2015-08-09 @ミューザ川崎シンフォニーホール
秋山和慶:指揮
天羽明恵:ソプラノ
竹本節子:メゾ・ソプラノ
合唱:東響コーラス
東京交響楽団
マーラー:交響曲第2番「復活」
若い頃は、マーラーやブルックナーのような長大交響曲は、作品が長時間というだけではなく、その内容にどうもついて行けないので、わざわざ機会を作って聴くということがなかった。
ベートーベンやブラームスがあるのにあえてこの軽薄長大!を聴いて心身を悩ませることはない、と思っていた。これはもちろん傲慢なのだけど、若いからこそ至る境地でもある。
いや、実は十分若くなくなった今でもその疑念は残っている。
そしてその疑念を追求することは音楽とは何かを追求することでもあるな、と思っている。
ああ、そんな面倒なことを考えたくない。
一方で、ド派手な長大交響曲を楽しみにしているところがある。
CDやTV放映では味わえないナマのオーケストラならではの醍醐味が凝縮されているのは事実だもの。
初っ端から刺激的だ。
意地悪く見れば滑稽なくらい漫画チックだ。
いや、全編そうなのだ。
情緒的でドラマチックでやたら官能を刺激する。
最弱音と最強音がめまぐるしく交代する。
こういうプリミティヴな感性を攻撃するタイプの音楽であるからこそ、いくらでも、手を変え品を変え長大にすることができるのだろう。おもちゃをかき集めるように多種多様な楽器をかき鳴らすのも効果的だ。
目にも耳にも重厚長大(80分前後)だけど、やはりその音楽的内容は軽薄長大ではないか。
最終的にはイエス・キリストの復活を暗示しているのか、死んだ後の蘇りを華々しく謳いあげるのだけど、マーラーにそんな信仰や思想性があったのだろうか。
しかし、あれこれ批判しても、ナマで聴くと抗しがたい魅力があるのは事実だ。
これ以上はない、といった感じの大規模管弦楽…これは後の第8番(千人の交響曲)と大差ないと思う。
舞台上のオーケストラだけではなく、バンダ(別働隊)が2組、声楽ソリスト2名に合唱団(今日は150名位)は舞台には乗れず舞台後方(P席)と袖の上のバルコニーに陣取った。これにパイプオルガンが加わる。
言ってみれば、目でも楽しむ一大スペクタクルショーだ。
音楽が始まれば、時の経つのを忘れてしまう。
第3楽章から切れ目なし。
第4楽章で初めてメゾ・ソプラノのソロが入る。
第5楽章とともに、合唱団が一斉に起立して、いよいよ始まるな!とゾクゾクしてくる。
まあ、そのあとは興奮の坩堝だ。
そんな訳で、こういう音楽はつべこべ言わずに楽しむに限るな。
このテの音楽には、うっかり嵌ってしまう危険がある。そういう誘惑に満ちている。
それに抵抗する自分がある。そう言いながら、N響10月のAプログラムはパーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念で「復活」が組まれていて、非常に楽しみにしている。
ああ、この屈折したマーラー観を死ぬまで持ち続けるのだろうなあ。
ところで、秋山御大は手勢東響を率いての「復活」は今回が初めてだったそうだ。当然、そんな風には微塵も思わせないのだけど、各パート、鳴りすぎるほど良く鳴って華やかなことこの上なし。
バンダの配置が舞台袖だったが、できれば客席の五層あたりに置いて欲しかったけど、近辺のお客さまにとっては迷惑なことだろうし、やむを得ないのかな。
♪2015-77/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-16