けない。
大げさで虚仮威しのような部分があるかと思えば、えらく鎮静してしまったりして、未完成と言っても60分を超える長大曲であるので、どうも緊張感の維持が難しいような気がする。

第4番(ロマンティック)や第5番などは親しみがあるので生のオーケストラで聴くのは大いに楽しみなのだけど、第9番はしばらくは僕の鬼門かも知れない。

いや、はっきり言えば、今日の演奏は、僕の緊張感もいまいちだったけど、演奏している側も緊張の糸が途中でほつれでしまったような気がした。技術的なミスではなく、演奏者全員の呼吸が途中から揃わなくなったような気がしたのは、僕の方の呼吸が演奏にシンクロできなかっただけなのかもしれないけど。

♪2014-10/♪みなとみらいホール-04

2015年1月22日木曜日

第189回オルガン・1ドルコンサート ~オルガン・パラダイス~

2015-01-22 @みなとみらいホール



原田靖子:オルガン

メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」から『結婚行進曲』
サン=サーンス:組曲「動物の謝肉祭」から『水族館』
モリコーネ(原田靖子編曲):ニュー・シネマ・パラダイスから"ニュー・シネマ・パラダイス~初恋~愛のテーマ"

J.S.バッハ:装いせよ、わが魂よ BWV654
J.S.バッハ:パッサカリア ハ短調 BWV582



最初の3曲は有名な管弦楽曲をオルガン用に編曲したもの。
華やかな「結婚行進曲」で幕開け。
サン=サーンスの「動物の謝肉祭」から「水族館」は前回のこのシリーズでも聴いた。「ひとりオーケストラ」が可能なパイプオルガンならではの多彩な音色(クラシックコンサートには珍しくカラフルな照明も。)が可能なのでオルガン版「水族館」も面白い。

「ニュー・シネマ・パラダイス」メドレーはオルガニストの原田さん自らの編曲だそうだ。

ここまでは馴染みの曲だけど、あいにくとバッハの2曲は覚えがなかった。「装いせよ~」は元の曲は他の作曲家による賛美歌をバッハがオルガン・ソロにしたとプログラムに書いてあったが、それでは「編曲」なのだろうか、と思って帰宅後調べたが、その点はどうもはっきりしなかった。「様々な手法による18のライプツィヒ・コラール(BWV651-668)」の1曲らしい。4声の作品で、楽譜も見ることができたが、足鍵盤も付いているオルガンだからこそ1人で演奏できるんだろう。
こんな機会でなくては聴くことができない音楽だ。

<装いせよ、わが魂よ BWV654の冒頭>

でも、最後の大曲「パッサカリア(とフーガ)ハ短調」って、かなり有名な曲で、クラシック音楽ファンとしては承知しておかなければ恥ずかしいような曲らしい。
そんな有名な曲ならタイトルは知らなくとも少し聴けば思い出すかも、と思っていたが、なかなかどうしてサッパリ思い出せない。
やはり、初めて聴くのだろうか、と焦りもしたが、音楽自体はなかなか壮大で、パッサカリアが低音部のメロディを反復しながら上声部が変化してゆくものであることは知っているので、曲の構造は分かりやすい、とは言えるけども実際はなかなか耳が追いつかない。
まずは低音部だけで主題が8小節が演奏され、次に文字どおりこれをベースにした変奏が21回繰り返される。徐々に変奏が複雑になり、最初は数えていた変奏回数も中程で分からなくなる。
   <パッサカリア ハ短調 BWV582の主題と第1変奏>

そのうち、一呼吸置いて最後のフーガが始まるが、これが派手だし、その畳み掛けるような形式からフーガであることは一聴瞭然。


最後の最後は主和音で終わるべきだから当然にハ短調…かと思ったけど、楽譜を見ると最後の数小節はハ長調に一時的に転調しているようで、最終音はハ長調の七重和音(Cmajor)が長く怒涛のごとく大ホールに轟いて、これは怖いくらいの音響体験だった。
繰り返し単純で覚えやすい低音主題を聴いたので、もう二度と「パッサカリア ハ短調」を忘れることはないだろうと思った。
   <パッサカリア ハ短調 のフーガ最終部>

ところが、帰宅後調べてみたら13年の暮に、レスピーギが管弦楽に編曲したこの曲を同じみなとみらいホールで聴いているんだ。いやはや何を聴いていたんだろうと思う。
因みにレオポルド・ストコフスキー、アンドリュー・デイヴィスほかも管弦楽編曲を残している。また数人の作曲家がピアノ1台用や2台用に編曲しているようだ。

