2018年7月29日日曜日

フェスタサマーミューザ2018 東京シティ・フィルハーモニー管弦楽団 ≪正統派ドイツ音楽Ⅱ≫

2018-07-29 @ミューザ川崎シンフォニーホール


高関健:指揮
東京シティ・フィルハーモニー管弦楽団

シュテファン・ヴラダー:ピアノ*

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲 
ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73 「皇帝」*
ブラームス:交響曲第4番ホ短調 作品98
-------------------
リスト:コンソレーション(慰め)第3番変ニ長調*
ブラームス:ハンガリー舞曲第1番

東京シティ・フィルハーモニー管弦楽団を聴くのは、ピットに入っている場合を除けば年に1回、このフェスタサマーミューザに於いてのみ。
過去の記録を読み返すと、いずれもあまり良いことを書いてない。
高関健の指揮ぶりは「第九」を除いてどちらかというと好感を持っている。「第九」は2度聴いたが、2度とも3楽章の後に声楽ソリストを入れるので緊張が途切れる。2度ともそうだったのは、指揮者の指示によるからだろう。この演奏の仕方が僕は好きじゃない。3楽章が終われば間髪入れず4楽章に入ってほしい。…とまあ、これは今日のコンサートとなんの関係もないし、この「第九」の演奏というか演出というか、それ以外の指揮ぶりは嫌いじゃない。現に先月の神奈川フィルのベートーベン特集は見事なアンサンブルを引き出していた。

が、高関健が常任指揮者を務める、まさにホーム・オケである東京シティ・フィルを振ったときは、あまり良い印象が残っていない。てことはやはりオケがまだ発展途上なのかもしれない。

「魔弾の射手」では弦(の編成は本日全曲14型でコンバス7本)はいい感じで出たのだけど、肝心のホルンの重奏で躓いた。その後も、どうもアンサンブルがしっくり来ない。雑な感じだ。

皇帝でもピアノは悪くなかったが、管・弦・ピアノがどうも別々の方向を向いているような気がした。

メインのブラームス第4番。冒頭の弦が、波のようにうねりながら寄せてくるロマンが足らない。事務的で即物的な印象を受けた。ここはいくら禁欲家のブラームスだって情緒を訴えたいところだろう。その後も全体としてアンサンブルが噛み合わず、感情移入できない。
特に第3楽章のトライアングルには参った。音が悪い。楽器のせいか、打ち方の問題か分からないけど、ものすごく違和感があって、全体の音楽を壊してしまった。

このトライアングルはアンコールのハンガリー舞曲第1番でも大活躍するのだけど、響が悪いので、むしろ全休止してくれた方が良かった。この楽器はもっと良いものに変えてほしいよ。たかがトライアングルと思うなかれ。

♪2018-091/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-08

2018年7月26日木曜日

神奈川フィルの名手による室内楽シリーズ《名曲の午後》第10回 「弦楽合奏によるシューベルトの『ロザムンデ』」

2018-07-26 @フィリアホール


ピアノ五重奏
 崎谷直人:Vn1・コンサートマスター
 小宮直:Vn2
 大島亮:Vl
 山本裕康:Vc 
 草冬香:Pf

神奈川フィルのメンバーによる弦楽アンサンブル*

シューマン:ピアノ五重奏曲変ホ長調op.44
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番イ短調D804「ロザムンデ」(大橋晃一編曲:弦楽アンサンブル版)*
-------------
J.S.バッハ:「マタイ受難曲」からコラール(弦楽アンサンブル版)*

神奈川フィル弦首席級による室内楽。
まずはシューマン唯一のピアノ五重奏曲。
彼の室内楽作品中一番好きな作品。
シューマン夫妻の短いが幸福な日々に完成されたせいか、堂々として陽性だ。

響の良いフィリアでピアノは埋もれがちだが、弦の少しかすれた原音が心地良い。

2曲めは、シューベルトの弦楽四重奏13番「ロザムンデ」を弦5部12人(4-3-2-2-1)の編成で(ピアノ五重奏団からピアノがなくなり、弦5部が8人加わった。)。

これはもう歌心満載で、冒頭の第2バイオリン以下の刻むリズムに乗って第1バイオリンがメランコリーな旋律を歌い出すとそこでもう気持ちが乗り移ってしまう。

どの楽章も美しいが、第3楽章も「ロザムンデ」というタイトルの所以である劇音楽「ロザムンデ」間奏曲第3番のメロディーを主題にしていて既に十分親しんでいる旋律だ。

十分親しんでいる理由は、「ロザムンデ」間奏曲として聴くこともあるからではなく、たぶんピアノのための4つの即興曲の第3曲(D935-3 Bb)の主題も「ロザムンデ」の旋律なので、こちらの方に馴染んでいるからだろう。

