2015年6月28日日曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホールシリーズ 第4回

2015-06-28 @県民ホール


現田茂夫:指揮(名誉指揮者)
大隅智佳子(ソプラノ)♭
並河寿美(ソプラノ)♯
西村悟(テノール)♪
ジョン・ハオ(バス)*
井上雅人(バリトン)*
神奈川フィル合唱団(合唱)*

神奈川フィルハーモニー管弦楽団


<オールプッチーニプログラム> 
・交響的前奏曲イ長調 

・歌劇「ラ・ボエーム」から
「冷たい手」♪
「私の名はミミ」♭♪
「麗しの乙女」♭♪

・歌劇「蝶々夫人」から
「ある晴れた日に」♯

・歌劇「妖精ヴィッリ」から
「妖精の踊り」

・歌劇「トゥーランドット」ハイライト(演奏会形式)♭♪♯*


プッチーニのオペラ以外の作品は知らなかった。
交響的前奏曲は初めて聴いたが、オペラの旋律同様分かりやすい歌謡調の作品だった。帰宅後調べたら、18歳頃の作品だ。
そうと知ればそんな程度の軽さだったかも。

続くアリア集は、全て聴き馴染みの曲ばかりで、歌手たちもみんな上手で楽しめた。

最後のお楽しみは、「トゥーランドット」のハイライト(といっても80分の長尺)を演奏会形式で聴かせてくれることだったが、これには不満が残った。
音楽そのものはいいし、オケの演奏も、歌唱もとても良い。

しかし、プログラムには物語のあらすじもどのアリアを誰が歌うのか、その内容はどんなものかについても何の説明もないのは困ったものだ。まあ、およそのあらすじは知っていたけど、演奏会形式なので、イタリア語も分からないし、今、どういう場面か、何が歌われているか分からない。
アリアそのものはよく馴染んでいても何を歌っているかまでいちいち覚えている訳ではない。

字幕があれば良かったがそれもない。

その代わりにナレーターが状況を簡単に説明してくれるのだけど、これが本当に簡単過ぎて、肝心の誰が何を歌っているかが分からない。よほど「トゥーランドット」に精通していなければこの程度の説明では内容を把握できないだろう。

だんだん眠くなってきて、超有名なアリア「誰も寝てはならない」で、僕は寝てしまった。

最近の神奈川フィルのプログラムにおける楽曲解説はつまらない。


♪2015-60/♪県民ホール-01

2015年6月17日水曜日

横浜交響楽団第663回定期演奏会

2015-06-17 @県立音楽堂



飛永悠佑輝:指揮
有賀叶:バイオリン
横浜交響楽団

シベリウス:交響詩「トゥオネラの白鳥」
シベリウス:バイオリン協奏曲ニ短調
ボロディン:交響曲第2番ロ短調


シベリウスは今年(12月8日)生誕150年を迎えるので、昨年から、コンサートでも取り上げられる機会が多い。

横響はアマチュアだが、年間8回もの定期演奏会をこなす本格的なオーケストラだ。
かなり高水準の腕前だと思うが、ハラハラすることも少なからず。

交響詩「トゥオネラの白鳥」は、1曲めの腕慣らしにしては良いスタートだった。

2曲めの協奏曲のソロゲストは有賀叶クン。
どこかで聴いたような気もするのだけど、初めてなのかもしれない。まだ、高校1年生だ。
既にいくつかのコンクールで1位ほか上位入賞をしている。

とはいえ、多分、オーケストラと千人以上のお客の前で演奏するのは初めてだろう。舞台上の素振りはどこかぎこちなさを感ずるが、そのくらいでなくちゃ可愛げがないからこれはこれでいい。

演奏は速いパッセージなどはノーミスでクリアしていたが、何ヶ所か音程が甘くなる瞬間もあった。でも、こういう人はみるみる上達してゆくのだろう。

オーケストラの方もところどころ音が外れたり、ハーモニーが濁ったりしするのは今回が初めてではないし、まあ、アマチュアだものこんなものだろう。

ただ、両者が凡ミスせず、無事に弾き終えてほしいという気持ちで聴いていたので、音楽に入り込むことは難しかった。
でも、聴いているだけだけど、若い才能の涵養に自分も一役買っていると思えばこれはこれで楽しい。