♪2015-9/♪みなとみらいホール-03

2015年1月17日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会 ミューザ川崎シンフォニーホール  ~ウィーンの風 ―甦る名曲たち~ 

2015-01-17 @ミューザ川崎シンフォニーホール


サッシャ・ゲッツェル(首席客演指揮者)
山本裕康(首席チェロ奏者)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ワーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」より第1幕への前奏曲
コルンゴルト:チェロ協奏曲ハ長調
ベートーベン:交響曲第3番変ホ長調「英雄」
-----------
アンコール
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番から「サラバンド」(チェロ)
J.シュトラウスⅡ:ポルカ「浮気心」(管弦楽)


1月半ばだというのにチャイコのピアノ協奏曲が2回続き、「英雄」も中1日での登板だ。飽きる訳ではないけど、ワクワク感はない。
特に「英雄」は、指揮者もオケも同じ。ホールが異なるだけ。
今回は定期とは別の演奏会だったので、事情を知った上でチケットを買ったのだから文句は言えない。

特別演奏会の方はシニア割引があって安いのと、ホールや座る場所で同じ演奏の音の響がどう異なるか、という興味もあったから。

で、その音響は、県民ホールも良く鳴っていたし、ミューザもどこで聴いてもそれなりの楽しみがある、ということを再確認した。

コルンゴルトについては1枚のCDも持っていないけど、バイオリン協奏曲は何度か聴いている。
しかし、チェロ協奏曲も書いているとは知らなかった。

バイオリン協奏曲ならYoutubeで視聴もできる。Amazonでホンのさわりだけなら試聴も可能だ。
ところが、チェロ協奏曲となるYoutubeでもAmazonでも見当たらない。
悲しいかな、昨日聴いた曲を思い出せないのだ。サワリだけでも聴けばどんな感じだったかくらい思い出せると思うのだけど…。
まあ、短い曲だった。全1楽章だったと思う。

ぎりぎり19世紀末の生まれだけど、20世紀の作曲家だ。ユダヤ系であったために故国オーストリアでは長く活動することができずハリウッドに渡った。映画音楽の作曲家として名高いが、20世紀の作曲家と言っても基本的には後期ロマン派で、あまりこむつかしいところはなかったように思う。
この曲も、元は映画のために書かれた作品を後日手を入れてチェロ協奏曲に仕上げたらしい。ただ、なんとしてももう一度聴きたいといったピンと来るようなものはなかったけど、これも何度も聴いておれば面白さが湧いてくるのかもしれない。



「英雄」は一昨日、同じ演奏家の組合わせで聴いているが、前回は第4楽章がゆったりしていると思ったが、その後、手持ちのCDを聴いてみたら、万事遅めの朝比奈隆は別としても万事速めのトスカニーニでさえ後半(Poco Andante)はずいぶんゆったりだったので、サッシャ・ゲッツエル(ウィーン生まれ)のテンポは、案外オーソドックスなものなのではないか、と思い直して聴いた。
そう思って聴けばこれでいいのかな、とも思えてくる。

去年N響で聴いたロジャー・ノリントンのベートーベン第7番や11日に聴いたジャナンドレア・ノセダ指揮N響の「運命」に驚嘆した僕としてはノリントンやノセダが「英雄」をどう料理するのかも是非聴いてみたいものだ。



♪2015-8/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-02

2015年1月16日金曜日

読売日本交響楽団第540回定期演奏会

2015-01-16 @サントリーホール


準・メルクル:指揮
金子三勇士:ピアノ
読売日本交響楽団

ウェーベルン:パッサカリア 作品1
シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調作品54
ブラームス(シェーンベルク編曲):ピアノ四重奏曲第1番(管弦楽版)ト短調作品25


本来聴くべき11日のみなとみらい定期がN響定期と重なったのでこの日に変更してもらった。
やりくり先としては可能な限りサントリーホールにしている。一番足の便がよく、音響面でもまったく不満がない。

もっとも、本当に日本で一番優れたホールかどうかはよく分からない。
ミューザ川崎シンフォニーホールの方が、聴きやすいような気もするし、場所を選ぶ難点はあるけどみなとみらいホールも素晴らしい。
聞く場所より、聴く側の集中力に音楽鑑賞を有意義なものにできるかどうかがかかっているような気が、この頃している。

