2016年2月28日日曜日

東京都交響楽団プロムナードコンサートNo.366

2016-02-28 @サントリーホール


大野和士:指揮
東京都交響楽団

ベルリオーズ:序曲《ローマの謝肉祭》 op.9
ドボルザーク:弦楽セレナーデ ホ長調 op.22
チャイコフスキー:イタリア奇想曲 op.45
ラヴェル:ボレロ


都響のプロムナードコンサートシリーズは定期会員ではないが、曲目に惹かれて聴くことにした。

ドボルザークは文字どおり弦楽五部だけ(管打楽器なし)による演奏だが、それ以外の3曲はいずれも管弦楽が華やかな作品だ。
それもマーラーやブルックナーみたいに重苦しさとは無縁の陽性の音楽ばかりだ。たまにはこういうのを聴いてみたくなる。

第1曲めの「ローマの謝肉祭」の冒頭から音がきらめいている。
やはり都響は明瞭な響がする。

ところで、ベルリオーズは歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」を作曲し、その序曲は今でも演奏されるが、肝心の本篇は不評で、名誉挽回のために「ベンヴェヌート・チェルリーニ」から主要旋律を抜き出して編曲し、タイトルも変えて世に問うたのが序曲「ローマの謝肉祭」であったとは、今日はじめて知った。
そしてこちらはこれは大評判で、歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」には2種類の序曲が存在することになった。
もっともベートーベンの歌劇「フィデリオ」には序曲「フィデリオ」に加えタイトルの異なる序曲「レオノーレ」第1番~第3番が存在するから珍しいことでもないのかもしれないが。

この「ローマの謝肉祭」を作曲した同じ時期にベルリオーズは「管弦楽技法」を書いているが、この理論書に対する実践編として「ローマの謝肉祭」が文字どおり華々しい管弦楽技法を伴って発表された訳だ。

ドボルザークの「弦楽セレナーデ」がどうして組み込まれたのか分からないけど、 これも親しみやすい音楽だ。弦楽器だけで演奏されるけど、ぼんやり聴いていると管弦楽のようにさえ聴こえる色彩豊かな音楽だ。

「弦楽セレナーデ」ではむしろチャイコフスキーの作品の方が有名かもしれないが、この人の管弦楽技法も鮮やかだ。
その「イタリア奇想曲」。
派手なトランペットのファンファーレに始まり、トロンボーンや木管が続き次いで両者が拡大して交じり合い、重々しいリズムを刻みながら弦を受け入れる。これがメランコリックで、イタリアというよりスペイン風に聴こえるのだけど、しばし重苦しい様子が続いたあとはイタリア舞曲(タランテラらしい)が華やかな終幕を飾る。


最後は「ボレロ」。
この曲は、よほど下手くそでない限りどのオケがどう演奏しても楽しめるようにできている。プリミティヴな感覚のツボを突いてくるのだ。必ず感動するようにできている。こういう作法はちょっとアンフェアではないかとさえ思うけど、いつもやられてしまう。
今回もやられた。

最弱音でスネアドラムがリズムを刻み始めると会場は一挙に極度の集中を強制される。徐々にテンションが高まリ、最後の1小節で突如のクライマックスを迎えようやくにして緊張が解き放たれるが、それが大いなるカタルシスだ。
最近ではN響のボレロも聴いているが、今日の都響の方が強烈だったな。

演奏が終わると指揮者は、ソロを受け持った演奏者を指名し、観客の拍手を促すが、フルートに始まって、トランペット、ホルンなどが続き、トロンボーンでは会場の反応がひときわ高くなった。

ちょっと大野さん、一番大事な人を忘れているんじゃないの?と心配していたら、最後に、この日は舞台中央に陣取ったスネアドラムを指名して、もう会場は割れんばかりの歓声と拍手だった。
好漢大野和士の心憎い演出だ。


