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2022年1月22日土曜日

名曲全集第173回 サン=サーンスで聴く、日本チェロ界のミューズ&「オルガン付き」

2022-01-22 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ユベール・スダーン:指揮
東京交響楽団

上村文乃:チェロ*
大木麻理:オルガン**

サン=サーンス:チェロ協奏曲第1番イ短調 op.33*
サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調 op.78 「オルガン付き」**
------アンコール--------------------
藤倉大:Sweet Suites*
オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」から 舟歌


昨日の新日フィルの熱気に包まれた高揚感とパワフルな演奏の記憶がまだ残っている耳に、今日の東響は響いてこなかったな。


先ず以て、上村文乃のチェロの音が美しくない。


大昔、アマオケで弾いていた頃の僕の安物のチェロより音が悪い(なんと大胆な発言!)。


硬いのだ。

まるで潤いがない。許容限度超也。

そう思いながら聴いていると全然音楽が耳に入ってこない。


その残念感を引きずったまま「オルガン付き」。

18年の暮れ以来ほぼ3年ぶりだが、その18年にはなぜか4回も聴いた。その中に神フィル+今日のOrg大木麻理@ミューザの演奏も含まれる。


それが僕にとってはこの曲の過去最高の名演だったが、今日は及ばず!

リハは十分に積んだのだろうか?

音楽の作りは明快な4部構成なのにその構成感が伝わってこない。

管・弦はそれぞれに演奏している。

各々が呼応し触発し合うEncの面白さは何処に?

ゾクゾクさせる高揚感は何処に?


Orgは舞台で移動コンソールを演奏した。

その為大木ちゃんが楽器と譜面に隠れて全く見えない。

視覚効果の面からも本来の席が良かった。

演奏が見えてこそ聴こえる音がある!


あれやこれやで感動には遠かった。


昨日の新日フィルの熱気との落差、先行のVc協の残念感もだいぶ負に作用したのだけど。


♪2022-010/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-02

2014年3月20日木曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第297回定期演奏会

2014-03-20 @みなとみらいホール


金聖響指揮:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

藤倉大:アトム
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

メインディッシュはマーラーの交響曲第6番イ短調「悲劇的」だ。

今日の演奏家たちにとってこの曲には特別な思い入れがあったようだ。
3年前の3月11日。彼らはあの大震災が発生した時、翌日の本番に備えたリハーサル中だったそうだ。
大変な困難を乗り越えて、翌日は本番が開催されたが、首席チェロ奏者の山本氏がプログラムの中にこんなことを書いている。

「~『悲劇的』の冒頭から弾きながら涙が止まらなかった。何の涙だったんだろう。それも分からない。どんな演奏だったのかも一切覚えていない。
平尾さんが放ったハンマーの音(注:終楽章に2回、ホール全体の床を震わすような打撃)。
あの音は一体何だったんだろう。いまでもその音だけは頭のなかで鳴らすことができる。あのコンサートで唯一覚えている音だ。

僕の中ではあの日から価値観が根底から覆されたと言ってもいい。無力感に苛まれ、チェロを弾く事どころか生きる意味さえ見失った3年間。
答えが出ないまま3年が経った。
あのハンマーはそれを考え始めるスイッチとなった。~」

あの震災(といっても僕が直接経験したのはやや非日常の地震だけだが。)当日より、その後もたらされた信じられない光景の情報に、僕も彼と同じような無力感をしばし味わったのは事実だ。
3年もそんな思いを引きずってはいないけど。軽いトラウマになっていることは確かだ。

その日(2011年3月12日)、マーラーの第6番「悲劇的」を指揮したのが金聖響だった。

今日は、同じく3月定期演奏会、場所も同じみなとみらいホール。
奇しくも金聖響が神奈川フィルの常任指揮者となって6年の任期を終える退任記念コンサートでもある。
そして曲目は「悲劇的」。

まるで、この素材でドキュメンタリーフィルムが出来上がるようにおあつらえ向きだ。

そのようなストーリーが、この曲、この指揮者、このオケにまとわりついている。

只者ではない雰囲気の中で演奏が始まった。

演奏時間80分という大曲だ。
はっきり言えば、何度聴いても簡単に馴染めるものではない。
今回の演奏会の前に、CDで、ながら聴きだけど、10回は聴いたろう。それでも馴染めない。
だから、演奏会では寝てしまうのではないかという心配もあったが、その「現場」はなかなか、寝かせてくれる雰囲気ではなかった。
管弦楽は多種多様な楽器編成で、パーカッションの種類が豊富で、それこそ他に例がないのではないかと思うが、「ハンマー」も登場して全館を震わせる。
コンバスもホルンも8本づつ。
弦や木管の編成も推して知るべしで大きな舞台に肩を寄せ合うように並んでいる。
なるほど、これが近代の管弦楽の一つの典型なのだろう。
あんまり物々しいと、それじゃ「音楽」はどこへ行ったの?という気にもなるのだけど、まあ、ナマの迫力は眠気どころではない。

金聖響の指揮は、本来の「悲劇的」音楽が乗り移っただけでなく、3.11に思いを寄せたり、退任記念コンサートということからくる感慨もあってか、大曲を振り終えた最後のタクトを下ろしたまま身動きしない。
観客は拍手もできない。
演奏家は楽器を下ろすころもできない。
放送中なら完全に放送事故になる空白の時間だ。およそ30秒も続いたろうか。般若心経でも黙読しているのではないかと思われるくらいの時間が経過してようやくタクトを譜面台に置いた。

あとは、割れんばかりの拍手と歓声。

ちょいと演出が過ぎるんじゃないの!と思った僕は根性が曲がっているのかもしれないけど、元々マーラーの音楽って、そういう虚仮威し的な、ケレン味たっぷりな音楽だと思っているので、そういう意味では似合った演出だったかもしれない。

いや、あるいは、本当にマーラーは天を仰ぐ気持ちでこの大曲を作ったのかもしれないし、金聖響も鎮魂の思いを込めて指揮をし、あの長い沈黙は祈りだったのかもしれない。

いずれにせよ、忘れられないコンサートとして記憶に残るだろう。

♪2014-22/♪みなとみらいホール10