ま、馴染んでなくとも、これらの旋律はスーッと心のうちに入り込み口ずさみたくなるような親しみやすさがある。

有名な14番「死と乙女」の陰に隠れがちで、なかなか聴く機会がなかった。
14番はこれまでにも何度も聴いたしこれからも聴く機会は多いだろう。今日、ナマで…変則編成だが…13番を聴けたのは幸運だった。

♪2018-090/♪フィリアホール-02

2018年7月24日火曜日

フェスタサマーミューザ2018 東京フィルハーモニー交響楽団 ≪絶品フレンチⅠ〜ラヴェル & ドビュッシー〜≫

2018-07-24 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ロレンツォ・ヴィオッティ:指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

小山実稚恵:ピアノ*

ラヴェル:道化師の朝の歌
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調*
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ドビュッシー:交響詩「海」
-------------------
ラヴェル:マ・メール・ロアから第5曲「妖精の国」(小山実稚恵とヴィオッティの連弾)


フェスタサマーミューザ第3回め。
今日は、前回のドイツ音楽集と打って変わってフランス音楽集でラヴェルとドビュッシーを各2曲。

中1日で同じ席でオーケストラ作品を聴くと、時代の変化や作曲家の個性による管弦楽技法の違いを明瞭に感ずる。

指揮は好漢L・ヴィオッティ。新国立の「トスカ」でも喝采を博したがニコリともしない28歳!

ラヴェルのPf協奏曲は小山実稚恵。
颯爽と弾いているを見ると大家のオーラを感じさせる。
アンコールはヴィオッティとまさかの連弾に会場は大いに沸いた。

「牧神」ではフルートやコンマスのソロの音が小さくて不満だったが、「海」ではドイツ音楽とは異趣の多彩な管弦打楽を堪能。

第2回の新日フィルの弦楽合奏が分厚くて力強かったが、今回はオケの能力の問題ではなく、音楽自体のオーケストレーションが根本的に違う(管打楽器の役割が相対的に高い)ので弦楽合奏の響の快感は無いのだけど、これはこれで色彩感のある管弦楽の面白さを楽しんだ。

♪2018-089/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-07

2018年7月22日日曜日

フェスタサマーミューザ2018 新日本フィルハーモニー交響楽団 ≪正統派ドイツ音楽 Ⅰ≫

2018-07-22 @ミューザ川崎シンフォニーホール


円光寺雅彦:指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

横山幸雄:ピアノ*

ヘンデル(ハーティ編):「王宮の花火の音楽」から序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466*
ベートーベン:交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
-------------------
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8(9)番イ短調 K.310から第1楽章*
モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク第3楽章

昨日の東響によるオープニングはクラシックの王道から外れていたが、新日フィルがあるべき姿に戻してくれた。
「正統派ドイツ音楽Ⅰ」ということで、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベンだったが、「正統派」というならやはりバッハ、ベートーベン、ブラームスだろう。尤も「〜ドイツ音楽Ⅱ」が後日東京シティフィルによって披露されるようだが、ウェーバー、ベートーベン、ブラームスだそうだから、ここでもバッハが抜けている。ならば、今日のヘンデルをバッハに変えたら良かったのにな。正統派ドイツ音楽からバッハが抜けるのはどう考えてもおかしいし、ヘンデルは最終的にはイギリスで長く過ごし彼の国に帰化したはずだから、無理にドイツ音楽に含めることはないな…と選曲には不満があった。

しかし、「王宮の花火」からして管・弦楽のアンサンブルの分厚さに少し驚いた。金管と木管の混ざり具合がキンキンして耳につく部分もあったが、弦楽合奏だけを取り出せば実に力強い。

モーツァルトの20番を横山幸雄が弾いた。しばらく見ないうちに太っていたなあ。なんて人のことは言えないけど。
このモーツァルトにも驚いた。なんて軽快なモーツァルトだろう。
ピアノ協奏曲全27曲中2曲しか無い短調の作品の一つだが、およそメランコリーとは無縁という感じだった。もちろん、短調ならではの旋律もあちこちに散りばめられているが、暗い・重い・悲しい・寂しい〜といった感じとは違う。
今日の演奏を聴きながら、モーツァルトの短調作品に関して思い違いをしながら聴いていたのかなあ、という気にもなった。ま、演奏者によっていろんなモーツァルトがあっていいと思うが、疾走するベートーベンならぬ疾走する横山モーツァルトの哀しみは軽快に走り去っていった。

田園は、構成的に共鳴しにくい音楽だ。
全5楽章のうち3~5楽章は続けて演奏されるから聴手には第3楽章以降は一つの楽章に聴こえる。そのうちの第4楽章からトロンボーン、ティンパニ、ピッコロが登場し「嵐」を描写するが、ティンパニとピッコロは5楽章には用いられない。「嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」を表現するには必要がなかったらしい。
したがって、クライマックスは第4楽章におかれ、第5楽章はゆったりとした感謝の気持ちが綴られて平和裡に終曲する。しかも、第4楽章は短く3~4分であるのに比べ、第5楽章は10分前後と長い。それにどこから第4楽章で、どこから第5楽章になったかは、よほど耳馴染んでいないと分からないから、ぼんやりしておれば、ずっと第3楽章のつもりで聴いてしまうことにもなる。

