2015-06-12 @国立劇場大劇場
片岡孝太郎 お里
坂東亀三郎 座頭沢市
ほか
解説 歌舞伎のみかた
坂東亀寿
片岡秀太郎=監修
壺坂霊験記 (つぼさかれいげんき) 一幕三場
国立劇場美術係=美術
沢市住家の場
壺坂寺観音堂の場
同 谷底の場
歌舞伎鑑賞教室ならではの「解説 歌舞伎のみかた」。
今回は、「女形」の化粧や仕草が中心だった。
舞台上で若手が実際に化粧をし、着物を纏い、鬘を付けて徐々に女性に変身してゆく過程は面白かった。
実は、ここまでで一応「女形」の形は出来上がるのだけど、まだ女性になったとはいえない。
解説者(亀寿)から、「女形」の立ち姿を戻して普通に立ってみてくださいといわれた若手が姿勢を崩して「男性」に戻った瞬間爆笑だ。
なるほど、男女ではこんなにも姿勢が違うのかと驚いた。
つまり、化粧や着物は上辺の事で、姿勢を「女形」にしなくては女性にはなれないのだ。
肩甲骨を広げ肩を落とし膝をすくめるのが基本形らしく、これはなかなかの重労働だ。
学生相手の「鑑賞教室」では男子学生を舞台にあげて「女形」の仕草や歩き方を体験させていたらしいが、僕が観たのは「社会人のための鑑賞教室」だったので、舞台には「社会人」の男女が登壇して着物をはおり、姿勢、仕草、歩き方を体験するという趣向だった。
これを見て分かったのは、男性はもとより、女性でさえ「女形」の姿勢などとは程遠いということだ。
「女性らしさ」という言葉には男性の身勝手な期待が含まれる場合が多く、女性に「女性らしさ」を求めるのは要注意だが、歌舞伎においては、男性が女性を演ずるという制約のゆえに、是非はともかく徹底的に「女性らしさ」を追求した結果、今もその形が受け継がれているのだ。そういう意味では「女形」とは言い得て妙だ。
「壺坂霊験記」の話は、子供の頃からぼんやりと知っていた。
父親が浪曲が好きでラジオの浪曲番組をよく聴いていたのを僕も小学生頃だろうか、耳にして、「妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ 頃は六月なかのころ 夏とはいえど片田舎 木立の森のいと涼し~」までは覚えて子供ながらに歌っていたものだ。
尤もその当時は「夫妻」の役割が逆ではないかという疑問を抱いていたけど。
そんな訳で、座頭とその妻の悲しい話であることは知っていたが、歌舞伎の演目にあるとは知らなかった。浪曲なら受け入れられる気がするけど、歌舞伎にしてリアルな登場人物がこの物語を演ずるというのは無理があるような気がしていた。
お里(孝太郎)と沢市(亀三郎)の考え方も行動も現代では考えられないものだから。
そんな危惧を少し抱いていたが、始まってみると、切なさと滑稽さが浄瑠璃との掛け合いの中で違和感なく伝わってきて、自分でも気持ちをかなり入れ込んでいるのがおかしいくらい共感している。
演ずる2人がとても熱演で、誠実で純粋な互いへのおもいやりを貫く姿にウルウルを禁じ得なかった。
哀切だけではない。
滑稽味も散りばめられて息苦しさを緩和してくれる。
特に、終盤に眼が見えるようになった沢市が、お里に向かって「初めてお目にかかります」というセリフに館内大爆笑。
眼が見えるのに杖で地面を確かめながら歩こうするとことなども哀れなようでおかしい。
哀切に満ち、滑稽味も交えて、純粋な夫婦愛を見せてくれた芝居に大満足であった。
♪2015-55/♪国立劇場-03