♪2016-023/♪サントリーホール-02

2016年2月26日金曜日

MUZAナイトコンサート2月 パイプオルガン&兄妹ピアノ・デュオ

2016-02-26 @ミューザ川崎シンフォニーホール


パイプオルガン:石丸由佳!
ピアノ・デュオ:Die Sonne(ディ・ゾンネ⇒宮崎大介&宮崎陽子)*

・J.S.バッハ/デュプレ編曲:
 シンフォニア(教会カンタータ「神よ、われら汝に感謝す」BWV29より)!
・インファンテ:アンダルシア舞曲 第1楽章*
・サン=サーンス:幻想曲 変ホ長調!
・サン=サーンス:「動物の謝肉祭」より!*
・ビゼー:カルメンの主題による幻想曲!*

!⇒オルガン *⇒ピアノデュオ
-------------------
アンコール
J.シュトラウスⅠ:「ラデツキー行進曲」!*

3人共知らない名前だなと思っていたが、オルガンの石丸由佳は昨年6月に、みなとみらいホールで神奈川フィルとサン=サーンスの交響曲「オルガン付き」を聴いていた。オルガニストって、たいてい客席からは顔もよく見えないし、ピアノのようなタッチの違いが音に現れるということがない(と思う)ので、誰の演奏を聴いたか、ということに関してどうも記憶に残りにくい。

ミューザのオルガンはこれまで、オーケストラと一緒に聴いたことがあるが、単独では初めてだった。みなとみらいホールのオルガンの方が客席から見えている部分は大きいように思うけどパイプの数はミューザの方が多い。ということはそれだけ多彩な音色を出すことができるのだろう。

とはいえ、どこで聴いても、誰が弾いてもオルガンの音は同じように聞こえるのは凡夫の耳のせいだろうな。
ま、なんであれ、一人でオーケストラの迫力を出せるオルガンの魅力を楽しんだ。

ピアノデュオのディ・ゾンネは間違いなく初めて聴いた。
フルコンサートグランドが向かい合わせに2台。これはとても迫力がある。
自由席なので、自分なりに、小編成ではベストと思っている場所に陣取って聴いたが、ホンにピアノの音がきれいだ。きらめいていてスコーンと抜けてゆく感じがいい。特にミューザのピアノは明るい音がする。

ピアノとオルガンでは相性が悪いでのはと思っていたが、なんてことはない。グランド2台が全然負けていないのでまるでオーケストラでピアノコンチェルトを聴いているようなものだ。

特に、元々ピアノデュオと管弦楽のために書かれた「動物の謝肉祭」は、管弦楽パートをオルガンが受け持って何の違和感もないどころか、こういうスタイルも面白いと感心した。

この「謝肉祭」から、パイプオルガンの演奏は、舞台最後部の定位置から、舞台上におかれたリモート・コンソールで行われたので、比較的間近で手脚の動きを見ながら聴くことができた。

その「謝肉祭」の中の<森の奥のカッコウ>が登場する場面で、オルガニストはコンソールから離れて2本の縦笛のようなもの(2種類計4本)を吹いてカッコウの鳴き声を出していた。

カッコウの鳴き声でもカラスの鳴き声でもなんだって、オルガンで出せるだろうにどうしてかな、と思ったが、演奏が終わってから説明があった。

その縦笛のようなものは、実はパイプオルガンのパイプそのものだった。

観客が見ているパイプオルガンのパイプの数はせいぜい100本前後だろう。しかし、ミューザのパイプオルガンのパイプの本数は5248本だという。つまり、5千本以上のパイプが見えているパイプの後ろにぎっしり詰まっている訳だ。そしてその中には木製のパイプもあり、まるでリコーダーのようなサイズの物もあって、それらが時には鳥の鳴き声を発したりする訳だ。
この日は、わざわざそれを見せてくれるために予備の木製パイプを使ってカッコウの音を鳴らしてくれた次第。

粋な編曲と演出だった。


♪2016-022/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-04

2016年2月21日日曜日

第27回東京藝術大学ホルンアンサンブル定期演奏会

2016-02-21 @文化会館


日高剛:指揮*
藝大ホルンアンサンブル

J.ウィリアムズ:Olympic Funfare and Theme gor 12 Horn and Percussions
ニコライ・チェレプリン:Six Piece
ボザ:SUITE pour Quarte Cors en Fa
アレック・ワイルダー:Nonet fot Brass
Werner Pirchner:Born for Horn
ワーグナー(Arr by Koichi Ohashi ):ジークフリートの音楽*