それで、予め、この楽章構成を頭に入れて自分の共鳴する感情をコントロールしなければならない。でないと、いつの間にか始まっている第5楽章が長い上にクライマックス性に欠けるのでカタルシスが得られないことになる。え〜、こんな終わり方?と戸惑うことになる。
…というのが僕の長年の経験で、最近になってようやく、「嵐」の後は「祈り」だとイメージし、このもやもやした終楽章を共感を持って受け入れるように務めているが、ベートーベンの感情と僕の感情が必ずしもシンクロしないのが、我が身の未熟なのだろう。

♪2018-088/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-06

2018年7月21日土曜日

フェスタサマーミューザ2018 東京交響楽団オープニングコンサート ≪ノット & 東響 X JAZZ スーパースターズ≫

2018-07-21 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ジョナサン・ノット:指揮
東京交響楽団

ジャズ・トリオ♡
大西順子:Pf、井上陽介:Cb、高橋信之介:Dr
ジャズ・バンド☆
鈴木正則 、山下真一、二井田ひとみ、吉澤 達彦」Tp
中川英二郎 、半田信英、笹栗良太:Tb
野々下興一:BsTb 
本田雅人、真野崚磨:Altsax
庵原良司、三木俊雄:Tnsax
鈴木圭:Brsax

ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
リーバーマン:ジャズ・バンドと管弦楽のための協奏曲 
ナンカロウ:スタディNo.1、No.7
バーンスタイン:「ウェスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンス

連日の猛暑の中、今年もフェスタサマーミューザが始まった。
11ステージセット券を買ったが皆勤できるかしら…。

ジャズトリオと組んだガーシュインはジャズ・トリオのアドリブ演奏が長くて予定の倍の時間だったが、これはこれで堪能できた。

次のジャズバンドとの協奏は大いに不満。
音楽自体も面白くなかったが、折角ジャズバンドと組むなら、どこにバンドが居るのか分かるようにせめて服の色を変えるなどしてアピールしてほしかったが1階席からはオケの黒に埋没していて見分けがつき難い。しばらくしてからネクタイしてないのがジャズ・バンドの連中だと分かった次第。
服装や配置に工夫が必要だった。

後半はオケだけの演奏だった。
ナンカロウという作曲家(1912-1997)は初めて聴く名・作品。ジャズというよりクラシックの現代音楽と言うべきだろう。室内楽風な小編成。実験的で楽しめず。


元の大編成に戻ったシンフォニック・ダンスで、やっと落ち着いてこれぞオーケストラ音楽!を楽しんだ。

♪2018-087/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-05

2018年7月20日金曜日

N響「夏」2018

2018-07-20 @NHKホール


ユッカ・ペッカ・サラステ:指揮
NHK交響楽団

バイバ・スクリデ:バイオリン*

シベリウス:アンダンテ・フェスティーヴォ
シベリウス:バイオリン協奏曲ニ短調 作品47*
ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68
-------------
アンコール
ヴェストホフ:バイオリン・ソナタ第3番から第3曲「鐘の模倣」*
シベリウス:「鶴のいる風景」作品44-2(管弦楽)

指揮のユッカ・ペッカ・サラステは3年前のN響定期で聴いた。その時もシベリウスの作品を2本とバルトークだった。フィンランド出身なので、シベリウスを得意としているのは当然だろうが、1本毛色の異なるのを入れて実力の程を見せようという意図か。

バイオリン独奏のバイバ・スクリデは2年前の読響で聴いた。この時はベートーベンの協奏曲だったが驚いたのはアンコールに弾いた作品で、バイオリンの無伴奏作品だが、てっきり現代作品だと思ったところ、バロック時代のものだった。
それが、なんと今日も同じ曲をアンコールで弾いたのだ。最初はよく分からないし、やはり現代曲のような気がしていたが、そのうち、ひょっとして2年前のあれか!と気がついたが、作品名も作曲家の名前も思い出せなかった。ヴェストホフと言うんだ。次回は思い出すかな。

ところで、本題。

「アンダンテ・フェスティーヴォ」は弦楽合奏+ティンパニ版だが、期待したほど美しくはない。透明感も厚みも中途半端な感じだった。

次のバイオリン協奏曲は(読響で聴いたベートーベンがそこそこ良かったので)期待していたが、どうしたものか線が細い。せめて終楽章のリズミカルでメランコリックな展開に期待したが、どうも響いてこなかったな。

休憩後のブラームス第1番。
それまでの弦の編成は14型だったが、ここで16型に膨れ上がった。ブラームスをやるのにコンバス8本も必要なのだろうかと思ってしまうが、結果的にはこの大きな編成が物を言った。
そもそもこの曲が大好き!ということもあって聴く心構えが違う。期待を込めて待ち構えているのだから。