ボロディンといえば、交響詩「中央アジアの高原にて」、弦楽四重奏曲第2番「ノクターン付き」、オペラ「イーゴリ公」から「韃靼人の踊り」くらいしか聴くことがない。
交響曲まで作っていたとは知らなかった。
3曲あって、うち第3番は未完成だったがグラズノフの補筆で完成したそうだ。

今日の演奏は第2番。

第1楽章のテーマが、かつて聴いたことがない泥臭さ(母なるロシアの大地、という言い方もできるだろうけど。)。
このメロディに比べるとマーラーもブルックナーも上品に思えてくる。しかもこの楽章の最後がやはりこの主題を思い切り強奏で、思い切りテンポをリタルダンドして、ケレン味いっぱいに終わるのに少々驚かされた。この感覚は粋じゃないと思った。
弦楽四重奏の「ノクターン」を書いた人とは思えない。

第2楽章以降は第1楽章ほどのドラマ性はなく、驚くようなものではなかった(というか第1楽章で相当驚いたので)。

オケも慣れていないようで、第2、第4楽章のシンコペーションがオケ全体としてぴたっと合わずにつんのめるような感じもあった。
これは結構難しいのかもしれない。
全体として、まだ自分のモノにはなっていないという感じだった。

とはいえ、横響がこういうレアな分野にも積極果敢に取り組んで聴かせてくれるのはありがたい。

♪2015-59/♪県立音楽堂-05

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.68 神奈川フィル名手による室内楽①

2015-06-17 @みなとみらいホール


直江智沙子 (神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第2バイオリン首席)
鈴木康浩 (読響ソロビオラ)
山本裕康 (神奈川フィルハーモニー管弦楽団 チェロ首席)
諸田由里子 (ピアノ)

モーツァルト:弦楽の為のディベルティメントK.563より
       第1楽章、第4楽章、第6楽章
モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478


ちょうどこの日、コンサートに出かける前にTVのクラシック倶楽部の録り溜めビデオで室内楽を何曲か聴いた。

聴きながら思ったのは、少なくとも室内楽の再生に関しては、我が家のオーディオ装置も(最近の設備投資が功を奏して)十分な能力があるという再発見。
ナマ演奏と比べても聴く場所によってはこれほど各楽器のクリアなサウンドは耳に届かないだろうな、という自己満足。

そんなことで、朝は気を良くして、午後のコンサートに臨んだ。
一曲めはバイオリン、ビオラ、チェロの三重奏だ。

弦楽合奏の第一声を聴いた途端、そのアンサンブルの妙なる響に、やっぱりナマにはかなわんとすぐ脱帽した。

室内楽でもとりわけ弦楽アンサンブルというのは、兄弟姉妹のようなもので、つまり、DNAを共有した者同士の集まりなので、音の重なりがとても美しい。
もちろん、演奏者の腕が悪くて音が合わなければ悲惨なことになるけど、今日のトリオは息が合って腕前も確かで(神奈川フィルと読響の各パート首席)、実に気持ちのいい音の混ざり具合だ。
まずは、音楽を聴くというより、音を楽しんだ(ま、これが「音楽」の所以でもあるけど)。

次が、メインイベントのピアノ四重奏曲第1番だ。
モーツァルトはこの編成を2曲しか書いていない。
当時、バイオリン、ビオラ、チェロにピアノが加わる形の四重奏曲はあまり人気がなかったらしい。

確かに、弦楽三重奏だけで演奏形態としてはほぼ完璧。
ここに第2バイオリンを加えて内声を豊かに表現力の幅を広げた弦楽四重奏という鉄壁のスタイルがあるのだから、ピアノという異分子を加えた四重奏というのは、音の響きとしてきれいに響かせることが難しい(ピアノだけが平均律)。

また、ピアノにどういう役割を持たせるのかという問題もピアノ三重奏(各楽器がソリストにならざるをえないだろう。)や五重奏以上(弦楽を伴奏に小ピアノ協奏曲として設計できる。)ならそれなりの割り切りができるだろうけど四重奏ではどっちつかずな感じがして難しいように思う。

現に、モーツァルトの先輩であるハイドンは弦楽とピアノの組合わせではピアノ三重奏曲しか書いていない(はず…)。

モーツァルトより14歳若いベートーベンが3曲のピアノ四重奏曲を書いたのは15歳の時だったらしい(モーツァルトが2曲のピアノ四重奏曲を書いた時期(1785~86年)とほぼ同じだ。)が、それきりでその後はこの編成には手を出していない。