オーケストラに登場する弦楽器以外の楽器の中で一番重要な役割を担っているのがホルンではないか。木管楽器との親和性が高く、弦とも馴染みやすい。
攻撃的な音も出るけど、オーケストラでは大抵はやわらかな音色を期待されて使われている。特にホルンが3本、4本で和音を奏でるときに、他の管楽器では味わえない独特の響が美しい。

しかし、プロでも時々音が出なかったり、とんでもない音を出したりしているので、相当コントロールが難しい楽器みたいだ。

今日の演奏会は、プロのホルン奏者の卵、東京藝大のホルン科の学生たちの定期演奏会だった。
ホルンは16人。それに打楽器とテューバが計5人加わって、最少編成四重奏から十数人の編成まで、ほとんど知らない曲ばかりだったが、みんな巧いものだ。


唯一知っている曲は最後の大物、ワーグナーの「ニーベルングの指環」の第二夜「ジークフリート」の音楽全3幕を抜粋してホルン合奏に編曲したもの。
オリジナルでも、ホルンが大活躍する音楽だが、このアンサンブルは、ホルン、テューバとパーカッションだけなので、この編成でワーグナーの世界を表現するのは並大抵ではないが、みんな頑張っていたと思うよ。

この作品だけ、指揮者がついた。
藝大ホルン科の准教授の日高剛さん。
かつて日フィル、読響を経てN響の首席代行をしていたそうで、その頃の記憶はないけど、その後、藝大の教職にあるようだ。
我が家の近くの「かなっくホール」でリサイタルを聴いたことがあって、当然とはいえ、見事な技に感嘆したものだ。

♪2016-21/♪東京文化会館-02

2016年2月20日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽堂シリーズ第6回定期演奏会

2016-02-20 @県立音楽堂


野平一郎:指揮&ピアノ*
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595*
ジョージ・ベンジャミン:3つのインヴェンション(日本初演)
ハイドン:交響曲第104番 ニ長調 Hob.Ⅰ:104 「ロンドン」


野平さんという人の指揮は初めてだったが、TVの音楽番組ではむしろ作曲家や学者(解説者)として登場する機会が多いように思う。

モーツァルトとハイドンに挟まれたジョージ・ベンジャミンなる人は現代の英国人で60年生まれだ。
今でも若いが、もっと若い頃は神童と呼ばれたそうで、プロムスで演奏された作品の最年少記録保持者だそうな。

今日の音楽は、もちろん、超現代音楽で、訳が分からない。
いや、音楽というものだろうか?
旋律はなく、和声もなく、不規則なリズムを伴った「音」は存在するが、癒やしには程遠い。
二十数名の小規模管弦楽でステージの両側にパーカッションが配置されて時々炸裂してびっくりさせる。
現代音楽というものは如何に観客を驚かせるかが肝のようだ。

不規則なリズムなので、出番を間違えないように楽団員も楽譜とにらめっこだったな。
日本初演だそうだ。
前回の音楽堂定期でも細川俊夫作品の日本初演があったが、神奈川フィルもなかなか意欲的だ。もっともいずれも再演を聴きたいとは思わないけど。

https://youtu.be/F7h4XVaMOHo


モーツァルトは野平氏のピアノ弾き振りだった。
聴き慣れた演奏で、何か発見することもなければ、驚かされるものもなかったけど、そういうのもいいものだと、超現代音楽との対比で強く思う。

ハイドンは、106曲の交響曲の最後の作品(番号無しが2曲)。
僕がン十年前に初めて購入したハイドンの作品(LP)がこの104番「ロンドン」と第88番「V字」のカップリングだった。思えば長い付き合いだけど、実は最近数年間は聴いていなかった。
久しぶりに聴いてみると、ちょっと聴き?にはハイドンとも思えないような重厚さがある。それに哀愁も感じたなあ。
つい、ハイドンというと、ユーモラスで陽気でイタズラっぽいイメージで入ってしまうけど、そればかりじゃないんだな、というアタリマエのことを発見。

音楽堂シリーズは第1回目からハイドンの交響曲を取り上げてきているが、ここのキャパシティといい、ソリッドな音響といい、ハイドンにはピッタリの感じがする。この日も硬質な響きが心地良かった。