昨日は、前半良かったのに後半は携帯ピロピロおばさんのせいですっかり集中力を欠いてしまった。

今日は、そんな邪魔もされず、比較的入り込めたが、冒頭のウェーベルンの「パッサカリア」が初めての曲で、おまけに、ほぼ無調(12音技法などの完全な無調作品ではない。)と言っていいのだろう。部分的にはきれいな旋律も流れるけど、なかなかハードルが高い。この手の現代音楽は何度か聴いたからといって馴染むものでもないように思う。音楽の性格がロマン派までとは革命的に異なるのだ。その変化に僕は対応できていないし、今後も努力して対応する気持ちもないのだから、一生、楽しめないまま終わるかもしれない。






こういう音楽を聴いた後では、シューマンの情緒性が天国のように思える。ピアニストの金子三勇士(かねこ・みゆじ)は初めて。ハンガリー人とのハーフだ。そういえば、指揮の準・メルクルもドイツ人とのハーフだ。西洋クラシック音楽の世界で国籍は関係ないと思うけど、やはり、独墺の音楽には血が騒ぐということがあるのだろうか。

シューマンが見出した出藍の誉れがブラームスだ。
ウェーベルンの師匠は12音技法の生みの親シェーンベルクだ。
そのシェーンベルクは、自己の音楽的血統をブラームスに求めていたらしい。

彼は、ブラームスのピアノ四重奏曲第1番を大規模な管弦楽に編曲した。まことに大規模で、シューマンの協奏曲の時はコンバスは4本しか出ていなかったが、この管弦楽版ピアノ四重奏曲では倍の8本が並んだ。他の弦パートも推して知るべしで、弦楽5部だけでほぼ60人。管打楽器を入れて約90人という編成だった。
原曲はわずか4人で演奏される音楽だが、これを大規模管弦楽で演奏するというのは、シェーンベルクが19世紀のブラームスに当時は早すぎたのかもしれない革新性を見出し、それを20世紀の精緻なオーケストレーションで証明しようとしたこと、さらには自分自身こそブラームスの後継者であると世に知らしめたかったのではないか、とプログラムには説明してあったが。



この管弦楽版を生で聴くのはこれで2回めだ。最初聴いた時は耳に慣れた弦楽四重奏曲との違和感が拭えず、第3楽章のジプシー風ロンドに至って、初めて「管弦楽」で聴く面白さを感じたのだけど、まあ、やっぱり、今回もそういう感じかな。
シェーベルクの意図がなんであれ、ピアノ四重奏曲として完成している音楽がある以上、やはりブラームス版で聴きたいな。




余談:
1月12日に「新世界より」より「新世界から」にしてほしい、と書いたが、今日のコンサートで配っていた読響2月公演のチラシがなんと「新世界から」だった。こうでなくっちゃ。



♪2015-7/♪サントリーホール-01

2015年1月15日木曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホールシリーズ 第2回

2015-01-15 @県民ホール


サッシャ・ゲッツェル(首席客演指揮者)
小山実稚恵(ピアノ)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23
ベートーベン:交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄」
--------------
アンコール(オーケストラ)
J.シュトラウスⅡ:ポルカ「浮気心」

12日に東響+中村紘子でチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いたばかりだったが、今日は神奈フィル+小山実稚恵で同じ曲だ。
ちなみにベートーベンの「英雄」も17日に同じくサッシャ・ゲッツェル+神奈川フィルで聴くことになっている。
最近、コンサートが続いているので、図らずも結果的にしりとり遊びみたいな選曲が続いている。
同じ曲ばかりでは面白味がないけど、一方で聴き比べという楽しみもある。「英雄」の方は演奏者が同じでも今度はミューザ川崎シンフォニーホールなので、ホールの違いが音楽にどう影響するのか、という聴き方もできる。

さて、チャイコフスキーだけど、今日の小山実稚恵、もともと個人的には好みにフィットする人なのだけど、中村紘子のケレン味のある演奏(心の中で「女コバケン」と僕は呼んでいる。)に比べて、実にノーマルで端正な演奏だ。大げさなテンポルバートで気を惹くようなことがなく、だいたいインテンポだった。楽譜に書いてないことまでは演奏しないという感じがしたがどうなのだろう。とにかく、僕としては聴いていて好ましい。
アンコールがなかったのはちと寂しかったが。

「英雄」はややテンポが遅い気がしたが、僕はベートーベンの交響曲はアップテンポで乾いたのが好きなので、好みとは違う方向だけど、全体としては気合の入った熱演だった。先日の東響のチャイコや「新世界より」に比べて弦の編成が大きかったせいで、重厚な響だった。

