ラベル 大槻孝志 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大槻孝志 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年12月14日金曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団「第九」特別演奏会2018 ---「第九」❶

2018-12-14 @サントリーホール


アントニ・ヴィット:指揮
栗山文昭:合唱指揮

新日本フィルハーモニー交響楽団
栗友会合唱団:合唱

室住素子:オルガン*
---------------------
盛田麻央:ソプラノ
中島郁子:アルト
大槻孝志:テノール
萩原潤:バリトン

J.S.バッハ:トッカータとフーガ ニ短調*
ピエトロ・アレッサンドロ・ヨン:ユモレスク*
---------------------
ベートーベン:交響曲第9番短調「合唱付き」作品125

アントニ・ヴィットという指揮者は初めて。せっかくの新日フィルなら上岡敏之で聴きたかった。何年か前に読響で「第九」を振った演奏はスリリングでテンション高く、もう一度聴いてみたい演奏の一つだ。
ヴィットの指揮ぶりに関していえば、テンポは中庸だった。特段速くもなく、遅くもない。プログラム記載の予定時間は75分と書いてあったのでかなりゆっくり振るのかと思っていたが、そうではなく、実際にも各楽章の演奏時間を積み上げたら66分弱だった。楽章間のポーズはほとんどないに等しかったからそれを含めたところで66分±10秒くらいか。

また、演奏の色付けにもテンポの変化にもこれといったクセはなく、嫌味もなく、個性がにじみ出やすい第4楽章低弦のレシタティーヴォもごく素直でひっかかりのない音楽で、要するに外連味を抑えた真っ当な指揮ぶりだった。こういう点は大いに好感を持った。
それでいて、第3楽章から第4楽章への繋ぎはほんの一呼吸の間を置くや否やの突撃で、この辺りも心憎い。

変わった点といえば、オーケストラや合唱の配置だ。

合唱団は舞台の後方、オケの後ろに並んだ。オルガン前のP席を潰した訳ではない。これはよくあること、というより、舞台後方席(P席)のないホールではそうならざるを得ないし、P席があってもこれを潰さずに客席として使い、合唱団は舞台に並ぶ場合も珍しくない。
しかし、合唱団が、声部毎の縦横集団で並ぶのではなく、横に並んだ。つまり最前列は多分ソプラノが横一線に並び、その次の列はアルトが一列に、その後ろはテノール、最後列がバリトンなのだろう。栗友会では常にこういう形なのかもしれないが、僕には初めて見る形だった。なかには、男女・声部混在で並ぶ例も見たことがあるからそれに比べると分かりやすいが、果たして、声楽的にどういう効果があるのだろう。声部毎にまとまった集団配置の方が立体感が出るのではないかと思うが、よく分からない。

ともかく、舞台後方に合唱団が並び、合唱団は4段になるようなひな壇が用意されていた。
その前方にオケが並ぶが、普段はひな壇の上に並ぶ管楽器・打楽器が今日の新日フィルでは弦と同じ平場に置かれた。
これがよく分からない。管打を高く配置した方が客席に対する音の抜けがいいはず。また、そうすることも(合唱団を一層高く配置することで)不可能ではなかったはずなのに。

弦は14型(第1バイオリン14人。この場合の弦5部の標準は総計50人になるが、今日の新日フィルはまさしくこの人数だった。)。「第九」といえば、16型が多いように思うが、14型だってちっともおかしくない。むしろ、すっきりしていいと思う。そして舞台に並びきれない数ではない。この50人を平場に置いて管打楽器を2〜3段のひな壇に置き、さらに合唱をその上に2〜3段積むことはできなかったのだろうか。

これまでサントリーで何度もいろんなオケの「第九」を聴いてきたが、合唱団やオケのこの配置の点で疑問に思ったことは一度もなかったが、これまで聴いたきたのは一体どういう配置だったのだろう。少なくとも昨年のN響「第九」では合唱団はP席に配置されていたから、オケもゆとりを持ってひな壇付きだったはずだ。

さて、えらくこだわるようだが、弦と管打共に平場に置かれたために、一階席からは弦に隠れて管・打楽器が見えない。見えないということは音の通りもよくないということだ。
事実、管楽器は弦楽器に埋もれてしまっていた。特にホルンなど、もやもやとしてメリハリがつかない。