♪2016-20/♪県立音楽堂-01

2016年2月15日月曜日

劇団民藝:光の国から僕らのために―金城哲夫伝―

2016-02-15 @紀伊國屋サザンシアター


光の国から僕らのために―金城哲夫伝―

金城哲夫⇒齊藤尊史
上原正三⇒みやざこ夏穂
円谷一⇒千葉茂則
満田かずほ⇒岡山甫
金城裕子⇒桜井明美
ヘリのパイロット(航空自衛隊)⇒平野尚
ディレクター⇒本廣真吾
娘たち⇒いまむら小穂、望月香奈、大黒谷まい、榊乃つぐみ、竹本瞳子
海洋博の主催者たち⇒本廣真吾、大野裕生
青年(文学部の学生)⇒細山誉也
 ほか


主人公の金城哲夫という人は、かつて円谷プロが制作したTVドラマ「ウルトラマン」の中心的スタッフだったそうだ。
沖縄から上京し、若くして円谷プロ企画文芸室長(といっても小規模プロダクションではどれほどの意味があるポストなのか分からない。)に就いて、シリーズの企画、構成、メインライターを担当した。69年、ブームに陰りが見えてきたとはいえ、金城自身はシナリオライターとして一定の地位を築いていたが、その仕事に見切りをつけて故郷の沖縄に戻ったのは30歳そこそこだった。
沖縄でも沖縄芝居を書いたり、海洋博の演出なども手がけて活躍したが、酒で心と身体を壊し、家の2階から転落死したそうだ。享年37歳。

この芝居は、そのような事情を背景に金城哲夫の生きざまを描くのだけど、正直なところ、ピンとくるものはなんにもなかった。
どこか、金城の人間性に軽薄な印象がまとわりついて吹っ切れない。

ウチナンチュウとヤマトンチュウの心の壁、沖縄戦、長いアメリカ統治なども投入されるのだけど、これ自身がすでにステロタイプだ。物語のどこに焦点があるのか分からない。
それは金城哲夫そのものの腰の定まらない生き方を反映しているようでもあり、主人公への共感が少しも深まらないのだ。

ありふれた小さな話を「沖縄」という悲劇的な土壌にかぶせて話を無理に大きくした感がある。

大城立裕という沖縄出身の芥川賞作家がプログラムに寄稿していた好意的な批判が的を射ていたように思った。
「君の愛郷心は机上のものにとどまった節がある。あと一皮も二皮もむける必要があったと、僕は見ている」。



♪2015-019/♪紀伊國屋サザンシアター-01

2016年2月14日日曜日

読売日本交響楽団第184回東京芸術劇場マチネーシリーズ

2016-02-14 @東京芸術劇場大ホール


シルヴァン・カンブルラン:指揮(常任指揮者)
読売日本交響楽団

モーツァルト:セレナード 第13番 ト長調 K.525
      「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
マーラー:交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」


マーラーの交響曲第7番は馴染みが薄い。
各オケの定期演奏会でも滅多に取り上げられない。
内容の不可解さ(あるいは高度な精神性?どっちにしても素人にはハードルが高い。)ゆえの不人気もあるだろうし、オケも大規模で多種多彩な楽器と奏者を必要とする事情も無視できない。それに演奏時間が長い!

今日の読響のプログラム記載の予定時間は77分とあったが、実際の時間は83分を要した。

そんな訳もあって、ナマで聴くのは今回が初めてだった。

CDでは何度も聴いているし、放送録画ビデオも持っているが、これらではなかなかこの曲の面白さが伝わってこない。

しかし。

今日は読響の精緻でパワフルな演奏で初めて7番の妙味に近づいた気がした。
やはりCD100回よりナマ1回だ。

よくぞこんなにも複雑な構造物を作り上げたものだと、その執念に感服するが、穏やかさは束の間の夢の如し、全曲ほぼ激しくドラマチックなのでかなり気疲れする音楽ではある。

全体の構成感が心許ないのは馴染み不足もあるかもしれないが、やはり長すぎるのも一因だろう。
聴き手の覚悟や体調も問われる作品だけど、準備怠りなくがっぷり組み合ってこそ面白さが出てくるようだ。