やはり、この時期(古典派)の作曲家には扱いにくい楽器編成だという認識があったのではないだろうか。

しかし、モーツァルトの書いた2曲はいずれも素晴らしい。
分けてもこの日演奏された第1番ト短調は耳に馴染んでいるせいもあるが、なんて心地良いのだろう。

楽譜を見ていないし、他のピアノ四重奏と比べた分析もできないけど、聴きながら、4種類の楽器の使い方が巧いということは分かる。
シューマンやブラームスのピアノ四重奏曲も悪くないけど、モーツァルトのそれは音楽が明快なのがいい。
また、短調であるにもかかわらずテンポが良くメリハリが効いているのが「疾走する悲しみ」と言われる所以なのだろう。

もっとも、古典様式では第一楽章はAllegroが基本だから、短調の曲では「疾走する悲しみ」を感ずるのは当然なのかもしれないけど。

みなとみらいホールの小ホールは残響が長いので、時にピアノの音が響きすぎるきらいがあるけど、今日は弦楽とピアノのバランスが良くて、とても聴きやすかった。

最近のコンサートはフランス音楽、ロシア音楽、ドイツ音楽でも後期ロマン派が続いていたので、久しぶりに王道に立ち返ってドイツ(より正確にはウィーン古典派)の音楽に、眼福ならぬ耳福にあずかった。

♪2015-58/♪みなとみらいホール-18

2015年6月14日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第108回

2015-06-14 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ジョナサン・ノット:指揮
サボルチ・ゼンプレーニ:ホルン
若林顕*

R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」
R.シュトラウス:ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)*


R.シュトラウスの作品でコンサートでよく聴く機会があるのはほとんど交響詩で交響曲も「アルプス~」や「家庭~」など有名なのもあるけど、これまでナマで聴く機会はなかった(と思う)。

N響の次期首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィが在任中にR・シュトラウスチクルスをやるらしく、既に定期でも(横浜定期でも)取り上げているが、これからも聴く機会は増えるのだろう。

R.シュトラウスは1864年の生まれだからドビュッシーよりわずか2歳若いだけだが、フランスとドイツの音楽性の違いなのか、こちらは比較的古典的な作風で妙な旋法や音階を用いていない(と思う)。

それだけに音楽は簡明で分かりやすい。
交響詩や交響曲の他にもいろんなジャンルの作品を作っているけどピアノソナタやピアノのための小品の中にはとても魅力的なものがある。バイオリンソナタや協奏曲もいい。
ちょっと癖になるというか、追求してみたい気にさせる作曲家の1人だ。


R・シュトラウスの父親がホルンの名人だったようで19歳の時に父親のためにホルン協奏曲を書いている。
それが第1番で、この日演奏された第2番は78歳の時(1942年)の作品だ。さすがに父親は存命してなかったはずで、楽譜には「父の思い出に」と書き込まれたそうだ。

彼自身は1941年に完成したオペラ「カプリッチョ」が自分の最後の作品で、その後の作品は<手首の運動のために書いた!>ものだと言っているらしいが、このホルン協奏曲はそれにしては相当手首を複雑に動かしたのだろう。
ホルン協奏曲であるからには当然だろうが、素人耳には演奏には相当高度なテクニックを要すると聴いた。


ホルンという楽器は未だに未完成なのか、あらゆる管楽器の中で一番音がひっくり返りやすいように思う。プロであってもたまに音を外すことがある。
しかし、この日のサボルチ・ゼンプレーニというホルン奏者は危なげなく吹き切った。ソロプレイヤーだから当然といえばそれまでだけど、なかなかの腕前のようだ。

ストラヴィンスキーはバレエのための音楽をいくつも書いているが、なかでも「火の鳥」、「ペトルーシカ」、「春の祭典」が超有名で(3大バレエ音楽)、逆に言えばその他のバレエ音楽はほとんど聴く機会がない。それにバレエ音楽という制約もあるせいか、他の手持ちCDのバレエ音楽を含め、どれも似たり寄ったりの感じがするので、いまいちストラヴィンスキーには肉薄できないでいる。

交響曲や協奏曲、室内楽作品も書いているようだから、バレエ音楽とは別ジャンルの作品も聴いてみたいものだ。

♪2015-57/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-09

2015年6月13日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第310回 フランス音楽の陰と陽-ラヴェル、サン=サーンス

