2015年5月30日土曜日

読売日本交響楽団第80回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2015-05-30 @みなとみらいホール


ユーリ・テミルカーノフ:指揮

河村尚子:ピアノ
読売日本交響楽団

リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 作品35 (独奏ヴァイオリン:日下紗矢子)
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調
ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」から第2組曲
-------------
アンコール(管弦楽)
チャイコフスキー:「くるみ割り人形」から「パ・ド・ドゥ」


リムスキー・コルサコフといいラヴェルといい、いずれも近代管弦楽技法の雄と言われている人たちだ。
大規模なオーケストラに多彩な楽器を取り揃え、色彩感豊かでダイナミックレンジの広い音楽が楽しみだ。

今日の3曲のうち、最も長編なのは「シェエラザード」だけど、これがどうして第1曲目(これが終わって休憩)に置かれたのか、普通はトリに持ってくるのではないかと思ったが、この変則配置は楽器構成上の便宜から決められたのかもしれない。

プログラムの解説にある楽器編成を見る限り「ダフニスとクロエ」の方が、「シェエラザード」より楽器の数(弦5部を除く。)が10も多い。

両方ともに<管弦楽>を堪能できる作品だけど、特に個人的には「ダフニスとクロエ」が(以前は好きになれなかったのに)、最近では面白みが分かるというか、いい音楽だと思えるようになってきたことが嬉しい。とにかく、自分の嗜好はほとんどドイツ(語圏)音楽に偏向しているし、それをよしとして他を顧みない傾向は確かにあるので…。


さて、中に挟まれたのがラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」。これも悪くはないけど、いつもどうにも引っかかる。
素直に音楽に入って行けない。
むしろ、この曲はCD鑑賞向きだ。
両手使える人が片手を封じて弾くところを見るのは違和感がある。
片手しか使えない舘野泉の演奏も聴いた。
彼の場合であってもやはり違和感を覚える。
つまり、そもそも、この音楽のスタイルに疑問を感ずるのだ。
音楽というものの有り様の問題なのだけど、どうも素直に受け入れられない。

♪2015-52/♪みなとみらいホール-15

2015年5月29日金曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.67 工藤重典&鈴木大介 デュオ・リサイタル

2015-05-29 @みなとみらいホール



工藤重典:フルート
鈴木大介:ギター

~フルートとギターが綴るタンゴの歴史~
ピアソラ:アディオス・ノニーノ 【ギターソロ】
ロドリゲス:ラ・クンパルシータ 【ギターソロ】
ピアソラ:6つのタンゴ・エチュードより
 №4レント/№3モルト・マルカート・エ・エネルジコ 【フルートソロ】
ピアソラ:タンゴの歴史【ギター+フルート】
 酒場1900/カフェ1930/ナイトクラブ1960/今日のコンサート
--------------------
アンコール(トリオ)
ラヴェル:ハバネラ形式の小品


フルートとギターのデュオ。アマチュアならともかくプロではありそうでなかった、いや、聴く機会がなかった組合せだ。

この組合せのオリジナル曲というのはなかなかないのだろうな。
初めのギターソロ2曲は編曲モノだろう。

いずれも聴き覚えがある、というか「ラ・クンパルシータ」は超有名曲、だけどとてもアルゼンチンの土着音楽風に出来上がっていて、よく耳にするようなダンス音楽とは様子が違った。
特にピアソラの作品はそもそもダンス伴奏から聴くタンゴへの革命を志したというだけあって、これでは踊れそうにもない。





















そのピアソラが唯一フルートのために、それも無伴奏曲として作ったのが「6つのエチュード」だ。
これは「タンゴ」のエチュードなのか「フルート」のエチュードなのかよく分からないのだけど、「フルート1本でタンゴを演奏するための」エチュードかも。

さて、どこが「タンゴ」なのか分からないような作品で、「現代曲」としか言いようが無い。
メロディーラインもはっきりしないし、調性も怪しい。
でも、さすがの工藤名人が鮮やかに輝かしい音色を発すると、なにやら説得されてしまうようなところがあった。