先日のみなとみらい定期でも読響のハイレベルな実力を堪能したが、今日はさらに気合いが入って素晴らしかった。やはり我が国のトップ3には間違いなく入ると思う。
また、不思議な事に、前回芸術劇場で読響を聴いた際に(この回は演奏も不満が残ったが)、このホールの音響はイマイチだと思ったが、今日は違った。少し固めの澄んだ音が揺るぎなくガンガンと響いてきた。


♪20156-018/♪東京芸術劇場大ホール-1

2016年2月13日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第316回

2016-02-13 @みなとみらいホール

川瀬賢太郎:指揮(常任指揮者)
宮田まゆみ(笙)
津田裕也(ピアノ)
石田泰尚(バイオリン【ソロ・コンマス】)
山本裕康(チェロ【首席チェロ奏者】)

神奈川フィルハーモニー管弦楽団

細川俊夫:光に満ちた息のように
ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
ベートーベン:ピアノ、バイオリン、チェロのための三重協奏曲ハ長調作品56
ベートーベン:交響曲第7番イ長調作品92

第1曲めの笙の独奏はステージを暗くしてパイプオルガン席から不思議な音色が響き渡った。笙1本のはずだが、ところどころオルガンが伴奏しているのかと思わせるような多彩な音色と重音が要求されていた。

最後の音が闇に消えてゆくと同時に舞台が徐々に明かるくなり、ローエングリン前奏曲が始まった。

こんな風に始まると、いつも聴いているワーグナーではない別の音楽のようでもある。これは一興だった。

ベートーベンのトリプルコンチェルト(三重協奏曲)は、大天才・楽聖ベートーベンに対して何の才能もない素人がまことにおこがましいが、彼自身、満足できなかった作品ではないかと思う。

どうも、インプロヴィゼーションの面白さやきらめく才能を感じない作品だ。三つの独奏楽器のバランスも悪く、チェロ協奏曲にも聴こえる。

とはいえ、ピアノトリオをそっくり独奏部に配した大掛かりな管弦楽との協奏はそれなりに楽しめる。

今日の白眉は当然メインディッシュの第7番だ。
第1楽章から間を置かず第2楽章に入ったのは新鮮だった。
ここはアタッカ(休まず次の楽章へ)の指示は行われていないし、そういう演奏をこれまで聴いたことがなかったが、やられてみるとこれは心地がよろしい。

全曲通じて、メリハリの効いたリズミカルでアクロバティックな躍動感に溢れ、ナマでなければできないような大胆な演奏だった。
カワケンも神奈川フィルをもうすっかり自家薬籠中のモノにしてしまったか。団員も彼の情熱に応えようとして一体感が高まってきたのがウレシイ。


♪2016-017/♪みなとみらいホール-06

2016年2月10日水曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.74 シエナ・サックス

2016-02-10 @みなとみらいホール



シエナ・サックス
 榮村正吾:ソプラノサックス
 上野耕平:アルトサックス
 貝沼拓実:テナーサックス
 大津立史:バリトンサックス

+羽石道代:ピアノ*

R.ロジャース(編曲:真島俊夫):マイ・フェイヴァリット・シングス 
A.フラッケンポール:ラグタイム組曲 
E.モリコーネ(編曲:石毛里佳):ニュー・シネマ・パラダイス
A.L.ウェバー(編曲:宮川彬良):私が愛したロイド・ウェバー*
-----------------
アンコール
ピアソラ:ミケランジェロ*


シエナ・ウインド・オーケストラというのは、数少ないプロの吹奏楽団だ(厳密には「吹奏楽団」という言い方は適切ではないのかもしれないが。)。
ナマで聴いたことはないが、TVのクラシック倶楽部だかクラシック音楽館だかで聴いたことがある。日本ではトップクラスらしい。

「シエナ・サックス」というグループは、そのシエナ・ウインド・オーケストラのサキソフォン部門4人で構成されたサックス四重奏団だ。

以前にもサックスばかり18人で構成された「サクスケルツェット」というグループの演奏を、同じクラシック・クルーズのシリーズ、同じみなとみらい大ホールで聴いたことがある。
弦の入らない室内楽団というのは、表現力の面でハンデがあるが、一方で、管楽器ならではの陽気な迫力は魅力だ。