NHKホールを範にしたという県民ホールはなかなか音がしっかり届いて迫力があるのがいい。

隣の老婦人が携帯電話の電源を切らず、マナーモードにさえせずにかばんに入れていたので、第1楽章が始まる直前になりだした。慌てて止めたが、スリープにしただけで電源を切った様子がない。これではまたかかってくるのではないかと不安に思っていたら、案の定、第3楽章でまたピロピロだ。
おかげで集中力を欠いてしまった。

今どき、電源を切らないなんて、また、一度着信して恥をかいているのになおも電源を切らないなんてまったくその感覚が信じられない。
終演後、穏やかに注意をした。「電源の切り方をご存じないのですか?」すると、「主人の具合が悪くて電源切る訳にゆかなかったんです。」という理解不能な答え。演奏中でも電話にでるつもりだったの?そんなに心配なら家で看病していなさいよ。
「そうであっても、演奏中は電源を切るべきでしょう。」「はいすいませんでした。」という次第だ。
本当に済まないと思っているとは思えなかった。理解できない。


♪2015-6/♪県民ホール-01

2015年1月14日水曜日

初春歌舞伎公演「通し狂言 南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」

2015-01-14 @国立劇場大劇場


曲亭馬琴=作
渥美清太郎=脚色
尾上菊五郎=監修
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)  五幕九場
                                                             
国立劇場美術係=美術


発 端    (安房)富山山中の場
序 幕    (武蔵)大塚村蟇六内の場
        本郷圓塚山の場
二幕目   (下総) 滸我足利成氏館の場
       同   芳流閣の場
三幕目   (下総) 行徳古那屋裏手の場
四幕目   (武蔵) 馬加大記館対牛楼の場
大 詰   (上野) 白井城下の場
      (武蔵) 扇谷定正居城の場


尾上菊五郎⇒犬山道節
中村時蔵⇒犬坂毛野
尾上松緑⇒網乾左母二郎/犬飼現八
尾上菊之助⇒犬飼信乃
坂東亀三郎⇒犬田小文吾
坂東亀寿⇒犬川荘助
中村梅枝⇒蟇録娘浜路
中村萬太郎⇒犬村大角
市村竹松⇒馬加鞍弥吾
尾上右近⇒里見家息女伏姫
尾上左近⇒犬江親兵衛
市村橘太郎⇒横堀在村
河原崎権十郎⇒巨田薪六郎
市村萬次郎⇒蟇六女房亀笹
市川團蔵⇒大塚蟇六/馬加大記
坂東彦三郎⇒足利成氏
市川左團次⇒扇谷定正
ほか

「南総里見八犬伝」は、曲亭馬琴が28年の歳月をかけ106冊で完結した大長編伝奇(怪奇・幻想)物語だ。岩波文庫で10巻という。もちろん原作は読んだことがない。しかし、子供の頃に、映画かTVで観た記憶がうっすらとあり、子供用にダイジェストしたものは読んだので、およその話は知っていた。


今回の鑑賞を前にして、あらすじだけでもさらっておこうとしたが、適当な記事が見当たらず、あらすじと言っても長編すぎたり、逆に誠に簡素な紹介だったりで、ピタッと来るものはない。特に歌舞伎では原作を相当端折っているはずだから、その歌舞伎の筋に合わせたような物語解説や見どころ説明が欲しかったが、ついに見当たらなかった。
そんな訳で、昨日は、これでは楽しめるかしら、という不安を抱えつつ出かけた。

しかし、杞憂だった。
もちろん、劇場到着後プログラムを買って各幕・場の内容はひととおり目を通しておいた。その程度で、十分に楽しめる。
話が難しくないのだ。とても分かりやすい。歌舞伎にありがちな、<某実は某>というような複雑な関係は3人しか登場しないし、それも敵を欺くために仮の姿に扮しているものなので、混乱することはない。

要は、敵と味方さえ見間違えなければ物語の理解に手間取ることはない。

これは、犬と伏姫の間に生まれた時に玉となって飛び散った八犬士が徐々に集結して行き、お家再興を図るという活劇だ。

目で楽しむ歌舞伎としては(物語の妙、と言う点では他に譲るが)、僕がこれまでに見た演目では最高に素晴らしい。


見どころはいくらもある。
序幕:本郷圓塚山の場
雪に覆われた圓塚山は全景が真っ白だ。
初めて犬山道節(菊五郎)の火遁の術が披露されるが、まず、これにびっくりする。国立劇場でもここまでやるか!
真っ白な背景の中で真っ赤な炎の色彩対比がすばらしい。