最後がピアソラの「タンゴの歴史」。
これはデュエットで、4つの部分(楽章?)に別れ、1900年、1930年、1960年そして現代(ピアソラが作曲したのは1986年)のタンゴの特徴を表現しているのだけど、相当タンゴの歴史に通じていなくてはその「歴史的変化」を理解できないだろう。

最初のパートでは明らかにピアソラ独特の切分音が登場して、ああ、これはピアソラのタンゴだと思えるけど、時代が下るに従って「タンゴ」ぽさは消えてゆき、最後の「現代」では「6つのタンゴ・エチュード」と区別がつかないような音楽だった。

この曲については、帰宅後、録りダメビデオの中の5月25日のクラシック倶楽部で有希・マヌエラ・ヤンケ&エマヌエール・セグレというバイオリンとギターデュオのリサイタルがあって、正にこの「タンゴの歴史」を取り上げているのを発見してびっくりした。


フルートではなくバイオリンとギターなのでやや趣は異なるけど、こういう音楽になると、やはり表現のメリハリという面でフルートはバイオリンにはかなわないのかなあ、と思った。

この曲については、フルートとピアノ版もあり、いったい元はどういう楽器編成で作曲されたのか気になってあれこれ調べたら、この日聴いたフルートとギターこそオリジナルだそうな。


工藤名人の演奏はほぼ1年前にやはりこのクラシック・クルーズで聴いているけど、やはりテクニックもさることながら音の輝くような明瞭さに惹き込まれる。ランパル直系と言われるのは、こういう音質もあるんだろうな。


♪2015-51/♪みなとみらいホール-14

2015年5月22日金曜日

松竹創業120周年 團菊祭五月大歌舞伎

2014-05-22 @歌舞伎座


一 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)
玉手御前       菊之助
俊徳丸        梅枝
浅香姫        右近
奴入平        巳之助
合邦道心       歌六
母おとく       東蔵

二 天一坊大岡政談(てんいちぼうおおおかせいだん)
大岡越前守     菊五郎
池田大助      松緑
山内伊賀亮     海老蔵
お三        萬次郎
赤川大膳        秀調
平石治右衛門 権十郎
下男久助   亀三郎
嫡子忠右衛門 萬太郎
お霜                米吉
伊賀亮女房おさみ
                         宗之助
吉田三五郎    市蔵
藤井左京     右之助
名主甚右衛門   家橘
僧天忠         團蔵
天一坊         菊之助
大岡妻小沢       時蔵


一 摂州合邦辻
    合邦庵室の場

  通し狂言
二 天一坊大岡政談
序 幕  紀州平野村お三住居の場
     紀州加太の浦の場
二幕目 美濃国長洞常楽院本堂の場
三幕目 奉行屋敷内広書院の場
四幕目 大岡邸奥の間の場
大 詰 大岡役宅奥殿の場


「團菊祭」昼の部は「摂州合邦辻」一幕と通し狂言「天一坊大岡政談」だった。

メインイベントが「天一坊~」という訳だろうが、個人的には「摂州合邦辻」が面白かった。

「天一坊~」はよく知られた、徳川吉宗の御落胤を騙った天一坊(菊之助)が大岡裁きでバレてしまうと言う話だが、これが歌舞伎の芸としてはまたいろいろな見方もあるとは思うけど、物語としては案外面白くない。
天一坊の人間の大きさ・怖さがいまいち伝わらない。
いずれ偽物だとバレるのは分かっているけど、そのスリルは殆ど無いし、バレる経緯も当たり前過ぎてワクワクするものはない。

大げさなアクションもないので、ここぞという決めの場面が少なく、大向うも静まりがちだ。

三幕目が越前守(菊五郎)と伊賀亮(海老蔵)がお白州で対決する場面で、ここが一番面白かった。この幕だけでも見せる芝居としては成り立つのではないかと思ったが。
海老蔵のセリフ回しが貫禄で大変結構。