このオケの実力なのか、こういう配置のせいなのか、ホールの欠陥なのか、それらの複合なのか、全体に音の響きに透明感が乏しく、キンキン鳴るかと思えば、ぼんやりともやがかかったような響きに終始した。

さて、合唱団はオケの前に入場した。
独唱は第2楽章の後に入場する例が多いが、今回はそこでは入場しなかった。ということは、第3楽章の後に入場のためのポーズを置かなくてはいけないことになる…てことは、第3楽章から終楽章へ間髪入れず雪崩れ込む、という快感が得られないではないか、と思っていたが、どっこい、先述したように第3楽章の最後はほとんどアタッカのように終楽章に入ったのだ。
では独唱者たちは合唱団に紛れて隠れていた?な訳はない。

なんと、終楽章が始まって約7分後、バリトンのソロが始まろうとしていたその時に声楽独唱者4人が下手袖から静かに入場した。下手には4人分のひな壇が設けてあり、そこにバリトン以外の3人が着座するや否や(バリトンは着座する間も無く)例の「おお友よ〜」を歌い出したのにはびっくりした。
こういう声楽ソロの入り方は初めての経験だが、無駄がなくていい。音楽の緊張感を損なわないでとても良かった。

しかし、演奏全体をみれば、何やらザワつきが消えず透明感乏しく60点といったところか。

今年は12月中に8回も「第九」を聴くので、点数評価をすることにした。
まずは、60点から始まったが、これを基準として、さて、100点満点は出るだろうか?


♪2018-169/♪サントリーホール-14

2017年11月11日土曜日

NISSAY OPERA 2017 ドボルザーク『ルサルカ』

2017-11-11 @日生劇場


指揮:山田和樹
演出:宮城聰

管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京混声合唱団

ルサルカ⇒竹多倫子
王子⇒大槻孝志
ヴォドニク(水の精)⇒妻屋秀和
イェジババ(魔法使い)⇒与田朝子
外国の公女⇒秋本悠希
料理人の少年⇒守谷由香
森番⇒加藤宏隆
森の精1⇒松原典子
森の精2⇒梶田真未
森の精3⇒池端歩
狩人⇒松原友

ドボルザーク作曲 オペラ『ルサルカ』全3幕
(チェコ語原語上演・日本語字幕付)

アンデルセン童話の「人魚姫」によく似たメルヘンだ。
水の精ルサルカは一目惚れをした王子様の済む人間界の住人になりたくて魔法使いに人間にしてほしいと頼むが、代わりに声を失う。また、恋人の裏切りは二人の死を意味するとも告げられる。

最初はそのルサルカを愛おしいと思っていた王子も物言わぬルサルカから他の女性に心が移ろう。
かくして、2人には悲劇が待っている。

声を失うヒロインの物語を、よくぞドボルザークはオペラにしたものだと思うが、第2幕の最初から殆どの場面、ルサルカは無言で苦しい胸の内を演じなければならない。
この「声を失う」には、当時のヨーロッパの政治・文化の中心(ドイツ語圏社会)に入ればチェコ語が通じなくなるという厳しい現実を童話に託したという説明も読んだが、社会風刺劇ではなさそうだ。

物語は、納得できるかどうかは別として単純で分かりやすい。
音楽は、流石にドボルザークだ。西洋音楽の枠組みの中に民族的な旋律もまぶしてあって、楽しめる。有名なアリアは「月に寄せる歌」しか無い(と思う。これしかなくともこれだけでも聴けば満足、というほどに美しい。)が、それほど有名ではない歌もしみじみと共感できる。


今回は、舞台装置・照明が素晴らしかった。

オーケストラの規模がかなり大きいのでピットに収まりきらず。舞台の上手(管・打の一部)と下手(木管全員)の両側方に別れて陣取った。その為に、オケが一体化するようにピットも底上げしてあった。普段なら、ピットの中の演奏家は頭ぐらいしか見えないのだけど、今回は客席とほとんど同じ高さぐらいまで底上げしてあった。指揮者も指揮台に乗り立ったままの演奏だった。でなければ演奏家たちによく見えないからだ。
そんな変則オケ配置だったが、観劇に特段支障はなかった(これは僕の席がGSの中央最前列だったからかもしれないが、お陰で山田和樹の入魂の指揮ぶりがよく分かって感心した。)。