同じ場の最後に金襴緞子に身を包んだ八犬士が勢揃いする。
筋とは関係がない。幻想的な場面だ。所謂だんまりの類と言っていいのではないか。それぞれが見得を切ってみせる実に贅沢な美しい場面だ。

二幕目:芳流閣の場
舞台装置が見事だ。舞台いっぱいに芳流閣の大屋根が作られている。灰色の瓦に白い漆喰模様がきれいだ。その上で犬塚信乃(菊之助)が大勢の捕手に追い詰められる大立ち回りだが、信乃の衣装も捕手の衣装も赤を主体にしていて、この大屋根のグレイトーンの中で、とても美しく映える。

切っても、投げても、討っても、捕手は次々と現れる。
やがて乱闘のさなか舞台が回り、こんどは緑青の銅葺きの大屋根が現れ、ここでも色彩のバランスが渋い。

やがて、まだ、犬塚信乃とは味方同士とは互いに知らない犬飼現八(松緑)が捕手に代わって信乃を追い詰めるのだが、勝負がつかないまま大屋根からもんどり打って利根川に落ちる(ところは演じられなくて幕が引かれる)。

大詰め:白井城下の場
ここでも、道節の火遁の術が披露されるが、これがいっそうすごい。息を呑むような見事な舞台美術にもう唖然とする。
スーパー歌舞伎もびっくり!というところだ。

今回の演出には監修も担当している菊五郎の意向が反映されて、季節感の明確化、その視覚化に工夫が凝らされている。

プログラムに掲載された<補綴のことば>として「初芝居として『八犬伝』を題材にした極彩色の絵本を楽しむ感覚で、お楽しみいただければ幸いです。」と結んであったが、まさにそのとおりに存分に楽しむことができた。

ギリギリまで演出に工夫が加えられたのだろう。大詰めでは筋書きや登場人物に微修正が施され、その変更がプログラムに1枚紙で挟みこんであった。


なお、「南総里見八犬伝」の上演は国立劇場では24年ぶり4回目で、奇しくも今回は「南総里見八犬伝」刊行開始200年という節目だそうな。


♪2015-5/♪国立劇場-01

2015年1月12日月曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第104回

2015-01-12 @ミューザ川崎シンフォニーホール



秋山和慶:指揮
中村紘子:ピアノ
東京交響楽団

J.シュトラウスⅡ:ワルツ 「春の声」
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 
ドボルザーク:交響曲 第9番 「新世界から」
---------------
アンコール(ピアノ)
ショパン:練習曲 ハ短調「革命」 作品10-12 
ショパン:ポロネーズ第1番 嬰ハ短調 作品26-1
ラフマニノフ:前奏曲 作品32-12
J.シュトラウスⅠ:ラデツキー行進曲(管弦楽)

東京交響楽団の、ニューイヤーコンサート…と銘打ってはいなかったけど、シュトラウスⅡの「春の声」(管弦楽版)で始まり、アンコールにシュトラウスⅠの「ラデツキー行進曲」で終わったので、ニューイヤーコンサートの定番をなぞっている。

「名曲全集」の前回(12/27)も、指揮が秋山和慶、コンマスが大谷康子と東響の顔が揃ったが、年初も同じ顔ぶれに加えて、ピアノ協奏曲のソリストとして中村紘子が登場して、なかなか華やかなニューイヤーの出発だった。

この人が登場すると、コンサートはまるで中村紘子リサイタルの様相を帯びてくる。
人気は絶大なものがあるし、客あしらいやオケあしらいも上手で、自然とホール全体が彼女に沸き立つようになる。
サービスも怠りなく、堂々とチャイコを弾き終えた後、何度かのカーテンコールを経てアンコールに弾いたのはショパンの「革命」だった。前にみなとみらいホールで聴いた時もアンコールに「革命」を弾いたけど出だしに失敗して再度弾き直したが、そういう場面でも堂々としているので感心したことを思い出した。

今日は、一発で決めて、また何度かのカーテンコールがあり、やがて再度ピアノの椅子に腰掛けた時は場内が大きな拍手でどっと湧いた。今度はポロネーズだった。その後またカーテンコールが何度かあって、さすがにもう袖に引っ込むだろうと思っていたら、なんとビッグ・サプライズの3曲目を弾いてくれた。館内割れんばかりの拍手。もちろん、こういうサービスは大歓迎だけど、オーケストラが完全に霞んでしまった。