2015-06-13 @みなとみらいホール



パスカル・ヴェロ:指揮
小菅優:ピアノ
石丸由佳:オルガン
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ラヴェル:「マ・メール・ロワ」組曲
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調 作品83
サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調 作品78 「オルガン付き」
--------------------
アンコール(ピアノソロ)
ショパン:練習曲Op25-1「エオリアン・ハープ」
サン=サーンス:交響曲第3番第2楽章後半(管弦楽)


神奈川フィルの定期は4月がシーズンの切り替えだった。
その初っ端のレスピーギ特集はとても楽しみにしていたが、急な用事で聴きに行けなかった。さらに5月定期も万やむを得ない事情があり行けなかった。

そんな次第で今シーズン初めての神奈川フィル定期となった6月はフランス音楽特集だった。
N響も6月はフランス音楽特集だったから、やたらラヴェルが続くことになった。

指揮のパスカル・ヴェロは初めて聴く人だが、やはりフランス人だ。


ラヴェルのピアノ協奏曲は家でもたまには聴く作品だ。
3楽章構成だが、それぞれが別人が作ったかのような曲想の違いがある。

第1楽章はスパニッシュな味わいも織り交ぜながらジャズっぽい。ふと、ガーシュウィンの曲ではないかと錯覚しそうになる。
第2楽章は3拍子のアダージョで全体がのっぺりして起伏に乏しくだらだらと音楽が続くけど、同じフランスの作曲家サティやフォーレを感じさせる叙情性がたっぷりだ。
第3楽章はストラヴィンスキー風でもあるけど、何より特徴的なのは「ゴジラ」(伊福部昭)のテーマがふんだんに盛り込まれていることだ。いや、事実は逆で伊福部はラヴェルの大のファンだったそうだから、ラヴェルのピアノ協奏曲から曲想を得たのだろう。

小菅優は聴く度に貫禄が出てきた。

本日のメインイベントはサン=サーンスの交響曲第3番だ。
2楽章構成だけど、各楽章が2つのパートにわかれているので、まあ、普通の4楽章形式とも言える。

第1楽章は短い序奏の後、刺激的で緊張感を強いるリズミカルな旋律に思わず引き込まれる。
後半に入ってオルガンが登場するがここでは静かな通奏低音のような響で弦楽器の歌うようなアダージオだ。
第2楽章の前半は普通の4楽章構成でいえば6/8のスケルツォだろうな。結構激しい。
なんといっても後半のオルガンが大音量をもってオーケストラとわたりあうところからが白眉だろうな。

みなとみらいホールのパイプオルガンは「ルーシー」という愛称が付けられているが、可愛らしい名前とは対照的にこの1台で80人超の大規模オーケストラをも圧する大音量を出す。
度々、オルガンだけのリサイタルを聴いているけど、この日は席がオルガンに近いせいもあったのだろうけど、単独で聴くときよりお腹に響く重低音が怖いくらいの迫力だった。

ところで、ラヴェルはフォーレ(30歳上)から学び、フォーレはサン=サーンス(10歳上)から学んでいるそうだ。
そういう意味では、小菅優のアンコールピースはショパンではなくてフォーレの夜想曲でも弾いて欲しかったなあ。

♪2015-56/♪みなとみらいホール-17

2015年6月12日金曜日

平成27年6月社会人のための歌舞伎鑑賞教室「壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)」

2015-06-12 @国立劇場大劇場


片岡孝太郎 お里
坂東亀三郎 座頭沢市
         ほか

解説 歌舞伎のみかた
  坂東亀寿 
                                 
片岡秀太郎=監修
壺坂霊験記 (つぼさかれいげんき) 一幕三場
                 国立劇場美術係=美術
     
  沢市住家の場
  壺坂寺観音堂の場
  同 谷底の場


歌舞伎鑑賞教室ならではの「解説 歌舞伎のみかた」。
今回は、「女形」の化粧や仕草が中心だった。
舞台上で若手が実際に化粧をし、着物を纏い、鬘を付けて徐々に女性に変身してゆく過程は面白かった。

実は、ここまでで一応「女形」の形は出来上がるのだけど、まだ女性になったとはいえない。

解説者(亀寿)から、「女形」の立ち姿を戻して普通に立ってみてくださいといわれた若手が姿勢を崩して「男性」に戻った瞬間爆笑だ。
なるほど、男女ではこんなにも姿勢が違うのかと驚いた。
つまり、化粧や着物は上辺の事で、姿勢を「女形」にしなくては女性にはなれないのだ。
肩甲骨を広げ肩を落とし膝をすくめるのが基本形らしく、これはなかなかの重労働だ。

