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2020年10月7日水曜日

10月歌舞伎公演第1部

2020-10-07 @国立劇場

●ひらかな盛衰記
梶原源太景季 中村梅玉
腰元千鳥              中村扇雀
梶原平次景高       松本幸四郎
母延寿                中村魁春
                 ほか

●幸希芝居遊
久松小四郎     松本幸四郎
金沢五平次    大谷廣太郎
二朱判吉兵衛        中村莟玉
三国彦作            澤村宗之助
                                ほか

文耕堂ほか=作
●ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき)
   -源太勘当-梶原館の場

鈴木英一=作
●幸希芝居遊(さちねがうしばいごっこ)
   常磐津連中


国立の歌舞伎は1月公演以来だ(2月は休演月。3月以降はコロナ休演)。

国立劇場ではコロナ再開後の興行形態が、寄席・文楽共々歌舞伎も変わった。

1日の公演数を多く(2公演)・短時間にして料金も少し安めだけど全公演を観たいから結局C/Pは悪い。


しかし、歌舞伎公演に関しては、僕の<指定席>と言っていい程こだわって取っていた2階最前列花道寄りは従来1等A席だったが、再開後は1〜3階が各1〜3等席と決められたので、嬉しいことに我が<指定席>2階最前列が2等席になって料金は半額以下となった。


1日2公演制になったが、両方観ても従来より安価だ。

逆に1階席ファンには気の毒なことに前より高くなった。


第1部は2本立て。

「ひらかな盛衰記」から”源太勘当”。「ひらかな〜」といえば、圧倒的に”逆櫓”の上演機会が多く、こちらは何度も観たが”勘当”は初めて。


宇治川の先陣争いでわざと勝ちを譲った梶原源太景季/梅玉を武家の建前から母/魁春が勘当するという話だが、源太の弟の小憎らしい平次/幸四郎や源太と恋仲の千鳥/扇雀が絡み、悲話だが笑いどころもあって面白い。


扇雀が声も姿も若々しいのに驚いた。

幸四郎は剽軽役も巧い。


2本目・新作「幸希芝居遊」でも幸四郎が主役で登場し、多くの有名な歌舞伎の見処を繋ぎ合わせて見せてくれる。

全篇に幸四郎の歌舞伎愛が溢れていて胸熱に!


♪2020-060/♪国立劇場-07

2017年12月7日木曜日

人形浄瑠璃文楽平成29年12月公演「ひらかな盛衰記」

2017-12-07 @国立劇場


ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき)

●義仲館の段
 豊竹始太夫、竹本南都太夫、豊竹希太夫、豊竹亘太夫、竹沢團吾
●大津宿屋の段
 豊竹靖太夫、野沢錦糸、鶴澤燕二郎
●笹引の段
 豊竹咲甫太夫、鶴澤清友
●松右衛門内の段
 豊竹芳穂太夫、野澤喜一朗、豊竹呂太夫、鶴澤清介
●逆櫓の段
 豊竹睦太夫、鶴澤清志郎

◎人形
 吉田簑二郎、吉田清五郎、吉田玉彦、吉田玉佳、吉田一輔、吉田玉也、吉田分昇、吉田玉勢、吉田玉志、吉田玉輝ほか

「ひらかな盛衰記」に<ひらがなせいすいき>とルビが振ってある。これまで、ずっと<ひらかなせいすいき>と読むものとばかり思っていた。もっと正確にいうと、元になった「源平盛衰記」も<げんぺいじょうすいき>と読むのが正しく、これをうんと易しくしたという意味で「ひらかな」が付いたけど、「盛衰記」の方は<せいすいき>に変化したのはどうしてだろう。


また、<ひらがなせいすいき>の<が>は鼻濁音が正しいのだそうだ。そう言えば、小学校か中学校の音楽の時間に<が行>は鼻濁音で発音せよと教えられたものだったが、すると「加賀見山旧錦絵」<かがみやまこきょうのにしきえ>や「源平布引滝」<げんぺいぬのびきのたき>など<が行>が含まれているとやはり鼻濁音で読むのだろうか?
本筋と関係のない話だけど、気になった。

