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2022年2月26日土曜日

ホールアドバイザー小川典子企画 女の愛と生涯

2022-02-26 @ミューザ川崎シンフォニーホール





ソプラノ:市原愛
ピアノ:小川典子*
朗読:江原陽子

シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」op. 42
 Ⅰ あの方にお会いしたその時から
 Ⅱ 誰よりも素晴らしぃお方
 Ⅲ 私には信じられない
 Ⅳ 私の指輪よ
 Ⅴ 妹たち、手伝って
 Ⅵ 愛しい人、あなたは見つめている
 Ⅶ お前は私の喜び
 Ⅷ はじめて与えられた苦しみ
クララ・シューマン:ポロネーズ第1番 op. 1-1*
クララ・シューマン:たおやかな蓮の花 op.13-6
メンデルスゾーン :歌の翼に op. 34-2
メンデルスゾーン :春の歌 op. 62-6*
シューベルト:野ばら D. 257
シューベルト:ます D. 550
シューベルト:ズライカ第1番 D. 720
シューベルト:楽興の時第6番 D. 780/6*
シューベルト:糸を紡ぐグレートヒェン D. 118
R.シュトラウス:あすの朝 op. 27-4
R.シュトラウス:献呈 op. 10-1
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シューマン:献呈(歌曲集「ミルテの花」第1曲 op25-1)
*⇒Pf Solo

シューマンは大好きだけど、声楽作品で馴染んでいるのは歌曲集「女の愛と生涯」と歌曲集「ミルテの花」くらい。
しかし全曲を生で聴いたことがなかった。

今回は広義の「女の愛と生涯」に特化した好企画。
ソプラノが市原愛というのも嬉しや。


シューマン「女の愛と生涯」に加え、クララ・シューマン、メンデルスゾーン、シューベルト、R.シュトラウスによる広義の「女の愛と生涯」を巡る作品を揃えた全19曲。うちPfソロ3曲。

訳詞はついてなかったが、その代わりに各作品の内容を説明する朗読付き。

最後がR.シュトラウスの「献呈」。
全て心地よく聴いたが、アンコールになんとシューマンの「献呈」(「ミルテの花」第1曲)。心憎い構成で、とてもホクホクできた。

♪2022-026/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-06

シューマン:献呈

2018年10月13日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第343回

2018-10-13 @みなとみらいホール


川瀬賢太郎:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

波多野睦美:メゾソプラノ*
野田清隆:ピアノ*
横須賀芸術劇場少年少女合唱団(児童合唱)*
市原愛:ソプラノ**

権代敦彦:子守歌ーメゾ・ソプラノ、ピアノ、児童合唱とオーケストラのための*
マーラー:交響曲第4番ト長調**

権代敦彦作「子守歌~」は表題のとおり、管弦楽にメゾ・ソプラノの独唱とピアノに児童合唱が加わった編成だ。
その独唱と児童合唱の中で独唱を受け持つ2人、計3人に拡声装置が使われた。独唱についてはマイクで拾いアンプを通して舞台上のスピーカーから大きな音量で明瞭に聴こえる訳だ。
しかし、歌謡ショーじゃあるまいし、どうして生の声を使わなかったのか違和感があった。

その疑問に対する神奈川フィルの回答は、「スコアにPA使用の指示はありませんが、指揮者、ソリストともにオーケストラとのバランスを取るため、PAを使用するべきと選曲時から考えておりました。
3年前の名古屋フィルでの子守歌(川瀬賢太郎指揮、独唱藤井美雪)の演奏は、作曲家も会場に来場しておりましたが、その際もPAを使用していましたので作曲家も公認のセッティングということで理解をしております。」ということだった。

稀に作曲家が拡声装置の仕様を楽譜上指示する場合がある(コリリアーノ作曲「ミスター・タンブリンマン─ボブ・ディランの7つの詩」)。それならば仕方がない、というか、当然なのだが、今回のは、公認というより黙認なのだろう。