指揮台にひょいと乗ったサラステは、躊躇なくタクトを下ろすとティンパニーの刻みに乗って弦が抑えきれない感情をぐっと抑えてのたうち回るような旋律が始まった。この最初が勝負どころだ。
サラステのテンポはかなり速めだった。帰宅後手持ちのCDなどで8人の指揮者の、この冒頭部分を聴いてみたが、一番テンポが早いスウィトナーとほぼ同じくらいだ。この早めのテンポのせいか、全体が引き締まったように感じた。

弦楽合奏は厚みもあって、力強い。
最初に気持ちを掴まれたので、あとは心地よく続いた。
終楽章は前半かなり焦らされるが、クララに宛てて書いたとか言われるアルペンホルンの主題が出てからは、もうまっしぐらにクライマックスだ。充実したカタルシスを得て堂々と終曲した。
サラステ渾身の1曲だったと思う。

♪2018-086/♪NHKホール-07

2018年7月18日水曜日

新国立劇場開場20周年記念公演 「消えていくなら朝」

2018-07-18 @新国立劇場


作:蓬莱竜太
演出:宮田慶子
美術:池田ともゆき
照明:中川隆一
音響:上田好生
衣裳:髙木阿友子
ヘアメイク:川端富生
演出助手:渡邊千穂
舞台監督:澁谷壽久

鈴木浩介⇒羽田定男
山中崇⇒羽田庄吾
高野志穂⇒羽田可奈
吉野実紗⇒才谷レイ
梅沢昌代⇒羽田君江
高橋長英⇒羽田庄次郎

蓬莱竜太:「消えていくなら朝」全1幕
ーMorning Disappearanceー

予定上演時間:1時間55分-休憩なし

そこそこ売れている劇作家の次男が実家に戻った。家族全員が揃うのは18年ぶりだ。次男は次回作で実家の家族模様を描きたいが、加増同士が話せば話す程、絆はバラバラに。今迄の見栄えを重んじた家族の装いは、逆に家族ならではの容赦ない言葉の礫で丸裸に。

母親はとある宗教に凝り固まっている。
母にとって良い子だった長男は宗教の教えに反して破門・挫折。
一人娘は父親の期待を担って男の子ぶって育ったため、今や女に戻れない!
父親は宗教に準じたかのような母親を許せず離婚を望んでいるが、離婚はその宗教の禁ずるところだ。
そしてその母親は父親のかつての部下男性と親しく付き合っている。
両親のどちらからも疎んぜられた次男はふるさとは遠くに在りて思うものを決め込んでいた。
何の問題もないと思われていた次男が連れてきた唯ひとりの<他人>も、実は問題を抱えていた。

笑える部分も少なからず。しかし、多くは、デフォルメされたこの家族の問題を、我が家にも見つけ出すことを避けることは出来ない。笑いつつ、責められ、心には何本もの棘が突き刺ささる。

ストレートプレイとしては随分久しぶりに納得できるものだった。

かつて…もう40年以上前に高田馬場の汚い小屋で観たつかこうへい「初級革命講座飛龍伝」(初演)で腸捻転になりそうな笑激に身悶えしつつ、お前はそんな軽い生き方で良いのか!と繰り返し責められ続け正体なくぼろぼろに泣かされたあの稀有な鑑劇体験はもう二度と得られないと思うが、今回の「消えていくなら朝」は若き日の名作を少し彷彿とさせるものがあった。


そういえば、昨年の仏映画「たかが世界の終わり」(2016カンヌ・グランプリ)とよく似た趣向の物語だが、そういえば「たかが…」も元は戯曲だったはず。

♪2018-085/♪新国立劇場-09

2018年7月16日月曜日

国立演芸場7月中席

2018-07-16@国立演芸場


落語          鈴々舎八ゑ馬⇒桃太郎
落語    鈴々舎馬るこ⇒ハングル寿限無
漫才          すず風にゃん子・金魚
落語          古今亭菊春⇒代り目
落語          柳家小はん⇒船徳
   ― 仲入り ―
奇術          アサダ二世
落語          橘家蔵之助⇒猫と電車
曲芸          鏡味仙三郎社中
落語          柳家小さん⇒ちりとてちん

本日の最大の収穫は鈴々舎馬るこの「ハングル寿限無」だ。
馬るこは初めてで、最初のうちはあまりうまそうではなかったのでどんなものかと思っていた。噺の枕がハングルの話になって、一体どういうことになるのか、と思っていたら、
なんと「寿限無」なのだが、ここに来て枕で披露したハングル(擬)が功を奏してくる。「寿限無」を非常な早口で話す噺家は少なくないが、馬るこの場合は、これをハングル擬でやるのだ。そして「寿限無」少年は長じて歌舞伎町のホストになっているという設定がおかしい。指名の際も、その取次も、自己紹介も、延々とハングル擬の寿限無なので、自己紹介が終わるともう「お時間で〜す」と落ちを付けてこれは笑えた。