今日の構成は、全段通しという訳ではないようだが、話はよく通って分かりやすかった。特に「松右衛門内の段」と「逆櫓の段」は歌舞伎でも観ているので話の内容はしっかり覚えていたが、そこに至るまでの前3段もおよその筋は知っていたので、嗚呼、なるほどかくして「逆櫓」に至るのかと納得。
特に「笹引の段」には大いに心動かされた。

太夫は好みの咲甫太夫。
旅先で命を落としてしまった山吹御前の亡骸を腰元お筆が竹を1本伐採してその葉に巻きつけ、引きずってゆくのだが、重いから容易ではない。その芸がとてもリアルだし、浄瑠璃と相まって哀切極まりない。
そこに捕り手が襲いかかるが、剣の達人でもあるお筆は捕り手の顔を梨割りに切り裂くのがおかしくもある。

お筆が船頭権四郎を尋ねてくる「松右衛門内の段」も悲痛な話だが、何と言ってもクライマックスは「逆櫓の段」。

娘婿である松右衛門(実は樋口次郎兼光)を裏切って敵方(畠山重忠)に訴人してまでも<彼の血の通った子ではないからと>自分の孫(実は木曽義仲の遺児)だけは助けてほしいと訴える権四郎の深慮遠謀に松右衛門も主家の末裔の命を守ってくれようとする心根を知り潔く縄につくのだ。敵方の将畠山重忠が、松右衛門の義理の関係とは言え父と子に最後の対面を許すのは、それが実は最後の主従の対面であることを知っての武士の情けである。

かくして、義理と人情が交錯して各人の熱い思いが湧き上がる中に「涙に咽ぶ腰折れ松、余所の千年は知らねども、我が身に辛き有為無常、老いは留まり若きは行く、世は逆様の逆櫓の松と、朽ちぬその名を福島に枝葉を今に残しける」と名調子で大団円を迎える。

♪2017-197/♪国立劇場-18

2015年8月12日水曜日

松竹創業120周年 八月納涼歌舞伎 第二部

2015-08-12 @歌舞伎座


一 ひらかな盛衰記(ひらかなせいすいき) 
   逆櫓 一幕
   第一場 福嶋船頭松右衛門内ノ場
   第二場 沖中逆艪の場
   第三場 浜辺物見の松の場

      銘作左小刀
二 京人形(きょうにんぎょう) 常磐津連中/長唄連中


一 ひらかな盛衰記(ひらかなせいすいき) 逆櫓
船頭松右衛門(実は樋口次郎兼光)⇒橋之助
畠山重忠⇒勘九郎
女房およし⇒児太郎
船頭日吉丸又六⇒国生
同 明神丸富蔵⇒宜生
同 灘芳九郎作⇒鶴松
漁師権四郎⇒彌十郎
お筆⇒扇雀

       銘作左小刀
二 京人形(きょうにんぎょう)
左甚五郎⇒勘九郎
女房おとく⇒新悟
娘おみつ(実は井筒姫)⇒鶴松
奴照平⇒隼人
京人形の精⇒七之助



2本とも初めての作品だった。

「ひらかな盛衰記」ってよく目にする耳にするタイトルだったが、歌舞伎の演目とは知らなかった。
「源平盛衰記」も存在を知るだけで読んだことはなかった。何となくこの両者がごっちゃになって記憶に残っていたようだ。

歌舞伎座の「筋書き」によれば、「ひらかな盛衰記」は「源平盛衰記」を平易に描いたという意味が込められているそうだ。
つまりは源氏と平家の争いの物語だ。

歌舞伎(元は人形浄瑠璃の翻案)独特のありえないような複雑な登場人物や状況設定で、予習をしておかないと戸惑ってしまったろう。しばらくしたら、はてどんな話だったっけ、ということになるのは必定なので、忘れないうちにあらすじだけ書いておこう。

頼朝に敗れ討ち死にした木曽義仲の家臣樋口次郎兼光(橋之助)は身分を隠して漁師権四郎(彌十郎)の娘およし(児太郎)の2度めの婿として松右衛門を名乗り、権四郎から学んだ逆艪(船を後退させる技術)の腕を磨きながら、義経に対して、主人のかたきを討つ機会を狙っていた。

…なんて、先月観た「義経千本桜-碇知盛」とそっくり!