大詰め前の四幕に松緑のちょっといい出番があるのだけど、この人の出番はもっとほしい、といってもそういう芝居だからしょうがないね。夜の部では大活躍だったようだけど。

さて、昼の部はそんな訳で菊之助劇場みたいな感じだった。
こんな調子で、夜の部にも出て、昼夜通して一月近く公演するのではまことに疲れるだろうと思う。


ドラマとして面白かったのは、先述のとおり「摂州合邦辻」だ。
元は人形浄瑠璃の長編だったが、歌舞伎としては、今では「合邦庵室の場」だけが上演されるらしいが、この一幕だけで、十分な見応えがあった。

お家騒動を軸にしながら、義理の関係とはいえ母(玉手御前=菊之助)が息子(俊徳丸=梅枝)に恋をするというとんでもない設定だ。それも、ほのかに寄せる思いというのではない。思い余って義理の息子に毒を飲ませ、面体を醜く崩し、彼の許嫁に結婚を思いとどまらせようとするが、この女難を避けて出奔した俊徳丸を玉手御前はさらに追いかけて私と一緒になろうと詰め寄る。

話は関係者が他にも登場して簡単ではないけど、なぜ、玉手御前がそこまで狂ってしまったのか、いや、本当に狂っているのか、が興味深い。

芝居の筋書きとしての結末はきちんと付けられるが、真実はそんなことではあるまい、と思った。

それに関して、玉手御前を演じた菊之助が、「筋書き」(歌舞伎座篇プログラム)の中で、「建前はあるにせよ、俊徳丸への思いは真実の恋だったのだと思います。」と述べている。

そのとおりだと思う。そう解釈しなければ、この物語は人間ドラマにならない。底の浅い筋書きになってしまう。

さりとて、そのように全篇を解釈するにはやや、筋が通っていないと言う不満もあるのだけど。

------------------------------

おさらい。

菊之助が大奮闘。
実にご苦労様で、こんなふうに頑張っていては芸を磨くより消耗してしまうのではないだろうかという心配をした。

昼の部での松緑の出番は少なかったが、いい味を出していた。
この人の芝居を見るのは楽しみだ。

海老蔵は、どういうわけか、国立では観たことがないし、歌舞伎座でも團菊祭でしか観たことがない(去年は「勧進帳」でこれはなかなか良かった。)。しかし、朗々たるセリフ回しが貫禄をみせて頼もしかった。


♪2015-50/♪歌舞伎座-03

2015年5月15日金曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第670回東京定期演奏会

2015-05-15  @サントリーホール


下野竜也:指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

【日本フィル・シリーズ再演企画 第8弾】
黛敏郎:フォノロジー・サンフォニック
林光:Winds(第24作)
三善晃:霧の果実(第35作)
矢代秋雄:交響曲(第1作)


ほぼ同時代の日本の作曲家たちだから、全員その名前は知っている。
黛敏郎の作品は生でも聴いたことがあったけど他の3人は初めて。もちろん、映画音楽としては、それと知らずに聴いていたろうし、放送でも耳にすることはあったが、好んで聴くような作品ではなかった。

今日の4作品はいずれも日フィルの委嘱作で、当然日フィルが初演をしている。
一番古いのが黛の作品で1957年の初演。委嘱作としての第1号らしいが、その時点では作品に委嘱の番号を付けなかったので、0番扱いだそうな。
翌年の委嘱作、矢代秋雄の交響曲が第1作としてカウントされるようになったそうだ。
一番新しいのは三善の第35作で97年の初演。

およそ3年に2本の割合で委嘱作品が生まれ、来年41作目が初演予定だ。

ま、とにかく。
4本とも当然に音楽の中身も極めて新しい。
オーケストラの委嘱作品だから当然に管弦楽の新しい表現可能性を追求しているのだろう。
作曲手法においても実験的な試みがなされているのだと思う。