休憩後は「新世界から」(以下「新世界」)だ。
10日の日フィルのニューイヤーコンサートでもシュトラウスⅡのワルツと「新世界」の組合わせだった。シュトラウスはお正月に付きものだけど、「新世界」はそういう定番的な意味は無いはず。同じ組合わせというのは偶然だろうけど、前回の日フィルの「新世界」(というより、コバケンの「新世界」)に大いにがっかりしていたので、今回の東響の「新世界」で<耳直し>したい僕としては期待値が高かった。
一方で、この指揮者とオケの組合わせの年末の「第九」はいまいち気分が乗れなかったので今回はどうだろうという不安もあり。

しかし、今日の「新世界」は完璧に良かった。
何か、自分の中に既に出来上がっている「新世界」があるのだけど、それとほとんどシンクロするような演奏だった。
ケレン味がなく、端正だ。ドボルザークはこういう音楽を書いたのだと納得させる演奏だ。ま、僕の好みに合っていたといった方が正しいか。

第三楽章が終わり、終楽章が始まる「間」。
ここは大切で、「第九」と同じようにあまり間を空けては面白くない。その微妙な間が、期待値とピタッと合って快感だ。


♪2015-4/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-01

2015年1月11日日曜日

N響第1799回 定期公演 Aプログラム

2015-01-11 @NHKホール


ジャナンドレア・ノセダ:指揮
アレクサンダー・ガヴリリュク:ピアノ
NHK交響楽団

フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」作品80
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26
ベートーベン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」
------------
アンコール(Pf)
ショパン:夜想曲変ニ長調 作品27-2

比較的小編成の曲ばかりだった(「運命」ではビオラ10、チェロ8、コンバス6。プロコフィエフはコンバスが5、その他は1プルトずつ少ない。)にも関わらず、なんて豊かで鮮やかな音響だろう。オケもピアノもビンビン響いてくる。
毎回同じ席で聴いており、これまでにも音量で不満はなかったが、どういうわけか、今日はとりわけよく響いてきたのには驚いた。

NHKホールはクラシックコンサート専用に作られたホールではないために、世間の評判では音響が悪いということになっているが、僕はそう感じたことがない。
来シーズンはN響の繊細な音色をさらに明瞭に聴き取りたくS席に変えようかと思っているけど、今日の様子じゃその必要もないかと思った。うっかり席替えして前の方に行ったところで、よく響いてくるかどうかは座ってみないと分からない。むしろ今の安くて音に満足できる席を死守すべきか…。

ガヴリリュク
プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は生で聴くのが始めてだったが、とてもきらびやかで面白い。ほとんど調性を感じないけど、これでもハ長調と銘打ってある。楽譜は見たことがないけど、いったいどういう感性がああいった決して歌えないような旋律を生み出し、音楽を行き詰ること無く展開させることができるのだろうか、と不思議に思う。

ソリストのアレクサンダー・ガヴリリュクはちょうど30歳。ホロヴィッツコンクールで1位、2000年には浜松国際コンクールで優勝。この時の審査委員長中村紘子から「20世紀後半最高の16歳」と絶賛されたそうだが(変な褒め方だけど)、まあすごい腕前だったのだろうことは、今日の音楽を聴いても分かる。この曲、相当な超絶技巧を要するらしい。

プロコフィエフが終わり、度々のカーテンコールの後でアンコールで弾いたのが、プロコフィエフとはまったく別世界に思える、ショパンの夜想曲第8番。これもしみじみとして良かったね。

指揮のジャナンドレア・ノセダという人は、その名前も知らなかったが、オペラが得意なイタリア人だそうな。
国籍が音楽性に格別影響するとも思わないけど、彼のベートーベン「運命」には大いに驚いた。

7月に鈴木秀美指揮神奈川フィルで聴いた「運命」も素晴らしかったけど、その上?を行く徹底ぶり。
つまり、テンポが早い(第1楽章の早さはこれまで聴いたことがない。)。それだけではなく、例の運命の動機の後半の2分音符のフェルマータがないに等しい!
おそらくベートーベンが指示した2分音符=108というテンポに忠実なのだろう。そして、フェルマータも、従来の演奏は確かに長過ぎるようでもある。動機の展開は畳み掛けるようにハイテンポで進行するのが、実に面白い。