さて、すばらしかったというのはオケの配置ではない。これはむしろ苦肉の策だろう。しかし、それを逆手に取った舞台美術や演出が舞台と客席の一体感を高めた。
舞台の両側方から円弧を描いた背景の壁は日生劇場の独特の壁面と同じようなデサインにしてある(もっと徹底して欲しかったが。)ので、劇場の客席と舞台は繋がっているかにも見える。

1幕終盤の女声合唱は1階席後方の両側に陣取り、2幕冒頭では客席前方が舞台となり、ここにも舞台と客席の一体化は成功していた。
また、舞台装置が全幕を通して変わらないので、その分、照明やスモークなどが工夫されて、本来は異界の地をそれなりにイメージできたのも良かった。

あるいは、この公演がチェコ語(原語)で行われたというのも、意義が深いかもしれない。歌手たちは大変だったろう。

NISSAY OPERA近年のヒットではないか。

♪2017-176/♪日生劇場-03

2015年12月20日日曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホールシリーズ 第6回

2015-12-20 @県民ホール


川瀬賢太郎(常任指揮者)
馬原裕子:ソプラノ
山下牧子:メゾ・ソプラノ
大槻孝志:テノール
小森輝彦:バリトン
神奈川フィル合唱団

神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ベートーベン:交響曲第9番ニ短調 作品125 「合唱付き」

昨日の横浜交響楽団に続いて同じ県民ホールで「第九」。
今日はプロの神奈川フィルだ。
横響がなかなかの高水準の演奏だったので、アマチュアとプロの違いがどう出るのか、興味津々だった。

で、しょっぱなの弦の6連符の細かい刻みの音で、やはり違うなあと一瞬でその差を感じた。
アタックが揃っている。ピッチも高水準で揃っている。
音楽にメリハリがある。
あゝ、やはりだいぶ違う。
でも昨日の横響はアマチュアとしてはとても良いできだったなあ…などと思いながら、プロの腕の違いを得心してこれは満足。


第3楽章にはホルンの聴かせどころが(僕の耳には)3ヵ所ある。
そのうち最初の部分(96小節目)は音階練習のようなフレーズだけど、ほかの楽器が完全に沈黙するのでとても目立つのだ。ここが決まればホルン奏者だけでなく聴衆も気持ちがいい。

でも、ここは難しいのだろうか。
昨年の神奈川フィルのホルンの出来は悪かった。
昨日の横響はこの難所をきれいに決めてくれたが、今年の神奈川フィルはプロとして汚名返上・名誉挽回してくれなくちゃいけない。固唾を呑んで聴いた。
うまく行った。
音色やフレーズの作り方は昨日の横響の方がきれいだと思ったが、神奈川フィルも今年はまずまずの出来だった。残る2ヵ所も問題なし。

ホルンさえうまく行けば、今日の神奈川フィルの熱の入り方からして後は問題ないはず。

今年も合唱団は冒頭から着座した。
声楽ソリストは昨年は第2楽章と第3楽章の間に登壇した。
これでも良かったと思うが、今年はソリストも冒頭から舞台に上がった。
このため、音楽の流れが良かった。引き締まった感がある。
特に、第3楽章が終わっても川瀬賢太郎のタクトは胸の前で数秒止まっただけで、降ろすことなく、怒涛の終楽章になだれ込んだ。
こうでなくてはいけない。

ホルンを始め演奏技術の面でも間違いのない仕事、確かな腕を見せてくれたが、指揮者のエネルギッシュな指揮ぶりのせいで、全体に音楽の輪郭が明確で、テンポよく引き締まった「第九」になった。
終楽章の低弦のレシタティーヴォこそ指揮者の呼吸がそのまま音楽に反映されるが、ここも気持ちの良い流れだった(指揮者によっては時に、浪花節のようなレシタティーヴォを聴かされることもあるが、スッキリくっきりやってほしいものだ。)。

合唱団もわずか100名程度の規模だったが、なかなか迫力ある。
声楽ソリストも健闘したが、好みで言えば、昨日の横響の舞台に立った4人組に華があった。特にバスは昨日の方が声量もあり、節回しも良かった。


♪2015-129/♪県民ホール-05