菊春の「代り目」も小はんの「船徳」もそこそこに面白かったが、小はんが初めてで、あるきかたも座り方も危なっかしいし、手は震えている。大丈夫かいなと思ったが、噺が始まると大きな声で滑舌も悪くない。しかし、ほとんど表情を変えずおおかしい話を演ずるのはなかなか乗りにくかった。

鏡味仙三郎社中の曲芸は、馴れた進行で芸が堂に入っているという感じで感心した。

トリの小さんの「ちりとてちん」はイマイチ。やはり、この話は知ったかぶりをして「ちりとてちん」を食べる煉獄の苦しみを演じてこそだが、腹がよじれるまでには至らなかったな。

♪2018-084/♪国立演芸場-11

2018年7月15日日曜日

東京交響楽団 川崎定期演奏会 第66回

2018-07-15 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ジョナサン・ノット:指揮
東京交響楽団
東響コーラス

マクシミリアン・シュミット:テノール
サーシャ・クック:メゾソプラノ
クリストファー・モルトマン:バリトン

エルガー:オラトリオ「ゲロンティアスの夢」作品38

初聴き。
休憩はあるが100分の長尺。抜粋だが長文のテキスト、対訳解説はあるが字幕はなし。薄められているようだがカトリックの死生観の音楽化。親しみやすいがスルスル抜けてゆく音楽。
こういうものかと学習したが感動できるはずもなく、終演後の大喝采に戸惑いと疎外感を感じてしまった。

今日のミューザに何人入っていたか分からないけど拍手喝采の音圧からして満席に近かったか。
この音楽を初めて聴いたという人の方が圧倒的に多いはずなのに多くの人が感動した?とすれば、それはこの音楽そのものより、再現のための演奏者たちの努力や技量に感動したのではないか。そこは僕も認めよう。

一度聴いて感動できるような種類の音楽ではなかったと思う。負け惜しみみたいだけど。

♪2018-083/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-04

2018年7月14日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホール名曲シリーズ 第1回

2018-07-14 @県民ホール


現田茂夫:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
神奈川フィル合唱団:Ch

久元祐子:Pf
礒絵里子:Vn
鷲尾麻衣:Sp
宮本益光:Br
上野由恵:Fl
山宮るり子:Harp

〜オール・モーツァルト・プログラム〜
歌劇「後宮からの逃走」K384 序曲
バイオリン協奏曲第5番イ長調K.219から第3楽章
フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299から第1楽章
ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467から第2楽章
ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466から第3楽章
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527から「お手をどうぞ」Sp+Br
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527から「シャンパンの歌」Br
歌劇「フィガロの結婚」K.492から「恋とは、どんなものかしら?」Sp
歌劇「魔笛」K.620から「パパパの二重奏」Sp+Br
レクイエムニ短調K.626より「ラクリモーサ」Ch
モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618Ch
交響曲第40番ト短調K.550から第1楽章 
交響曲第41番ハ長調K.551から第4楽章

ホール改修後、ようやく始まった今季第1回の県民ホール定期はモーツァルト尽くし。
序曲やアリアはともかく協奏曲や交響曲など多楽章で構成されているものも1楽章のみの演奏という隔靴掻痒の構成出、果たして楽しめるのかと懸念があったが、果たして存外に楽しめた。
司会・進行の女性が、各ソリストや指揮者から興味深い話を引き出して彼らの人間性・音楽観を通じてモーツァルト像の輪郭表現に成功。こういうアプローチもありか、と納得した。

ソリストたちの中で、声楽の鷲尾麻衣と宮本益光はこれまでのオペラ、「第九」、マーラー作品などで複数回聴いているが、そういう場面では彼らの人柄などは分からないし、もちろん分からない方がいいのだけど、今回のように自由なおしゃべりタイムによって明らかになった、素の?人柄に親しみを覚えた。
残る4人は初めての見る・聴く人達だったが、それぞれに好感が持てた。特に、ピアノの久元女史はモーツァルトの研究においてかなりの業績を残しておられる(国立音大教授)ようだ。また、彼女は日本で唯一人のベーゼンルドルファー・アーティストとして、ベーゼンドルファーで録音したモーツァルト作品集を残している。
あいにくと、この日はスタインウェイだったが、これは編成の大きなオーケストラと2,500人も入る大ホールだったための選択なのか、おそらく、県民ホールにベーゼンドルファーは常置していないだろうから協奏曲の1楽章のためにどこかから運んでくることができなかったのかもしれない。


余談:
指揮者の現田茂夫のコメントの中で、ジュピターの終楽章の冒頭のCDFEの音型(ジュピター音型)はブラームスやシューマンの交響曲の作曲にも影響を与え、それぞれの1番から4番までの調性は、
ブラームス⇒Cm、Dd、Fd、Em
シューマン⇒B♭、Cd、E♭、Dm(長2度上げるとCDFEとなる。)
で、ジュピター音型をなぞっている、と説明していたが、なるほど吃驚。しかし、考えてみれば、これは意図したものではなく、結果がそうだったということだろう。両者とも4番までしか書かないつもりではなかったはずだし、シューマンの曲番号は作曲順とは異なっているのだから。
ま、そうだとしてもこの偶然の一致には驚く。