西洋古典派やロマン派の音楽に馴染んだ耳にはまことに奇怪なものだ。
ときに騒音であり、雑音であり、生理的にもあまり心地よいものではない。
これは現代音楽に共通することで、もちろんこの際日本人作曲家ということはほとんど意味が無い。
日本人の現代作品でも和風味付けの作品も過去に聴いたことがあるけど、今回は、和風も洋風もなしで、現代風とでも言うしかないか。

解説にはいろいろ説明が書いてあったが、頭が受け付けない。
まあ、黙って聴くしかない。



現代音楽は、聴衆の意表を突くことを第一義としているのだろうか、予測を裏切ることに喜びを感じているのだろうか、と皮肉な見方をしたくなる。
つまりお手上げだ。

かと言って、耐えられないような体験ではない。作曲家は、適度な緊張と緩和を用意して最後まで飽かせないのは、構成などに苦心しているからだろうな。

生だから聴ける音楽だ。CDで聴いてみたいとは思わない。


ところで、前回、サントリーホールでの日フィルの響に物足りなさを感じたのだけど、この日はまあよく鳴ること。もちろん、そういう点も考慮して作曲してあるんだろうけど。
多分、いずれの曲も演奏は難しそうだったけど、一糸乱れず迫力ある演奏だった。

♪2015-49/♪サントリーホール-03

2015年5月13日水曜日

第二十三回 南座歌舞伎鑑賞教室「色彩間苅豆」

2015-05-13 @南座


一 解説 南座と歌舞伎
 ご案内 桂九雀

二 色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)
 かさね
   
かさね 上村吉弥
与右衛門 中村松江


南座は歌舞伎発祥の地に現存する日本最古の芝居小屋だという。
かねてから、一度は南座で歌舞伎を観たいと思っていたけど、わざわざそのために新幹線に乗ってゆきたいとまでは思わない。

ところが、急に京都へ行く用事ができたので、帰りに時間があれば寄ってみたいなと、番組を調べたら、なんとうまい具合に5月8日からの1週間だけ歌舞伎鑑賞教室をやっている。しかも、全席自由席で3千円というありがたい話だ。

演目は全く知らなかったが、紹介記事を読むとどうやら怪談「真景累ケ淵」と同根の話しらしい。これなら昔映画で怖い思いをした記憶があって、多少は覚えている。

役者も主要な2人はいずれも過去何度か舞台を観ているのが、これまでは大看板に隠れたような役が多かったが、ここではいずれも大役。じっくりと彼らの芝居が観られるというのも楽しみだ。


開演の1時間半ほど前に到着したがもう並んでいる人がいる。でも10人程度だったから、チケットは買っておいたが、並ぶのはやめて、祇園辺りを散策。
戻って1時間前。
行列が3倍位になって「最後尾はこちら」のプラカードを持った整理担当者まで出ている。
こりゃいかん、とお尻についた。良い天気でむしろ汗ばむくらい。開場は開演の30分前と聞いていたので、ここで30分も並ぶのは辛いなあと思っていたが、行列が長くなって南座前の狭いエリアでは収まらなくなったためか、予定より早く開場された。

おそらく30番目位に入場できたので、席は自由席だから、どこでも好きなところを選べる。祇園の綺麗どころが並んでいる写真をよく見る1階桟敷を経験してみたいとも思ったが、やはり、見晴らしの良い場所は2階の最前列中央やや花道寄りが個人的には理想だな、と思っているので、かねてからの果たせぬ夢を果たすことができた。


解説は桂九雀という落語家(知りませ~んでした)で、内容は多分毎回変えているのだろう、今回は大太鼓による演出効果や、舞台機構の話など。これは国立劇場の鑑賞教室と似たような趣向だったが、やはり、南座ならではの話もあって参考になった。舞台額縁上部(正しい表現を知らない)に残る「破風」の謂われ(幕府公認の小屋であることの名残り)になるほど歴史を感ずる。
また、今回この解説で初めて「芝居」という言葉の意味(かつて観客席は芝生の上であった。)を知った。これまで日常的過ぎて疑問さえ感じなかったのだけど。