楽譜上作曲家の指示が無いのなら、演奏時においてナマの独唱がオケにかき消されないようにバランスをとるのが指揮者の腕だ。また、拡声装置などなくたって声は会場に十分響き渡ったと思う。
現に、2曲めのマーラーでは独唱はナマで歌われた。オケとのバランスを言うなら、むしろ、この曲でこそ独唱に拡声装置をつけるべきだった(本気でいうのではなく、皮肉だ。)。

マイク〜アンプ〜スピーカーを通したことによって、この作品の情感が安っぽく盛り上がってしまったと思う。

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尤も、この拡声装置の問題を抜きにしても、この音楽は素直に聴くことができなかった。

この作品は、2001年の池田小児童殺傷事件の被害者遺族のうちの1人の母親の手記と旧約聖書を素材に編集した、嘆き、鎮魂、祈りの歌だ。
まだ誰も忘れていない具体的な事件を題材にしている。
テキストも、淡々と綴られていることがむしろ聴く者の胸をかきむしるはずだ。
生々しい記憶のおかげで、犠牲になった児童8人と合唱団諸君が重なり、一層、事件の非情・悲痛は訴えるものの、「音楽」以前に「この鎮魂歌」の目的・存在そのものが腑に落ちず混乱してしまった。
誰のための鎮魂なのか~遡って鎮魂とは何かまで、考え込んでしまった。
作品の出来は別としてもう聴きたくない。

しかし、横須賀芸劇少年少女合唱団が難しい音楽を歌い切ったのには驚いた。これは立派だった。また、オケも終始高い緊張を維持した。

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後半のマーラー4番。
先月のパーヴォ・ヤルヴィ+N響とつい比較してしまうが、こちらも川瀬賢太郎の指揮が行き届いている感じで、神奈川フィルは健闘した。
長過ぎる!第3楽章がようやく終わっていよいよ第4楽章のソプラノが始まると、その軽やかな旋律にホッとし、天上界へと誘われる…段取りなのだが、今回のソプラノ嬢は、きれいな声だけど音圧不足。天上界気分に浸れずに終わった。

狙いは、「子守唄ー」の後を継いで苦しみの浄化を果たすはずだったが、その点ではやや不満が残った。

♪2018-129/♪みなとみらいホール-28

2017年12月27日水曜日

N響「第九」Special Concert

2017-12-27 @サントリーホール


クリストフ・エッシェンバッハ:指揮
NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ

オルガン:勝山雅世*
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ソプラノ:市原愛
メゾ・ソプラノ:加納悦子
テノール:福井敬
バリトン:甲斐栄次郎

J.S.バッハ:トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV564 ― トッカータ*
J.S.バッハ(デュリュフレ編):コラール「主よ、人の望みの喜びよ」*
J.S.バッハ(イゾアール編):アリア「羊は安らかに草をはみ」*
J.S.バッハ:「天においては神に栄えあれ」― フーガBWV716、コラールBWV715*
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ベートーベン:交響曲第9番ニ短調 作品125 「合唱付き」

さて、エッシェンバッハの指揮をナマで聴くのは初めて。
N響C定期ではブラームスの交響曲を2回にわたって全曲指揮し、既にNHK-TVのクラシック音楽館でも放映され、録画の際にちらっと聴いたものの、ゆっくり聴く時間がないので本気では対峙していないが、年末年始にじっくり聴いてみようと思っている。
このブラームスの演奏は概ね好評だったようだが、今回の「第九」に関するNET評なども「良かった!」という評判が多いので、大いにがっかりした僕としては、世間の評はアテにならないという思いを今更ながら強く確信した。ブラームスも予断にとらわれずに聴かねばなるまい。

オケまず、合唱は、今回 P(舞台後方)席を客席とせず、ここに並んだ。これは数えやすい。全部で90人だった。やや少なめだがプロ集団だから数に恃む必要はないのだろう。東京オペラシンガーズだ。やはり、少ない人数を感じさせない馬力があった。大規模編成のオケにちっとも負けていない。それでいてあまり濁ることもなかったのはさすがプロだ。合唱団には満足できた。

