2015-08-08 @ミューザ川崎シンフォニーホール
高関健:指揮
市原愛:ソプラノ
林美智子:メゾ・ソプラノ
錦織健:テノール
堀内康雄:バリトン
合唱:東京シティ・フィル・コーア
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
ベートーベン:序曲「レオノーレ」第3番
ベートーベン:交響曲第9番「合唱つき」
真夏の「第九」だ。
こう、猛暑が続くとむしろ「第九」は暑気払いになるかもと期待して出かけた。
同じミューザの、席もほとんど同じ場所で、3日前に都響の大規模編成のショスタコーヴィチの5番を聴いたばかりなので、それに比べるとオーケストラ編成は当然小ぶりだった。
もちろん、合唱団も並んでいるのだけど、多種多様な管・打楽器を駆使した20世紀の大管弦楽団に比べると、ベートーベンの時代の編成は単純なもので、どうしても管・打楽器パートが見た目に物足りない。それでもベートーベンが初演した時代のオケにくらべるとかなり大規模なのではないかと思うけど。
音のダイナミックレンジとか物理的なことは別にしても、野性味というか、パッションというか、そういう人の心をかき乱すものが乏しいように思ったなあ。どうも端正といえば聞こえがいいが、ケレン味はないといえばこれも聞こえがいいけど、要はこじんまりまとまった音楽のような気がした。
「おお友よ!こんな旋律ではない、もっと喜びあふれる音楽を!」
と心の中で思いながら聴いていたよ。
大いに疑問に思ったのは第3楽章から第4楽章への連結だ。
第2楽章が終わったあと第3楽章の前の休止時間に声楽ソリストが登壇するのが一般的だ。
それはなぜか、と言えば、第3楽章が終わると普通、第4楽章へは間髪入れず入る演奏が多い。それにすっかり慣れているし、緊張が持続できるから、音楽的にもそのほうが効果的だと思う。
しかるに、今日の演奏では、第2楽章が終わってもソリストは登場しない。それでもう大いなる失望のまま第3楽章が始まった。
第3楽章が終わると、4人のソリストが登場する。この機会を逸すればもう出番はないものね。彼らの登場で観客としては拍手で迎えるのが礼儀だろう(けど、僕は残念感が上回って拍手する気にならない。ここは拍手する場面じゃないだろ!と思っている。彼らが悪い訳ではないのだけど。)。
しかし、ソリスト登壇のための長い休止によって音楽は完全に中断した。第4楽章から再び気分を入れ替えて自らを盛り立てなくてはならない。
帰宅後、手持ちのCDやビデオディスクでいろんな指揮者の第3楽章から第4楽章までの休止時間を調べてみた。
CDでは各楽章はトラックに分かれているけど、そのトラック間の無音時間はどこも同じという訳ではなく、やはり音楽の流れに応じて長短がある。
CD:
◎デイヴィッド・ジンマン+トーン・ハレ管⇒2.9秒(1→2楽章、2→3楽章はいずれも10秒近い)
◎トスカニーニ+NBC交⇒1.3秒(1→2楽章23秒、2→3楽章5秒)
●小澤征爾+NYフィル⇒10.2(他楽章も10秒前後)
◎朝比奈隆+新日本フィル⇒0.8秒(他楽章はいずれも10秒前後)
ビデオ(放送録画):
●クシュシュトフ・ペンデレッキ+N響⇒15秒
◎マリス・ヤンソンス+バイエルン放交⇒3秒
▲デニス・ラッセル・デイヴィス+読響⇒6秒
以上の7つのケースのうち、
第3→第4楽章を他の楽章の切れ目とは明らかに区別して◎間髪入れないのが4ケース。
他楽章と同じように扱っているのが●小澤とペンデレッキ。
▲デイヴィスは心持ち短めだ。
一番爽快なのは朝比奈やトスカニーニの1秒前後でフィナーレ突入だ。この潔さ!この勢いの良さ!こうでなくちゃと思うよ。
第3楽章が終わってのんびり休んでいたんじゃ、もう別次元の音楽になってしまう。
時々こういう残念な演奏にぶち当たる。
去年「第九」は5回聴いて1回(日フィル定期)がこの残念なケースだった。
今年は初めて「第九」でさっそく残念ケースに当たってしまった。
定期演奏会の場合はしかたがないけど、今回のような単発の演奏会の場合は「間髪入れない」と事前に分かっておればチケット買わないんだけどなあ。
まあ、そんな訳で残念な演奏ではあったけど、しかし。
やっぱり音楽として「第九」は偉大だなあ。
あらゆる交響曲の中で一つ選ぶなら躊躇なく「第九」だ。
この崇高な音楽に比べちゃ、マーラーなんかマンガみたいだよ。ま、面白いのだけど。
♪2015-76/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-15