♪2018-082/♪県民ホール-01

2018年7月7日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 第702回東京定期演奏会

2018-07-07 @サントリーホール


広上淳一:指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
合唱:東京音楽大学*

ソプラノ1:鈴木玲奈*
ソプラノ2:吉田和夏*
アルト:中山茉莉*
テノール:吉田浩之*
バス:浅井隆仁*

J.S.バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068
尾高惇忠:交響曲《時の彼方へ》
J.S.バッハ:マニフィカト ニ長調 BWV243*
------------------
アンコール
J.S.バッハ:管弦楽組曲第3番から「アリア」

7月の日フィル横浜定期は14日で、これが神奈川フィルの県民ホール定期とダブったので、この東京定期と振り替えた。振替なので席は選べず、同じクラスの中で空いている席をあてがわれる。多分、その中でも良い席を選んでくれるのだろうと信じたいが、何と、前から7列目の上手寄りだった。上手はさほど抵抗ないが、7列目はきつい。室内楽や独奏ならかぶりつきも歓迎するが、オーケストラでは勘弁してほしい。本当にここしか席がなかったのだろうか、と不信感が残る。

最初はJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番だった。上手から斜めに見ているので編成は正確にはわからないけどコンバスが8本あるところから16型らしい。こんな特大編成でバッハをやるのかなあ、と思っていたら、やるのだ。

冒頭は管楽器のファンファーレ(?)だが、これがもうケタタマシイ。弦のうねるような音型は耳が慣れるまでしばらくは全然聞き取れなかった。
有名な第2曲「アリア」もとても「Air」ではない。うるさい。
第一こんな編成で管弦楽組曲をやる意味はなんだろう?
7列目という厳しい環境の下でかくもにぎやかなバッハを聴かされたのでまずはそこに抵抗感を感じてしまった。

でも、最前列に座っているファンも居るのだからなあ。こんな前で聴くぐらいならP席のほうがずっと気持ちよく聴けるよ。

次の曲は尾高惇忠氏の交響曲だった。初めて聴いた。いつの間にか寝てしまっていた。なので、皆目覚えていない。思い出そうとしてYoutubeで探したが出てこない。この日の3曲中一番長い35分のそこそこ大曲なのに、情けないものだ。

最後が、これもまともに聴くのは初めてのバッハのマニフィカトニ長調。これは独唱が5人に合唱が付く大編成だ。ここでオケの編成が少し小さくなったように思うが確認できない。
独唱はソプラノが2人の5声部だが、合唱も同様の5声部だ。珍しいように思うが、バッハの声楽作品ではそうでもないのかもしれない。

Magnificatはルカ伝第1章「マリアの賛歌」の作曲で、本来はカトリックの聖務日課のうちの晩課(夕べの祈り)のための音楽だったが、バッハの時代にはプロテスタントでも作曲されるようになったそうだ。J.S.バッハはもちろんプロテスタントだ。

初めて聴いた印象と言っても、この時代の音楽は既視感ならぬ既聴感一杯で、特に突き刺さったようなものはないけど、全編、穏やかに聴ける。
「晩課」といえば、個人的にはなんと言ってもモンテヴェルディの「晩課」(聖母マリアの夕べの祈り)が大好きだが、この「マニフィカト」も聴き慣れると大切な1曲になるのかもしれないな。

♪2018-081/♪サントリーホール-07

2018年7月6日金曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第341回

2018-07-06 @みなとみらいホール


尾高忠明:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

スヴェトリン・ルセフ:バイオリン*

リャードフ:魔法にかけられた湖 作品62
プロコフィエフ:バイオリン協奏曲第2番ト短調 Op.63*
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 Op.47「革命」
----------------
アンコール
フリトスコフ:ブルガリアン・ラプソディ*

リャードフなんて作曲家は知らない…と思っていたら、3年前に読響定期で「魔法にかけられた湖」を聴いていたよ。
久しぶりに2度めを聴いた訳だが、作曲家の名前も思い出せなかったくらいだから音楽を聴いたって前に聴いたことがある、ということを思い出せない。初めてのつもりで神妙に聴いた。

ほとんどリズムを感じさせない音楽で、小刻みの弦が水面を表しているのか。起伏がなく、ダイナミズムに欠けるというか、そもそもそこを狙っていない、まあ、気持ちよく過ごせる環境音楽のようである。

スヴェトリン・ルセフという人は初聴き。現在、スイスロマンドのコンマスを兼ねているようだ。楽器が日本財団貸与のストラディヴァリウス1710年製「カンポセリーチェ」だそうな。そのせいかどうか分からないけど、この人の弾くバイオリンの音色はとても柔らかくてきれいだった。弾き方も、余りガリガリと脂を飛ばすような弾き方ではないので余計にきれいに感じたのだろうな。