声楽独唱者は、全員、何度か「第九」やオペラなどで聴いている人で各人は一流の腕なのだろう。しかし、バランスがどうだったか。特に合唱団に馬力があるので、合唱と独唱が一緒に歌うところでは独唱のアンサンブルの声量に不足を感じた。

オケ編成は、所謂16型。倍管。なのでコンバスも8本だ。今年聴いた「第九」の中で最大編成かどうかは分からないが、一、ニを争う大きな編成だった。そのせいで、合唱はP席に追いやられたのかも…。結果、観客席が制限を受け、そしてチケットが高くなった…という訳ではないだろうな。昨年、サントリーホールで都響の「第九」を聴いた時は合唱団は舞台上に陣取ったので、今回のN響の編成でも合唱団も一緒に並ばないこともなかったのかもしれないが、でも、並んだら相当窮屈だったろう。

大規模編成だから、迫力はあるし、演奏能力は高い。やはり、弦の美しさ(美しいところでは!)はどのオケよりもきれいに思う。しかし、今回の演奏にがっかりしたのは、演奏能力の問題ではなく、指揮の問題だ。

どの楽章もテンポは中庸ないし遅め(特に第3楽章)の設定だった。これは僕としては好みではない。できたら、第3楽章以外は可能な限り in tempo で疾走してほしい。でも、これは僕の偏った好みかもしれないから、テンポ設定に文句は言うまい。

問題は、テンポや音量を弄り過ぎだということだ。演出過剰で、外連であり、嫌味である。俗っぽすぎる。素人芸のようでさえある。フレーズの終わりを極端に dim したり rit して次のアタックを効かせるなんて、あまりにも安易ではないか。

かと思うと、第2楽章など本来は molto vivace なのであるから、相当速いはずだが、それが随分ゆったりしている。弦のアンサンブルが微妙にずれて、小節の頭だけで合わせていたような部分があったが、これは中途半端なテンポ設定に原因したのではないか。

また、第3楽章は遅くとも良い。 Adagio なのだから。いくら遅くとも音楽になっておればいい。
エッシェンバッハは16分20秒だった。この年末に6回聴いた「第九」の中では一番最長時間だが、長さだけを見れば世界標準だろう。
朝比奈隆のCD(新日本フィル・1988年12月@サントリーホール・ライブ録音)など第3楽章に19分48秒をかけていて、それはそれできれいな音楽になっているのだ。

問題は、冒頭書いた演出過剰だ。一番驚いたのが92小節目のホルンの独奏だ。聴きどころ・聴かせどころだが、ここで急ブレーキを踏んだように遅くなった。それで気持ちがつんのめってしまった。この急ブレーキに必然性はあるのだろうか。スコアを見てもこの場所にはテンポを含め何らの指示もないのだ。

どうやら、エッシェンバッハは「第九」の世界の中で独自の呼吸をしているようだ。僕にはそれが過剰だと思う。おそらく、N響の団員たちも違和感を払拭できていないのだ。

第4楽章。冒頭の強奏後、何度も繰り返される低弦のレシタティーヴォに勢いがない。ここはチェロやコンバスにとって最大の聴かせどころだが、勢いに欠ける。音も美しくない。年末の6回の「第九」中最低のレシタティーヴォだった。N響とは思えない。
それというのも、こういう部分こそ、特に指揮者と奏者が息を合わせなくちゃうまくゆかないが、呼吸があっていないのだ。
エッシェンバッハはそれを感じていなかったのだろうか?年末に計5回の「第九」を演奏して、今日がその最終日だというのに両者の呼吸が合っていない。
なぜ合わないか。
そりゃ、あまりにエッシェンバッハの呼吸が「独自」過ぎるからだ。こういう独自解釈を押し付けられてはいい迷惑だが、それでも、プロ同士として両者歩み寄り、それなりに呼吸を整えてモヤモヤの残らない演奏を聴かせてほしかった。

一昨年のパーヴォ、昨年のブロムシュテットと組んだN響の「第九」は素晴らしかった。「神は細部に宿る」という言葉を実感したような、行き届いたアンサンブルであった。
今年も一番の期待をかけて1年のコンサート聴き納めに選んだのだが残念な結果だった。