帰宅後いろんな指揮者の「運命」の冒頭を聴き比べてみたが、あのハイテンポのトスカニーニでさえ、しっかりフェルマータは延ばしている。
フルトベングラーなどコバケンも薄味に聴こえるくらい大げさでクサイ。
ブルーノ・ワルターのフェルマータはさらに2分音符を付け加えたかのごとく長く引っ張っている。
カラヤンはオーソドックスで、小澤征爾はアップテンポだけど、フェルマータは普通に延ばしている。
アバドは好ましいけどノセダを聴いてしまったのでもう古く感じてしまう。
ブーレーズは、朝比奈隆もびっくりのつんのめってしまうくらいの超スローテンポだ。

我々は、長く、標題「運命」が紡ぎやすいストーリーに囚われて?荘重に演出された出だしを普通として聴いてきたが、上述の鈴木秀美の指揮による「運命」も今回のノセダの「運命」も、<疾走する「運命」>であり、<爽快な「運命」>だ。

プログラムの解説によると、そういう演奏を予期した書き方になっていて、この<新解釈>は今、流行っているやに思える。良いとも悪いとも正しいとも間違っているとも書いていない(ま、当然でしょう)けど、「今なおわたしたちはどこか『運命』に呪縛されているように思われる。」と書いてあった。

重々しい人間の運命を描くような従来型の解釈もそれはそれでもうひとつの音楽の定型になっているし、悪くはないけど、最近になって聴くようになった疾走する「運命」こそベートーベンの素顔に近いのではないかと思ったりするのだけど。

ま、ノセダ+N響の新しい「運命」は、忘れられない演奏として記憶に残るだろう。


♪2015-3/♪NHKホール-01

2015年1月10日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 第304回横浜定期演奏会

2015-01-10 @みなとみらいホール

小林研一郎(桂冠指揮者)
日本フィルハーモニー交響楽団


天羽明惠(Sop)*

J.シュトラウスⅡ:喜歌劇《こうもり》序曲
J.シュトラウスⅡ:
喜歌劇《こうもり》より「侯爵様、あなたのようなお方は」*
J.シュトラウスⅡ:トリッチ・トラッチ・ポルカ
レハール:喜歌劇《メリー・ウィドウ》より「ヴィリアの歌」*
J.シュトラウスⅡ:美しく青きドナウ
J.シュトラウスⅡ:《春の声》*

ドボルザーク:交響曲第9番《新世界より》
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アンコール
ブラームス:ハンガリー舞曲第5番 ト短調


オーケストラ演奏会としては今年の一番乗り。ニューイヤーコンサートだ。
そういう訳で、前半はヨハン・シュトラウスのワルツを中心に、ソプラノも入ったためかレハール「メリー・ウィドウ」からの1曲も加わった。

ニューイヤーコンサートであり、同時に日フィルの定期としては秋シーズンの最後ということもあって、指揮の小林研一郎御大自らマイクを取って御礼方々解説というか、ソプラノの天羽明恵とのおしゃべりなどがあった。こういうお客様サービスは上手だ。

この人の生演奏(録音や放送のばあいは決してやらないと思うが)は、これもお客様サービスの一環なのか、えらくケレン味たっぷりの指揮なので、僕はあまり好きではない。

まあ、正月気分でウィンナ・ワルツでの遊びはいいとして、ドボルザークでも、あの演出過剰な音楽を聴かされるのだろうか、と不安だった。

ところが、始まってみるとえらくオーソドックスなテンポ、間のとり方、大げさなクレッシェンドなどない。むしろ、端正な感じさえして、やっぱり曲に応じて遊びは封印するんだ。ああ、こりゃいいや、と思って気持ちよく聴いていたけど、終楽章の、もうちょっと辛抱してくれたら気持よく終曲するというところでやっぱりコバケン節が炸裂した。
大げさなテンポの変化、極端な最弱音から爆発的な大音量はどう考えても「音楽的」ではない。

アンコールのハンガリー舞曲第5番に至っては目も当てられない。
耳も当てられない?
一昨年の秋にも日フィルで同じことがあった。同じことを書くのは面倒なので、その時のノートをコピペしよう。

『…さらに驚いたのは、アンコールのハンガリー舞曲第5番だ。テンポがコロコロ変わり、えらくゆっくりな出だしから、急速な展開をするかと思えば、途中に置かれた<休止>では、<急死>かと思うほど長く音楽が止まっている。放送なら放送事故扱いだ。要するにケレン味たっぷりなのだ。
たしかに、サーカスの曲芸のような面白さはあるのだけど、違和感たっぷり。
でも、これは「炎のコバケン」の一夜限りの生演奏ならではのくだけた演奏をお客様に楽しんでいただこうという確信的サービスなのだろう。』