ある日、ついにチャンス到来。源氏の武将梶原景時に呼び出され、義経の乗る船の船頭を任された。

一方、およしと前夫の子、槌松は先ごろ西国巡礼の宿での捕物さわぎに巻き込まれ、逃げ帰る途中に、背負っていた槌松が実は騒動の最中に取り違ってしまった他人の子供であったが、いずれは本物の槌松に再会できる望みを抱いて槌松と思い大事に育てていた。

松右衛門がチャンスを掴んだその同じ日に女性お筆(扇雀)が権四郎らの家を訪ねて来て、その子を返してほしいという。
取り違えられた子は木曽義仲の遺児駒若丸で、自分は義仲の家臣の娘だという。
では槌松を返してほしいと迫る権四郎に、お筆は、その子は駒若丸の身代わりに敵に殺されたと告げる。
収まらない権四郎とおよし。

およしの悲痛。それが我が事のように分かるお筆も辛い。

ここが哀切極まりないの場面だ。
権四郎は、ならば、駒若丸の首を討ってから返してやると、いきり立ち、奥の間から駒若丸を抱いて出てきた松右衛門に、その首を討てと促す。

松右衛門、実は樋口次郎兼光の心中は、すべて仇討ちのための準備が整ったのは天の采配だと狂喜しただろう。
主君の遺児に手をかけるはずもなく、駒若丸を抱いたまま権四郎に「頭が高い!」と一喝する。

水戸黄門みたいだが、混乱収拾には効果的。

ここで、素性を明らかにした松右衛門=兼光は権四郎らに言葉を尽くして忠義の道を立てさせてくれと頼み、ついには納得した2人は駒若丸を兼光、お筆に渡し、槌松の死を受け入れる。

この後の場面は、船頭たちの勇ましい争いを華麗に見せる芝居で、ちょっと物語としては閑話休題といったところ。

最終場面で源氏側に正体を見破られた兼光が多勢に無勢の中必死に戦うところも、碇知盛を思わせる。
いよいよ、追い詰められたところに権四郎の機転が奏功して源氏方武将畠山重忠(勘九郎)が登場するが、「勧進帳」で言えば富樫のように、事態をすべて丸く収め、兼光は安心して潔く縄を受ける。

なんだか、よくある話のてんこ盛りという感じだったな。
第二場も第三場も活劇が舞のようにきれいで、話とは別に見せ場として用意したような趣向だが、このごった煮も歌舞伎の面白さなのだろう。
能の間に狂言が混じっているようなものか。


傑作は、むしろ舞踊劇「京人形」だ。

彫工の名人左甚五郎の話だ。
京都の郭で見初めた小車太夫を忘れられない甚五郎(勘九郎)は太夫にそっくりな人形(七之助)を作る。
するとこの人形に魂が乗り移り、動き出すのだが、最初は甚五郎の魂が乗り移ったようで、きれいな女の人形なのに男の仕草をするのがおかしい。
そこで、手鏡を懐に差し入れると今度は実に艶かしく女の仕草を始める。
小車太夫になった人形を甚五郎が口説き始めると彼女のお懐からポロッと鏡が落ちて、その途端姿勢も仕草も男の様子だ。

七之助演ずる人形はもちろん表情を変えず、声を発せず、動きも男らしい、女らしいと言っても、やはり人形のぎこちない動きなのだ。パントマイムのようなものか。
このやりとりがとにかくおかしい。

後半、突飛にも左甚五郎の通名の謂われが描かれる。
何の伏線もなかったが、実は甚五郎は旧主の妹の井筒姫(鶴松)を預かっていたところ、彼女に執心する侍が姫を奪い去ろうとやって来るがこれはなんとか凌いだものの、姫の家来に左手を誤って傷つけられた甚五郎の元に、武家の差配か(はっきり描かれなかったが)大勢の大工が姫を差し出せと襲ってくるが、不自由な左手がつかえないまま、いろんな大工道具で応戦し蹴散らす。

つまりは無理に話をくっつけたのだけど、せめて、小車太夫の人形が後半にも登場して脈絡をつけたら良かったのに、そういう整合性はお構いなしなのだ。こういうところが、歌舞伎を今日的な目で観る時に判断に迷う。


♪2015-78/♪歌舞伎座-04