♪2017-212/♪サントリーホール-06

2015年12月13日日曜日

第50回 クリスマス音楽会「メサイア」全曲演奏会

2015-12-13 @県立音楽堂


小泉ひろし:指揮

市原愛(ソプラノ) 
上杉清仁(カウンターテナー) 
中嶋克彦(テノール) 
萩原潤(バリトン)
長久真実子(チェンバロ) 
宇内千晴(オルガン)

神奈川県合唱連盟、音楽堂「メサイア」未来プロジェクト(神奈川県立海老名高等学校、湘南高等学校、大和西高等学校)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ヘンデル:オラトリオ「メサイア」HWV56


ここ3年はずっとみなとみらいホールで開催される昭和音大のメサイアを聴いていたが、今年はほかのコンサートと重なってしまい、残念ながら、と言っちゃ失礼だけど、音楽堂のメサイアにした。

というのも、昭和音大のオケも合唱団も大規模かつハイレベルで大いに満足していたから。

音楽堂のメサイアは今年で50年だというのに、僕は今回が初めてだった。もともと、アマチュアの合唱団の集まりである神奈川県合唱連盟が始めたことらしい。この中には高校生も混じっていて、最初は「ハレルヤ・コーラス」と「アーメン」(終曲)だけの参加(を許された?)だったが、徐々に曲数が増えてゆき、昨年は第2部後半の33曲目以降をすべて歌い、今年ついに全曲を歌うことになったそうだ。そういう意味では記念の、そして50回という節目の公演を聴くことが出来たのは良い思い出になるだろう。

ちなみに高校生は、県下の4校から数十人が加わったようだが、正確な人数は分からない。オトナの合唱団を含め、舞台上にはざっと数えて215?人くらいかな。
音楽堂の舞台から溢れそうだった。

4人の声楽ソリストはプロで、ソプラノの市原愛は夏のミューザの「第九」でも登場していたのを覚えている。

オケは神奈川フィルだが、全員で27名?という極めて小規模だ。
周りに大合唱団が覆いかぶさるように並んでいるので余計にこじんまりと見えた。
そのメンバーだが、どうも覚えのない面々だった。
定期演奏会に出てくる人なら少なくとも弦の首席クラスや管打楽器なら見覚えがあるはずなのに。
二軍なのか。それとも特定分野を担当するエキスパートかな。
というのも、プロに向かって恐れ多いが、演奏は上手だと思った。これといって破綻は無かった。
そして、トランペット以外はモダン楽器で、そのトランペットもピリオド楽器ではなくてモダンのピッコロ・トランペットの類だったかもしれない。が、演奏スタイルはピリオド奏法なのだろう。ビブラートは極めて少なかった。そういう方面の演奏に長けている人が集められているのかもしれない。

元々残響の短いホールで、小規模オーケストラ。そしてビブラート極少なので、楽器音はとても乾いた響だが、ヘンデルの時代はまさにこういう音だったのだろうな。


指揮の小泉ひろしという人のことは名前も知らなかったが、この音楽堂メサイアを過去23回振り、今回が24回目だそうだ。
今回は昭和音大から浮気したが、なかなか聴き応えあって、来年は、できれば両方聴きたいものだ。


♪2015-105/♪県立音楽堂-13

2015年8月8日土曜日

フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2015 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 真夏はベートーヴェンの第九で乗り切ろう!

2015-08-08 @ミューザ川崎シンフォニーホール


高関健:指揮
市原愛:ソプラノ
林美智子:メゾ・ソプラノ
錦織健:テノール
堀内康雄:バリトン
合唱:東京シティ・フィル・コーア
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

ベートーベン:序曲「レオノーレ」第3番
ベートーベン:交響曲第9番「合唱つき」


真夏の「第九」だ。
こう、猛暑が続くとむしろ「第九」は暑気払いになるかもと期待して出かけた。

同じミューザの、席もほとんど同じ場所で、3日前に都響の大規模編成のショスタコーヴィチの5番を聴いたばかりなので、それに比べるとオーケストラ編成は当然小ぶりだった。
もちろん、合唱団も並んでいるのだけど、多種多様な管・打楽器を駆使した20世紀の大管弦楽団に比べると、ベートーベンの時代の編成は単純なもので、どうしても管・打楽器パートが見た目に物足りない。それでもベートーベンが初演した時代のオケにくらべるとかなり大規模なのではないかと思うけど。