弦楽四重奏がバイオリン2本とビオラ、チェロと3種類の楽器計4本なのに対して、「シエナ・サックス」はバイオリンに相当する楽器がソプラノ・サックスとアルト・サックスに分かれているのは、これらの楽器の音域がバイオリンほど広くないからかな。

まあ、同種の性質を持った楽器同士だから重奏の響は違和感がなくきれいに混ざり合ってまるでオルガンの如し。

今日の曲目は、クラシック・クルーズにしては所謂クラシックの焼き直しは一つもなく、すべて映画音楽やミュージカルからサックス四重奏に編曲されたものばかりだった。
もっとも、この編曲がえらく凝っていて、かつ、ジャズっぽいので、本来の映画音楽のような分かり易さはないのだけど、そこがまた面白みでもあった。

個人的には、本篇最後の、A.L.ウェバーの作品を宮川彬良が編曲した「私が愛したロイド・ウェバー」が一番楽しめた(この曲とアンコールはピアノが加わってピアノ五重奏団?になったので一層表現の幅が広がって良かった、といっては皮肉かな。)。

なんといっても、A.L.ウェバーはいい。
しかも、僕がA.L.ウェバーに開眼したロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」から始まったのもウレシイ。
「エビータ」、「キャッツ」、「オペラ座の怪人」などの有名なアリアが散りばめられて、甘いばかりではない宮川流にアレンジされた一風変わったメドレーになっていた。


♪2016-016/♪みなとみらいホール-05

2016年2月7日日曜日

N響第1829回 定期公演 Aプログラム

2016-02-07 @NHKホール


パーヴォ・ヤルヴィ:指揮
マティアス・ゲルネ:バリトン*
NHK交響楽団

マーラー:亡き子をしのぶ歌*
ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調(ノヴァーク版)

マティアス・ゲルネの歌を聴くのはN響定期で2度めだ。
前回はワーグナーのアリア集で、オーケストラのバックも派手で聴き応えがあったが、今回は地味な歌だ。
当初は同じくマーラーの「子供の不思議な角笛(抜粋)」と発表されていたが、いつの間にか、プログラムが訂正され、「亡き子を偲ぶ歌」になっていた。
僕としてはCDも持っていないし、まともに聴いたことのない「子供~」の方が聴いてみたかったが。

詩人リュッケルトが2人の子供を相次いで亡くした哀しみを綴った慟哭の詩に作曲したものだから当然訳詞を読んでも暗い内容だし、音楽も然り。聴き慣れていないせいもあって楽しむには程遠くまあ、一応聴いたというところ。

しかし、マティアス・ゲルネは前回も感心したが、立派な体格から発声するバリトンは広いNHKホールにも十分こだましていた。


ブルックナーの5番は一昨年のN響定期でマレク・ヤノフスキの指揮で聴いて、その時初めてブルックナーに開眼した思いがした、という作品なのだけど、今日は残念ながら体調不十分で前回のような集中は出来なかった。

厳格な対位法的手法が駆使されているそうで、それは前に聴いた時にもうすうすは感じた。
今回は事前にスコアを読みながら手持ちのCDを何度か聴いてある程度は確認できた。
第1楽章の主題を始め、幾つかの主題(らしき旋律)が他楽章でも繰り返し(形を変えて)登場し、終楽章はその極みのようにソナタ形式の中にフーガが取り込まれているようだ。
終始、第1楽章の主題が波状攻撃を仕掛け、金管の派手なコラールがクライマックスを形成する。
おそらく、とても精密に構成されているのだろう。
しかし、いかんせん長過ぎる(終楽章だけで24分位。全楽章で75前後。)。その中で何度も同じ旋律(の断片)が繰り返されるので、無駄な重複ではないか、と感じてしまう。

まあ、これも繰り返し聴いているうちに至福をもたらす音楽の一つになるのかもしれないが、僕には道が険しそうだ。


♪2016-015/♪NHKホール-02

2016年2月6日土曜日

読響第85回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2016-02-06 @みなとみらいホール


シルヴァン・カンブルラン:指揮
辻井伸行:ピアノ*
読売日本交響楽団

デュティユー:音色、空間、運動 
ベートーベン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
ベートーベン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
---------------------
アンコール(ピアノソロ)*
ベートーベン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調第1楽章