この1月余りで4回、バイオリン協奏曲を聴いたが、フランチェスカ・デゴのフェラーリの協奏曲と並んで心地よい音楽だった。

メインがショスタコだが、この曲はいつ聴いても、どのオケがやってもまずハズレがない。このところ(僕の耳には)好調な神奈川フィルだ。まず期待してよかろう。と思っていたが、その期待どおりの上出来だった。

ところで、何度も聴いている曲なのに、これまで、終楽章で鳴らされる銅鑼の存在に気が向くことはなかったが、この日の銅鑼に気が向かない人は一人もいなかったろう。何しろ、舞台最後列の中央に陣取ったそのサイズの大きいこと。かつて見たこともない大きさだ。
みなとみらいホールの開演の合図は鐘やベルではなく、みなと街にふさわしく銅鑼のグォ〜ンという音だが、この特大銅鑼ならお客は慌てて席に付いたろう。

音量もすごくて効果抜群だったが、これまで聴いてきたショスタコ5番ではいつも銅鑼が使われていたのだろうか、ふと疑問が出てきた。解説に書いてあるスコア上の楽器編成には銅鑼は書いてない。すると、銅鑼は当たり前のように思っていたけど、これまで銅鑼なしの「革命」を聴いてきたのだろうか。

過去に「革命」を取り上げた各オケの演奏会のプログラムをいくつか当たってみたが、いずれもスコア上の表記らしく銅鑼は書いてない。
Youtubeで探してみたら、いくつか銅鑼を使っているものを発見した。また今年1月のN響定期の録画をチェックしたらここでも銅鑼は使われていたから、どうやら指揮者の好みで使ったりつかわなかったりするらしい。すると、今日の尾高師は「思い切りでかい銅鑼を用意しろ」と指示したのかもしれない。

今後も聴く機会の多い作品だから、銅鑼の有無やサイズに注意して聴くこととしよう。

♪2018-080/♪みなとみらいホール-21

2018年7月3日火曜日

日生劇場会場55周年記念公演 NISSAY OPERA 2018 モーツァルトシリーズ『ドン・ジョヴァンニ』

2018-07-03 @日生劇場


指揮:ジュゼッペ・サッバティーニ
演出:岩田達宗 
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱:藤原歌劇団合唱部

ドン・ジョヴァンニ:ニコラ・ウリヴィエーリ
ドンナ・アンナ:坂口裕子
ドンナ・エルヴィーラ:佐藤康子
ドン・オッターヴィオ:中井亮一
騎士長:東原貞彦
レポレッロ:田中大揮
ツェルリーナ:梅津貴子(配役表には「ゼルリーナ」と表記)
マゼット:大塚雄太

モーツァルト作曲 オペラ『. 魔笛』全2幕
(ドイツ語歌唱・日本語台詞・日本語字幕付)

予定上演時間:約3時間15分
第Ⅰ幕 90分
 --休憩20分--
第Ⅱ幕 85分

今年のNISSAY OPERAはモーツァルトを4本やるというので、セット券を早割で買った。その、もう第2弾だ。

モーツァルトのオペラは、すべてを承知している訳ではないけど、大抵は、人気があり、有名なものだから、上演機会も多く、この相乗効果のおかげで結果的に耳馴染みなものが多い。

しかし、世間で人気があるほど面白いのか、といえば、そこは疑問で、どうもドラマとして観る時にスッキリとカタルシスが得られない。それでも、上述のように耳に馴染んだ音楽の力がある。
ほぼ、何の抵抗もなく、耳に入ってくるし、むしろ心地良い。

それがモーツァルトのオペラを味わう秘訣だと心得ることにしている。

ドン・ジョヴァンニは稀代の女たらしだ。その目的を達する過程で、人殺しまでやってしまう。
ついにはバチが当たって、地獄へ落ちるという話だが、そんな軽〜い話でいいのか、と思ってしまう。

ドン・ジョヴァンニはさも、悪党のようでもあるけど、モノにした2,000人を超える女性(スペインだけで1,003人と歌われる。)の全員がどんな気持ちで口説かれたのかは分からないけど、少なくとも全2幕の芝居で登場する女性3人(ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ツェルリーナ)は、満更でもない様子だ。

すると、ドン・ジョヴァンニの<地獄堕ち>の後に、ノーテンキに「悪は滅びる」という6重唱を明るく歌っていいものか。尤も、モーツァルトは<地獄落ち>で一旦は完結させたが、その後手を入れてこのお説教めいた幕切れにしたそうだ。