学生相手の「鑑賞教室」では男子学生を舞台にあげて「女形」の仕草や歩き方を体験させていたらしいが、僕が観たのは「社会人のための鑑賞教室」だったので、舞台には「社会人」の男女が登壇して着物をはおり、姿勢、仕草、歩き方を体験するという趣向だった。
これを見て分かったのは、男性はもとより、女性でさえ「女形」の姿勢などとは程遠いということだ。

「女性らしさ」という言葉には男性の身勝手な期待が含まれる場合が多く、女性に「女性らしさ」を求めるのは要注意だが、歌舞伎においては、男性が女性を演ずるという制約のゆえに、是非はともかく徹底的に「女性らしさ」を追求した結果、今もその形が受け継がれているのだ。そういう意味では「女形」とは言い得て妙だ。


「壺坂霊験記」の話は、子供の頃からぼんやりと知っていた。
父親が浪曲が好きでラジオの浪曲番組をよく聴いていたのを僕も小学生頃だろうか、耳にして、「妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ 頃は六月なかのころ 夏とはいえど片田舎 木立の森のいと涼し~」までは覚えて子供ながらに歌っていたものだ。
尤もその当時は「夫妻」の役割が逆ではないかという疑問を抱いていたけど。

そんな訳で、座頭とその妻の悲しい話であることは知っていたが、歌舞伎の演目にあるとは知らなかった。浪曲なら受け入れられる気がするけど、歌舞伎にしてリアルな登場人物がこの物語を演ずるというのは無理があるような気がしていた。
お里(孝太郎)と沢市(亀三郎)の考え方も行動も現代では考えられないものだから。

そんな危惧を少し抱いていたが、始まってみると、切なさと滑稽さが浄瑠璃との掛け合いの中で違和感なく伝わってきて、自分でも気持ちをかなり入れ込んでいるのがおかしいくらい共感している。

演ずる2人がとても熱演で、誠実で純粋な互いへのおもいやりを貫く姿にウルウルを禁じ得なかった。

哀切だけではない。
滑稽味も散りばめられて息苦しさを緩和してくれる。
特に、終盤に眼が見えるようになった沢市が、お里に向かって「初めてお目にかかります」というセリフに館内大爆笑。
眼が見えるのに杖で地面を確かめながら歩こうするとことなども哀れなようでおかしい。

哀切に満ち、滑稽味も交えて、純粋な夫婦愛を見せてくれた芝居に大満足であった。


♪2015-55/♪国立劇場-03

2015年6月7日日曜日

N響第1811回 定期公演 Aプログラム

2015-06-07 @NHKホール


ステファヌ・ドゥネーヴ:指揮
ルノー・カプソン:バイオリン*
NHK交響楽団

ラヴェル:道化師の朝の歌
ラロ:スペイン交響曲 ニ短調 作品21*
ルーセル:交響曲 第3番 ト短調 作品42
ラヴェル:ボレロ
-----------------
アンコール(バイオリンソロ)
グルック(クライスラー/ルノー・カプソン編):歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」から「メロディー」


前日、オール・ロシアプログラムを聴いた翌日はオール・フランスプログラムだった。
指揮のドゥネーヴも、バイオリンのカプソンもフランス人で、完璧なフランス尽くし。因みに次のコンサート(神奈川フィルみなとみらい定期)もオール・フランスときている。まあ、こういうことってあるんだ。

さて、ラヴェルの「道化師の歌」は昔、FMのクラシック放送にかじりついていた頃に確かに聴いた覚えはあったがその後長らく聴いたことがなく、CDも持っていないのですっかり忘れていた。

原曲はピアノのための5曲から成る組曲「鏡」の中の第4曲で、そのタイトルは「Alborada del gracioso」。スペイン語だ。意味は日本語訳のとおり。
曲調はフラメンコの音楽のようで調子が良い点は「道化師」を表しているのだろうけど、あまり「朝」という雰囲気ではない。でも、全篇スパニッシュなのだ。


次が、本来ならメインイベントでもいいような最長大曲のラロの「スペイン交響曲」。
交響曲と言いながら実際は5楽章構成のバイオリン協奏曲だ。
ラロの唯一のポピュラーな作品だと思う。純粋な交響曲も書いているようだが、こちらは聴く機会があるだろうか。