全盲のピアニストは辻井くんのほかにも聴いた経験があるが、その度思うのは、彼らの心の中には何が見えているのだろう。
ひょっとして目明きには見ることが難しい「音楽」そのものが写っているのだろうか。

協奏曲も良かったが、アンコールは月光第1楽章。
これは辻井くん!反則じゃないの。
そうでなくとも全盲というハンデを持った若者で見かけも愛嬌があって、見事な演奏を終えると万雷の拍手に応えて腰を90度以上に曲げて三方、四方にお礼をする姿を見て、十分感動せざるを得ないところに、よりによって「月光」のアルペジオが始まったのでは、会場の観客も舞台のオケの団員もみんなやられてしまうが必然。

夜空と化したみなとみらいホールの天井には満月が出て、薄暗い客席を明るく照らし、しばし天国に誘われた如しであった。

ホンにコンテンツ(音楽)はストーリーを纏い、美しく膨らんだストーリーに人々は共感する。
音楽の本質とは離れたところに感動することがしばしばあるのは要注意だ。
辻井くんのような感動的ストーリーを身に纏った場合は、コンテンツが正しく見えなくなり易いかもしれない。

先日、東響の「田園」で今更ながらその良さを再発見した思いがしたが、読響はさすがの力量を見せつけて一段格上の仕上がり。

今日の読響定期は、常任指揮者のカンブルラン、久々登場の日下紗矢子コンマス、辻井くんと役者が揃ったことあって大いに盛り上がった至福の2時間だったが、おかげであらためてベートーベンの魅力を堪能した。


♪2016-014/♪みなとみらいホール-04

2016年2月5日金曜日

二月大歌舞伎 新書太閤記

2016-02-05 @歌舞伎座


吉川英治 作
   今井豊茂 脚本・演出
通し狂言 「新書太閤記」(しんしょたいこうき)
  長短槍試合
  三日普請
  竹中閑居
  叡山焼討
  本能寺
  中国大返し
  清洲会議

木下藤吉郎/羽柴秀吉⇒菊五郎
織田信長⇒梅玉
寧子⇒時蔵
柴田勝家⇒又五郎
織田信孝⇒錦之助
上島主水⇒松緑
濃姫⇒菊之助
織田信忠⇒松江
小早川隆景⇒亀三郎
福島市松⇒亀寿
おゆう⇒梅枝
加藤虎之助⇒歌昇
浅野又右衛門⇒團蔵
前田利家⇒歌六
母なか/丹羽長秀⇒東蔵
竹中半兵衛⇒左團次
明智光秀⇒吉右衛門


この芝居、吉川英治の原作が新聞に連載された昭和14年に既に歌舞伎になったそうだ。その後も原作の連載が続くに連れ、続編が制作され、再演も度々行われたと歌舞伎座「筋書き」に書いてある。
しかし、今回は全く新しい脚本で上演された。素材は同じだけど、芝居としては新作だ。

と言っても、その内容は、これまでに繰り返し、映画化、舞台化、TVドラマ化されてすっかり承知のものばかりなので目新しさはないけど、それを「歌舞伎」でやるとどうなるのか、が興味の的だ。

いずれもよく知られた7つのエピソードが繰り広げられる。
細々とした部分まで承知している訳ではないけど難しい話はなんにもないのですんなり頭に入るけど、なんか物足りない。

菊五郎の一人舞台と言って良い。ほぼ出ずっぱりだ。
その分、時蔵、梅玉、菊之助、松緑、吉右衛門などの役割が霞んでしまう。
全体に一本調子で、エピソードを次々と見せる紙芝居を見ているような味気なさ。空疎なものを感じてしまった。
それらの出来事、藤吉郎=秀吉と信長、光秀、半兵衛などとのやり取りを通じて秀吉の人間性が浮かび上がるといった工夫が感じられない。
平板な構成・演出に終わった。

また、これって歌舞伎といえるのだろうか。
同じ脚本で新派の役者が演じたらそのまま「新派」公演になるのではないか。

どうにも引き込まれず、カタルシスも得られず、隔靴掻痒の思いで帰路についた。


♪2016-013/♪歌舞伎座-01