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2022年12月16日金曜日

未来へつなぐ国立劇場プロジェクト 初代国立劇場さよなら公演 国立劇場第54回 文楽鑑賞教室 「絵本太功記」夕顔棚の段/尼崎の段

2022-12-16@国立劇場



●解説 文楽の魅力
 豊竹亘太夫/鶴澤清公

●絵本太功記えほんたいこうき
 夕顔棚の段
  亘太夫/清公
 尼ヶ崎の段
前 睦太夫/勝平
後 靖太夫/清馗


************************
人形役割
母さつき⇒ 吉田玉也
妻 操⇒ 吉田蓑一郎
嫁初菊⇒ 桐竹紋吉
旅の僧実は真柴久吉⇒ 吉田文哉
武智光秀⇒ 吉田玉志
武智十次郎⇒ 吉田簑太郎
加藤正清⇒ 吉田和馬


鑑賞教室だから、本篇の前に20分程度の解説がある。初めての人には有益だろうが、毎回のように欠かさず行っている者にはあまり驚きもないが、解説してくれる太夫や三味線方の人柄が伝わるのは面白い。
実際、この世界では、太夫は豊竹・竹本、三味線は鶴澤がほとんどで竹澤・野澤・豊澤はほんの僅か。人形は吉田・桐竹で圧倒する。だから、人間国宝やベテラン級はともかくとして中堅以下はなかなか名前と顔が一致しない。
今日の豊竹亘太夫や鶴澤清公は名前はよく知っていても、顔がなかなか一致しないのだけど、これから暫く?は覚えているだろう。

さて、「絵本太功記」は3度目だったが、いつも、「夕顔棚の段」と「尼ヶ崎の段」だ。

主人公光秀、その母、その妻、その子の思いが、絡み合うものの最後には互いを理解し、許しあう大団円が待つ…というのが、たいていの物語なのだけど、これは違う。
だからいつもスッキリしない。
これはたぶん全十四段の話のうち十段目だけを取り出しているからではないか?

こういう良いとこどりの見方(=見取り狂言<>通し狂言)では手軽でいいとしても誤った見方をしてしまう恐れがある。
…ということを、同日この後に観た「本朝廿四孝」で痛感した。

♪2022-193/♪国立劇場-12

2018年6月29日金曜日

国立劇場第6回文楽既成者研修発表会 文楽若手会

2018-06-29 @国立劇場


●万才
 竹本小住太夫・豊竹咲寿太夫・竹本碩太夫
 鶴澤清公・鶴澤清允・鶴澤燕二郎
 人形:吉田玉彦・桐竹勘次郎

●絵本太功記
  夕顔棚の段…豊竹亘太夫/野澤錦吾
  尼ヶ崎の段…前:豊竹希太夫/鶴澤友之助
        後:豊竹靖太夫/鶴澤寛太郎
 人形:桐竹紋臣・吉田簑紫郎・吉田玉誉・吉田簑太郎
            吉田玉勢・吉田玉翔・吉田和馬

●傾城恋飛脚
  新口村の段…口:竹本碩太夫/鶴澤燕二郎
       …前:豊竹咲寿太夫/鶴澤清丈
       …後:豊竹芳穂太夫/鶴澤清馗
 人形:吉田玉路・吉田玉峻・桐竹紋吉・桐竹紋秀・
    吉田玉征・豊松清之助・吉田玉延・吉田和登・
    吉田蓑悠・吉田文哉・吉田箕之

平たく言うと若手の勉強会なのだろうが、若手も混じっているが、中堅も含まれている。だから興行としても成り立つのだろう。
名前を知らない人も居たが、多くは本興行に出演している人達だ。

本格的に人形浄瑠璃・文楽を鑑賞し始めたのが2016年の12月だからまだ経験は1年半に過ぎない。でも既に20公演を鑑賞しているので、最近は少し観る目、聴く耳が出来てきたような気もしている。生意気にもそんな気持ちで鑑賞していると、「あ、ここはもう少し張り上げて」とか「長く伸ばして」語った方がいいのではないかとか、三味線の音の外れが気になったり、人形の姿勢も気になったりもしてくるが、それが正しいのかどうかは分からない。
やはり、名人・上手の公演を度重ねていかないと、真髄には近づけないのだろう。

「絵本太功記」は初めての作品だった。「太功記」というからには「太閤記」の改作だろうと漠然と思っていたが、それはそのとおりで、信長を討った光秀の母・妻・子や秀吉などが登場して、主従の裏切りに葛藤するドラマとなっている。ちょっと不思議に思ったのは、原作が「絵本太閤記」であるが、本作は「絵本太功記」と表現が変わっているのは「太閤」に遠慮したためだろうか。

全13段(6月1日から13日まで各日1段という構成に発端と大詰が付いて実質15段!)のうち、今回は「夕顔棚の段」と「尼崎の段」が演じられたが、では、これらはオリジナル全13段のうち、何段目に相当するのか、が気になって調べてみた。というのも「尼崎の段」がかなり有名でここを「太十」(たいじゅう⇒太功記の10段目の意味)と呼ばれることは、かつて読んだことがあり知っていた。すると、その前の「夕顔棚の段」は9段目か、と言うとどうもそうでもないらしい。「尼崎の段」は6月10日の出来事なので10段目に置かれているが、「夕顔棚の段」も同日の出来事なのだ。
すると、両方共10段目なのか。
なら、どうして別の名前なのか。

どうやら、これは一つの段を「口」・「中」(前・奥という言い方もありその違いは分からない。)・「切」と分けた場合に、「切」以外の部分を総称して「端場」(はば)というが「夕顔棚の段」は本来は一つの独立した「段」ではなく、「太十」(⇒「尼崎の段」)の「端場」に当たるもので、今回の仕切りでは「尼崎の段」の「口」に相当するのではないか。それが、いつの間にか、「夕顔棚の段」という呼称が定着したのではないだろうか。

…と、本筋とは関係がないけど、どうも気になったので、調べてみた。いずれ、国立文楽劇場に問い合わせてみようと思う。

「傾城恋飛脚」は基になった「冥途の飛脚」も含めるとこれで4回目だ。
梅川・忠兵衛の悲しい末路だが、あいにく、共感するには至らなかった。芸の問題というより、この「段」だけでは、なかなか気持ちが盛り上がるまでに至らないからだと…思うのだが。

♪2018-074/♪国立劇場-10