2018年7月22日日曜日

フェスタサマーミューザ2018 新日本フィルハーモニー交響楽団 ≪正統派ドイツ音楽 Ⅰ≫

2018-07-22 @ミューザ川崎シンフォニーホール


円光寺雅彦:指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

横山幸雄:ピアノ*

ヘンデル(ハーティ編):「王宮の花火の音楽」から序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466*
ベートーベン:交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
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モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8(9)番イ短調 K.310から第1楽章*
モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク第3楽章

昨日の東響によるオープニングはクラシックの王道から外れていたが、新日フィルがあるべき姿に戻してくれた。
「正統派ドイツ音楽Ⅰ」ということで、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベンだったが、「正統派」というならやはりバッハ、ベートーベン、ブラームスだろう。尤も「〜ドイツ音楽Ⅱ」が後日東京シティフィルによって披露されるようだが、ウェーバー、ベートーベン、ブラームスだそうだから、ここでもバッハが抜けている。ならば、今日のヘンデルをバッハに変えたら良かったのにな。正統派ドイツ音楽からバッハが抜けるのはどう考えてもおかしいし、ヘンデルは最終的にはイギリスで長く過ごし彼の国に帰化したはずだから、無理にドイツ音楽に含めることはないな…と選曲には不満があった。

しかし、「王宮の花火」からして管・弦楽のアンサンブルの分厚さに少し驚いた。金管と木管の混ざり具合がキンキンして耳につく部分もあったが、弦楽合奏だけを取り出せば実に力強い。

モーツァルトの20番を横山幸雄が弾いた。しばらく見ないうちに太っていたなあ。なんて人のことは言えないけど。
このモーツァルトにも驚いた。なんて軽快なモーツァルトだろう。
ピアノ協奏曲全27曲中2曲しか無い短調の作品の一つだが、およそメランコリーとは無縁という感じだった。もちろん、短調ならではの旋律もあちこちに散りばめられているが、暗い・重い・悲しい・寂しい〜といった感じとは違う。
今日の演奏を聴きながら、モーツァルトの短調作品に関して思い違いをしながら聴いていたのかなあ、という気にもなった。ま、演奏者によっていろんなモーツァルトがあっていいと思うが、疾走するベートーベンならぬ疾走する横山モーツァルトの哀しみは軽快に走り去っていった。

田園は、構成的に共鳴しにくい音楽だ。
全5楽章のうち3~5楽章は続けて演奏されるから聴手には第3楽章以降は一つの楽章に聴こえる。そのうちの第4楽章からトロンボーン、ティンパニ、ピッコロが登場し「嵐」を描写するが、ティンパニとピッコロは5楽章には用いられない。「嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」を表現するには必要がなかったらしい。
したがって、クライマックスは第4楽章におかれ、第5楽章はゆったりとした感謝の気持ちが綴られて平和裡に終曲する。しかも、第4楽章は短く3~4分であるのに比べ、第5楽章は10分前後と長い。それにどこから第4楽章で、どこから第5楽章になったかは、よほど耳馴染んでいないと分からないから、ぼんやりしておれば、ずっと第3楽章のつもりで聴いてしまうことにもなる。

それで、予め、この楽章構成を頭に入れて自分の共鳴する感情をコントロールしなければならない。でないと、いつの間にか始まっている第5楽章が長い上にクライマックス性に欠けるのでカタルシスが得られないことになる。え〜、こんな終わり方?と戸惑うことになる。
…というのが僕の長年の経験で、最近になってようやく、「嵐」の後は「祈り」だとイメージし、このもやもやした終楽章を共感を持って受け入れるように務めているが、ベートーベンの感情と僕の感情が必ずしもシンクロしないのが、我が身の未熟なのだろう。

♪2018-088/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-06