とかなり好意的に書いているけど、何度もこれでは辛い。
昨春の「悲愴」などではごくフツーだったのだけどな。

余談:
帰宅後録り溜めビデオで「らららクラシック」を見たら、ちょうどヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を取り上げていた。
ウィンナワルツの構造には定型があって、序奏と終結部に挟まれたワルツの部分は全部で5つのワルツで構成されておりそれぞれがさらに2つの部分でできているそうだ。
コンサートの前に見たかったな。


♪2015-2/♪みなとみらいホール大ホール-02

2015年1月7日水曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.63 都響メンバーと仲間たち

2015-01-07 @みなとみらいホール


田中雅弘 (東京都交響楽団首席チェロ奏者)
三界秀実 (東京都交響楽団首席クラリネット奏者)
坂井田真実子(ソプラノ)
三浦永美子(ピアノ)

ブルッフ:8つの小品 作品83より 第6番(Cl/Vc/Pf)
メシアン:世の終わりのための四重奏曲より “鳥たちの深淵”(Cl)
シューベルト:川の流れ(Sp/Vc/Pf)
レハール:喜歌劇『ジュディッタ』より アリア「熱きくちづけ」(Sp/Pf)
ブラームス:クラリネット三重奏曲 イ短調 作品114より 第1、4楽章(Cl/Vc/Pf)

三浦永美子(ピアノ)

2015年最初のコンサート。
演奏家はピアノ、チェロ、クラリネット、ソプラノという変わった組合わせだが、さすがにこの4人のアンサンブルというのはなかった。

ブラームス以外の4曲はすべて初めて聴く曲だった。
ブルッフ、シューベルト、レハールの作品は、いずれも叙情性の高いロマンチックなメロディーで初めて聴いてもすんなり入ってきて心地よい。

メシアンは音楽だけでなく多方面に才能を発揮した人らしく、神学者、鳥類学者としても優れた仕事をしたそうだ。今日の作品も「鳥たちの深淵」というタイトルで、「ヨハネの黙示録」から受けた啓示によって書いたという。
クラリネットの無伴奏曲で現代の作品なので、これはなかなか一度聴いて受け入れるのは難しい。
鳥の鳴き声の擬音は理解できたが。
三界秀実

シューベルトの歌曲にピアノだけではなくチェロも伴奏するというのも初耳で驚いた。本当に原曲がそういう編成だったのか、ネットで調べてみたが、よく分からない。バイオリンとチェロやバイオリンとハープが伴奏楽器として書かれた歌曲はあるようだけど、チェロとピアノのものはざっと探した限りでは見つからない。というより、この「川の流れ」というタイトルの歌曲自体が見つからない。

一番聴きたかったのは、ブラームス。
彼は2曲のクラリネット・ソナタ、クラリネット5重奏曲、そして今日演奏のクラリネット3重奏曲を作曲しているが、いずれも1891年以降だから58歳以降。作曲活動の最晩年だ。

坂井田真実子(ソプラノ)
どの作品もCDを持っているけど、普段聴くのは5重奏曲だ。なぜかといえば、昔から馴染んでいるから。馴染んでいるから心地よい。心地よいからまた聴きたくなる…の好循環。

しかし、今回演奏された3重奏曲は多分、CD購入時に聴いてみたくらいだろう。メロディの断片くらい頭に入っているつもりで聴き始めたがいつまでたっても、記憶の引き出しが開かない。
まるで初めて聴く曲のように、…新鮮だったのならいいけど、馴染めなかったのは少しショックだ。ブラームスファンを自認しているのに!

確かに、これら最晩年に作曲されたクラリネットのための作品はいずれも暗い印象だ。クラリネットだからという訳ではないだろう。
田中雅弘
ベートーベンの終盤のピアノソナタ(第28番以降)には、かつて壁を感じたものだ。今では座右の曲?になっているけど。

大家は晩年、孤高に我が道を行くようになりがちだ。と、勝手に解釈している。

クラリネットソナタも5重奏曲も最初は馴染めなかった。
今日の3重奏曲も、帰宅後繰り返し聴いていると、これはハンガリー民謡風なのだろうか、「シンドラーのリスト」の音楽を思い起こさせるエキゾチックなメロディがだんだん好きになってきたよ。


♪2015-1/♪みなとみらいホール大ホール-01