国立劇場にはない趣向として、観客の中から希望者に舞台役者の着付けを経験させるというお楽しみ企画があったが、果たして手を挙げる人がいるのだろうかと思ったが、若くて美しい女性に限るという条件にも関わらず10人位?が手を上げた。
学校の行事として歌舞伎鑑賞に来ている中・高生が大勢いて、彼女たちはテレもせず手を上げたので驚いた。
着付けだけなので、顔などの化粧はなかったが、出来上がって舞台に登場した可愛らしい中学生の晴れ姿にやんやの喝采で、館内は大いに湧き、和んだ。


さて、本篇は「色彩間苅豆」と言う。
何と読むのか?
「いろもようちょっとかりまめ」と読ませるのだけど、これはなかなか難しいね。
少し、ずれたところが粋というか、味わいだと思うが、それにしても「間」を「ちょっと」という砕けた口語で読むとはもう想像の域をはるかに超える。

「真景累ケ淵」は三遊亭円朝が創作した怪談噺だが、「色彩間苅豆」(四代目鶴屋南北作)も同じく茨城県の鬼怒川沿岸を舞台にした累(かさね)という女性の怨霊の物語を素材にしている。
「累ケ淵」という地名は現存するのかどうか知らないけど、その累さんから発している。

「累もの」はそれぞれに微妙に筋・役どころを異にしているが、「色彩間苅豆」では、浪人与右衛門はかつて殺した男(助<すけ>)の娘とは知らず腰元累<かさね>と道ならぬ恋に落ち、心中を試みるも与右衛門がドタキャン。
彼を追った累は木下川(<きねがわ>と読ませるが元は鬼怒川のこと)のほとりで与右衛門と再会する。

芝居は不義密通の罪で2人を追う捕手2人が、浅葱幕(解説で習ったばかり。舞台装置を覆う水色の幕)の前で逮捕への決意表明をしながら経緯を説明したあと、その幕がさっと降りて(振り落としというらしい。)、木下川の景色が舞台いっぱいに広がる。

そこに2人が花道を通って登場し、累は自分のお腹を与右衛門に触らせ不義の子を宿していると教え、かくなる上は一緒に死のうと必死に口説く。さすがに気持ちを動かされた与右衛門は心中を決意するが、そこに川面を卒塔婆に乗った髑髏<しゃれこうべ>が流れてくる。髑髏には鎌が突き刺さったままであった。
おお、コワイ。

与右衛門が拾い上げて卒塔婆の文字を読めば、そこに「俗名・助」の名前が。おののいた与右衛門は卒塔婆を折り髑髏を鎌で打ち割る。すると、累は自分が打たれたように苦しみ草むらに倒れこむ。
そこに追手が来て乱闘になるが、与右衛門は返り討ちにする。
しかし、我に返った累の顔は半分が醜くただれ、片足も不自由になっていた。驚く与右衛門。もう心中どころではない。
必死にすがる累に父親殺しの顛末を聞かせ、鏡で累に自分の顔を見させるのだ。狂乱する累。これを鎌で斬り殺すよ右衛門。

悪行の因果が哀れな父と娘に災いをする恐ろしさ。
とどめを刺してその場から逃げ去ろうとする与右衛門は、花道七三のところで止まり(これは歌舞伎のお約束だが、今回は別の事情がある。)、先に進もうとしても足が出ない。

橋の袂から累が怨霊となって与右衛門を引き寄せるのだ。
------------
この芝居は、清元による舞踊劇で台詞のやりとりは少ないのだけど、全篇の2人の動きがまさしくしなやかで緊張が漂う。
コワイけど美しい。残酷だけど美しい。哀れだが美しい。