深遠な哲学が貫かれているのか、軽佻浮薄なだけなのか、音楽自体の素晴らしさ・楽しさを別にして、物語としての「ドン・ジョヴァンニ」は分かりにくい。

♪2018-079/♪日生劇場-02

平成30年7月 第94回歌舞伎鑑賞教室「日本振袖始」

2018-07-03 @国立劇場


解説 歌舞伎のみかた  坂東新悟

近松門左衛門=作
戸部銀作=脚色
日本振袖始(にほんふりそではじめ) 一幕
〜八岐大蛇(やまたのおろち)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)〜
  二世藤間勘祖=振付
    高根宏浩=美術
   野澤松之輔=作曲

 出雲国簸の川川上の場

(主な配役)
岩長姫実ハ八岐大蛇 ⇒中村時蔵
稲田姫 ⇒坂東新悟
素戔嗚尊 ⇒中村錦之助
              ほか

先月の鑑賞教室は「連獅子」で、歌舞伎の舞踊を鑑賞するという趣向だったが、今回もどちらかというと舞踊に近い作品だった。

物語は、記紀に描かれた岩長姫と木花開耶姫の婚姻譚や素戔嗚尊の八岐大蛇退治を基にして、なんと近松門左衛門が人形浄瑠璃として書いたものだそうで、すぐさま歌舞伎にも移されたとある。

「時代物」でも、よほどか古い時代の話だが、登場人物の衣装は、少なくとも2人の姫は江戸時代の衣装だ。まあ、そんなことは頓着しない。面白ければそれで良し。

主要登場人物は3人。と言っても稲田姫は生贄で活躍の場もなく大蛇に飲み込まれてしまう。一番活躍するのが岩長姫(実は大蛇)だ。生贄をいただく前に、その周りに置いてあった大きな8つの甕に入っていた酒をたらふく飲んでから稲田姫を飲み込んでしまう。

お酒には素戔嗚尊が毒を仕込んでおいたので、徐々に毒が身体に回わったところで、正体を明らかにした八岐大蛇は素戔嗚尊と切り結ぶことになる。この辺の所作が激しいものの舞踊を見ているようでもある。

8つも頭がある大蛇をどう表現するのか、と心配していたが、そこは分身の術で7人の大蛇が加わって、計8人の大蛇との戦いになるが、もちろん、素戔嗚尊が勝利して、切り裂いた腹の中から生きたままの稲田姫と宝剣を取り返す。

岩長姫は当然女であり、女方の時蔵が演ずるが、八岐大蛇という正体を表してからは、衣装が早変わりで金の鱗模様(これは蛇の印)となり、顔には女方としては非常に珍しい隈取をして恐ろしい形相での大立ち回りが見どころだ。

♪2018-078/♪国立劇場-11

2018年7月2日月曜日

国立演芸場7月上席〜真打昇進披露公演〜

2018-07-02@国立演芸場


落語      橘ノ双葉⇒皿屋敷
落語      三遊亭遊馬⇒牛ほめ
コント   コント青年団
講談      神田陽子⇒椿姫
落語      三遊亭遊三⇒ぱぴぷ
   ― 仲入り ―
真打昇進披露口上
落語      桂伸治⇒ちりとてちん
講談      神田紅⇒お富与三郎
曲芸      ボンボンブラザース
講談      神田蘭⇒三代目澤村田之助とヘボン先生

16時過ぎにはねて演芸場を出た時にApple Watchに日経新聞の通知を着信したら、桂歌丸の訃報だった。

今月上席は歌丸が会長を努めていた落語芸術協会の公演だ。な訳で、今日の出演者の中にはいつものように歌丸会長をネタに笑いを取るものも居たが、楽屋にはまだ知らせが届いていなかったのだろう。

決して名人といった雰囲気はなかったけど、やせ衰えた骨川筋右衛門の体躯から驚くほど大きく楷書のような明瞭な話しぶりで、わざとらしさのない雰囲気の良い笑いをたくさん聴かせてくれた。
国立演芸場の4月中席(11日〜20日)を15日まで務めたのが最後の舞台だったそうだ。僕はその超満員の初日に聴いた。45分も要する大作「小間物屋政談」を酸素吸入をしながら演じたが、少し元気がなかったのは間違いない。まずは合掌。

この日は、落語芸術協会(と東京講談協会)の主催による真打ち昇進披露公演だった。真打ちに昇進したのは、講談師の神田蘭だ。そういう次第で、今日は懇談の出番がいつになく多かった。
神田陽子、(蘭の師匠である)神田紅そして初めてトリを務める神田蘭。講談師は今や女性の方が多いそうだが、国立演芸場で見る限りは、いずれもそこそこの器量良しだ。そうでなければこの寄席という基本的には男社会で、すんなり上がって行けないのかどうか…。特に、神田蘭を見たのも聴いたのも初めてだったが、びっくりするくらいの美形だ。しかし、どうもお客あしらいに難があり、僕は好感を持てなかった。

今日の出し物で、一番はコント青年団。いつも同じような話だけど、おかしい。落語では桂伸治の「ちりとてちん」がまずまずのできだったな。噺というより、表情の演技がおかしい。


♪2018-077/♪国立演芸場-10