音のダイナミックレンジとか物理的なことは別にしても、野性味というか、パッションというか、そういう人の心をかき乱すものが乏しいように思ったなあ。どうも端正といえば聞こえがいいが、ケレン味はないといえばこれも聞こえがいいけど、要はこじんまりまとまった音楽のような気がした。

「おお友よ!こんな旋律ではない、もっと喜びあふれる音楽を!」

と心の中で思いながら聴いていたよ。



大いに疑問に思ったのは第3楽章から第4楽章への連結だ。
第2楽章が終わったあと第3楽章の前の休止時間に声楽ソリストが登壇するのが一般的だ。
それはなぜか、と言えば、第3楽章が終わると普通、第4楽章へは間髪入れず入る演奏が多い。それにすっかり慣れているし、緊張が持続できるから、音楽的にもそのほうが効果的だと思う。

しかるに、今日の演奏では、第2楽章が終わってもソリストは登場しない。それでもう大いなる失望のまま第3楽章が始まった。
第3楽章が終わると、4人のソリストが登場する。この機会を逸すればもう出番はないものね。彼らの登場で観客としては拍手で迎えるのが礼儀だろう(けど、僕は残念感が上回って拍手する気にならない。ここは拍手する場面じゃないだろ!と思っている。彼らが悪い訳ではないのだけど。)。


しかし、ソリスト登壇のための長い休止によって音楽は完全に中断した。第4楽章から再び気分を入れ替えて自らを盛り立てなくてはならない。

帰宅後、手持ちのCDやビデオディスクでいろんな指揮者の第3楽章から第4楽章までの休止時間を調べてみた。
CDでは各楽章はトラックに分かれているけど、そのトラック間の無音時間はどこも同じという訳ではなく、やはり音楽の流れに応じて長短がある。

CD:
◎デイヴィッド・ジンマン+トーン・ハレ管⇒2.9秒(1→2楽章、2→3楽章はいずれも10秒近い)
◎トスカニーニ+NBC交⇒1.3秒(1→2楽章23秒、2→3楽章5秒)
●小澤征爾+NYフィル⇒10.2(他楽章も10秒前後)
◎朝比奈隆+新日本フィル⇒0.8秒(他楽章はいずれも10秒前後)

ビデオ(放送録画):
●クシュシュトフ・ペンデレッキ+N響⇒15秒
◎マリス・ヤンソンス+バイエルン放交⇒3秒
▲デニス・ラッセル・デイヴィス+読響⇒6秒

以上の7つのケースのうち、
第3→第4楽章を他の楽章の切れ目とは明らかに区別して◎間髪入れないのが4ケース。
他楽章と同じように扱っているのが●小澤とペンデレッキ。
▲デイヴィスは心持ち短めだ。

一番爽快なのは朝比奈やトスカニーニの1秒前後でフィナーレ突入だ。この潔さ!この勢いの良さ!こうでなくちゃと思うよ。
第3楽章が終わってのんびり休んでいたんじゃ、もう別次元の音楽になってしまう。

時々こういう残念な演奏にぶち当たる。
去年「第九」は5回聴いて1回(日フィル定期)がこの残念なケースだった。
今年は初めて「第九」でさっそく残念ケースに当たってしまった。
定期演奏会の場合はしかたがないけど、今回のような単発の演奏会の場合は「間髪入れない」と事前に分かっておればチケット買わないんだけどなあ。



まあ、そんな訳で残念な演奏ではあったけど、しかし。
やっぱり音楽として「第九」は偉大だなあ。
あらゆる交響曲の中で一つ選ぶなら躊躇なく「第九」だ。
この崇高な音楽に比べちゃ、マーラーなんかマンガみたいだよ。ま、面白いのだけど。


♪2015-76/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-15