ここで、ルノー・カプソンが大活躍をする。
多分、技術的には相当難しいのだろう。ラロはこの曲を「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者として有名でバイオリンの名人でもあるサラ・サーテに献呈し、彼によって初演されている。

「スペイン交響曲」というタイトルはラロ自身がつけたらしい。彼自身スペイン系であったという事情もあるのだろう(ほかにも「ロシア協奏曲」、「ノルウェイ幻想曲」などというタイトルの実質バイオリン協奏曲も書いているが。)。
音楽は、その名のとおりもう出だしから、スペイン色に溢れている。まあ、それだけ親しみ深い。バイオリンの名人芸とド派手な管弦楽を堪能できる。



休憩を挟んでルーセルの交響曲第3番。
作曲家の存在は知っていたけど、彼の音楽を自覚的に聴くのは初めてだった。
なんとなく、現代の作曲家というイメージを持っていたが、ラヴェル(1875年生まれ)より6年早く生まれている。
しかし、音楽は、かろうじて調性(ト短調)を残しているものの、歌えるような旋律はなく、ストラヴィンスキーを思わせるような(いやいや、ストラヴィンスキーの方がまだ歌があるな。)、強烈なリズムの継続と変化に終始する。
それがつまらないかといえば、面白くもあるのだ。新古典主義だそうだが、モダンの手前ぎりぎりのところで踏みとどまっているのだろう。


いよいよ最後はお馴染み「ボレロ」である。
過去何度もナマで聴いているが、何度聴いてもラヴェルが用意周到に準備した巧妙な仕掛け…同じ旋律を何度も繰り返し、その度にメロディー楽器が変わり、編成が増え、音量が増加してゆくが、ボレロのリズムは微動だにしない。そしていやが上にも高まったところで、急転直下様相を変えて終結する。
その間緊張が途切れることなく音楽とともに気分も高揚し、ラストのクライマックスに突如吹っ切れる極度の爽快感がある。それが大いなるカタルシスなのだ。

15分程度の、いわば小品だけど、これこそ一夜のコンサートを締めくくるにふさわしい。



館内は久しぶりに割れんばかりの大歓声と拍手だった。
ドゥネーヴがN響と初顔合わせということもあり、音楽の出来もさることながらようこそN響へ、という観客の気持ちの現われだったろう。指揮者に花束が贈呈されるという、N響のステージではめったにないこともあった。

さらに思いがけない出来事は、首席トランペットの関山幸弘氏にも
花束が贈呈された。最初はボレロの演奏のソリストとして祝福を受けたのかと思ったが、それならもっと他にもたくさんのソロプレイヤーが花束をもらっても良さそうなものだ。
そのうち、指揮者が花束を抱いた関山氏をステージの中央指揮台のそばまで引っ張りだして、拍手を受けさせたので、言葉での説明はなかったけど、ああ、彼がこれで定年退職するんだということが分かった。

N響6月定期はこの後BプログラムとCプログラムが開催されるので、それらに彼が出演するのかどうか知らないけど、Aプログラムのコンサートとしては最後の出演だったわけだ。
テレビのN響コンサートでもほぼ毎回のように顔を見せ、素晴らしい演奏を聴かせてくれたので、これからはN響のステージでは(客演があるかもしれないが)ほぼ聴くことができなくなるのだろう。惜しいことだ。
ま、後を継ぐ人達も優れた人ばかりだと思うけど。

あ、ボレロまで聴いて気づいたのだけど、ボレロはスペイン風バレエ音楽として委嘱を受け作曲されたものだ。

すると。この日のフランス音楽集は、ルーセルを除けば、3曲ともフランス音楽と言いながら、実はスパニッシュの香り高い音楽ばかりだったのだ。そういう目論見だったのか、偶然だったのか、分からないが、まあ、フランスとスペインは国境を接しているし、同じラテン系だから、音楽の成り立ちも同根の部分が多いのだろうとは思うけど。

♪2015-54/♪NHKホール-05

2015年6月6日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 第308回横浜定期演奏会

2015-06-06 @みなとみらいホール


アレクサンドル・ラザレフ(首席指揮者)
伊藤恵:ピアノ
日本フィルハーモニー交響楽団

ショスタコーヴィチ:《馬あぶ》組曲 Op97-a
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 Op43
ストラヴィンスキー:バレエ組曲《火の鳥》(1945年版)