客席はなにせ鑑賞教室であるから中高生も多く、大向うも少なく、多分録音による掛け声もあったように思う。
ここぞという場面での拍手などもちぐはぐな場面もあったが、主役の御両人は、申し訳ないくらいの熱演で非常に好感した。
吉弥丈はこの鑑賞教室に第1回目から主演しているそうだ。
松江丈の舞台を観る機会は多くて去年からの鑑賞記録では今回で5回目だった。

これからも、「教室」以外の大きな舞台でも観ることができるだろう。大いに楽しみにしていよう。

♪2015-48/♪南座-01

2015年5月10日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第107回

2015-05-10 @ミューザ川崎シンフォニーホール


高関健:指揮
大谷康子:バイオリン
東京交響楽団

ビバルディ:バイオリン協奏曲 イ短調 RV356 作品3-6
メンデルスゾーン:バイオリン協奏曲 ホ短調 作品64
プロコフィエフ:バイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19
ブルッフ:バイオリン協奏曲 第1番
------------
アンコール(大谷康子)
モンティ:チャールダッシュ(管弦楽伴奏付き)


今回は、東響のソロ・コンサートマスターである大谷康子がバイオリン協奏曲を1人で4曲演奏するというので、新聞などにも取り上げられて話題の演奏会だった。

4曲と言っても、ビバルディの作品は3楽章合わせても約5分という小品だが、残るメンデルスゾーン、プロコフィエフ、ブルッフだけでもかなりのボリュームだ。
これらを完全暗譜で、ノーミス(だと思うよ。)で弾き切ったのは並みのプレイヤーじゃないね。

今年デビュー40周年というから、藝大在学中がデビューと数えても還暦は過ぎているはずだ。
それがそうは見えない童顔は、ホンに昔からヘアースタイルとともにちっとも変わっていないように思う。
若い頃はチョッと冷たさも感じたけど、最近は人格も円熟しているんだろうな、いつも穏やかでニコニコしている場面が多い。

オケもうまい。東響はなんというのか、非常によくまとまっているような気がするな。特に管楽器はまったくミスをしたのを聴いた覚えがない。

今日は、御大コンマスのバックに徹して、気脈を通じたアンサンブルを繰り広げてくれた。
指揮の高関マエストロも人格温厚そうで、本当に東響のホームグラウンドであるミューザでアト・ホームなコンサートであった。


4曲も弾いたので、まさか、アンコールはあるまいと思っていたけど、いつまでも続く歓呼を制して愛器ストライディバリウス("Engleman")を構えると同時に高関マエストロも指揮台にひょいと飛び乗って、チャールダッシュが始まった。

それだけでもびっくりだったが、何と、途中から、正にロマ(チャルダーシュはロマの音楽だ。)の音楽の演奏形態を再現するかのように、バイオリンを弾きながら1階客席の、先ずは下手に降りて最後尾まで(といってもミューザの1階は11列しかないが)行き、さらに最前列に戻って今度は上手を最後尾まで登り、もう、戻ってくるだろうと思ったら、なななんと演奏しながら階段を上がって2階席まで上がったのにはびっくりというより心配になった。
ミューザの客席構造はまことに変わっていて、全体がうずを巻いた階段状になっているので、床が水平な場所といえば1階席(ここも階段状だが)位のもので、ほかは床が傾いているのだ(もちろん、椅子は水平だけど。)。だから、僕は客席内を歩くときはいつも足元に注意をしている。傾いた床を結ぶ階段てコワイのだ。

そんな訳で、バイオリンを弾きながら客席を回ってくれるというのは近くに座っているお客にはサプライズ・プレゼントだけど、僕は少しハラハラした。早く舞台に戻ったほうがいいよ!と心の中で呼びかけていたのだけど。

ま、無事に楽しい曲が終わり、さらにやんやの喝采を受けて華々しい大谷康子ショーが幕を下ろした。
久しぶりにミューザは熱気に満ちた。

♪2015-47/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-08