日フィル首席指揮者のラザレフ御大は、いつもとてもごきげんが良い。
1曲終わる度にさっと、観客の方を向いて、自分から拍手をしている。やんやの拍手が終わると舞台内の各パートを歩きまわり、プレイヤーをフューチャーして回る。
今日も途中ではピアノとハープの女性を舞台前まで引っ張りだして手をつないで拍手に応えるなど、いつも終曲後のパフォーマンスに意表を突かれることが多い。投げキスも頻繁だ。あんまり受けたくはないのだけど。

でもそうして、さあ、楽しかったでしょ!素晴らしい音楽を一緒に演奏できて良かった、みんなも聴いてくれて良かったでしょ、と言っているふうで、愉快な、温かいムードが微苦笑の渦の中でたち込めてゆくので、ああ、今日もみんなどれも良かったね、という気になって帰宅できるのだから、これは音楽外のことだけど、1つの才能だなあ。

今日のプログラムはロシア作品で統一された。
ラザレフはロシア人でありモスクワで学んだ人だから、いわば、自家薬籠中のものだろう。

ショスタコの「馬あぶ」は1955年に公開された映画「馬あぶ」(馬虻のことで、主人公のあだ名らしい)のための作品だそうな。
それを(元は全24曲あった)レフ・アトヴミャーンという人が12曲による演奏会用組曲に編み直したものだ。
半分に縮めても、今日の3曲中一番の長尺で、プログラム記載の予定演奏時間は43分というから、本来は最後に持ってきても良かったのではないと思う。
オーケストラも大規模で多彩な管打楽器(アルトサックス3本、グロッケンシュピール、シロフォン、ハープ、ピアノまでが動員され、80名を超えていた。

これは初めて聴く曲だったが、全体として、原作が喜劇なのだろうか、全体に明るく、調子の良い音楽で調性も明確で分かりやすい。
発表されたのが1955年だというと、最も有名な交響曲第5番(1937年初演)から18年もあとの作品とはとても思えない。
むしろ、もっと若い時分の作品のようだ。
まるでチャイコフスキーのバレエ音楽のようでもある。でも、ところどころにショスタコ印は刻印されている。

その後のラフマニノフも、ストラヴィンスキーもオケの編成は10人ほど小さくなったか。演奏時間も19分と31分と小ぶりだ。

でも、この2曲はともここ数年、ナマでは遠ざかっていたので懐かしい思いも加わってとても楽しめた。


ラフマニノフの狂詩曲は24の変奏曲で構成されているけど、そのうちの18番がダントツに有名で、この曲が本当にパガニーニーの原曲を和声的にもなぞっているのかしらと疑問なのだけど、変奏というからには根っこは同じはずだなあ。
この曲は多分、映画音楽などで取り上げられていたように思うし、単独でも演奏されているはずだ。

「火の鳥」も久しぶりに聴いたが、どうせ耳タコだと思っていたけどそうでもなくて、前半はむしろ、え~?こんな曲だったっけという<新鮮>なおもいで聴いていたが途中からははやりしっかりと「火の鳥」の記憶が蘇ってきた。

日フィルの響に関しては、4月の定期でサントリーで聴いたブラームスのピアノ協奏曲の第1番の時、冒頭のティンパニロールの後の弦の緊張感が続かないというか、空疎な響を残念に思ったが、これは、その後デュッセルドルフ響で聴いた時も同様だったので、日フィルの技量のせいではなさそうだ。
いや、技量といえば技量かもしれないけど、指揮者の強力なリードで、厚ぼったい音楽を一瞬の緊張もなく作り上げることは難しいのだろう。ブラームスのオーケストレーションの問題もあるのかもしれない。

…ということを思い出したのは、今日の日フィルの響の豪快なこと。もちろん繊細さも兼ね備えて、近代管弦楽の色彩マジックを堪能させてくれた。とてもいい演奏であり、響もとても良かった。
叙上のごとく、前に少しマイナー評価をしたので、前言訂正しておこう。


あ、一言追加。
「パガニーニの主題による狂詩曲」でピアノ独奏したのは伊藤恵(けい)さん。
僕の好みの女流ピアニストといえば、小山実稚恵に伊藤恵。なぜか、はうまく説明できない。人柄に好感するのと、演奏にいつも安定感があること、それに音楽への乗り方が自然でケレン味がないということだろうか。

♪2015-53/♪みなとみらいホール-16