2015年9月27日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第110回

2015-09-27 @ミューザ川崎シンフォニーホール


パトリチア・ピツァラ
アリーナ・イブラギモヴァ:バイオリン*
東京交響楽団

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」 作品26
モーツァルト:バイオリン協奏曲第3番ト長調 K.216*
ベートーベン:交響曲第7番イ長調 作品92
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アンコール
J.S.バッハ:無伴奏バイオリン組曲第3番から第3曲ガボットとロンド*
ベートーベン:交響曲第7番第4楽章終盤部分


演奏曲目も演奏自体もとても良かったが、一番印象に残ったことは、指揮者のパトリチア・ピツァラだ。
ポーランド・クラクフ(映画「シンドラーのリスト」の舞台。この映画でこの町の名前を覚えた。忘れることはないだろう。)出身と書いてある。
2010年にクラクフ歌劇場音楽監督のアシスタントに任命されたというからまだ駆け出しか。
今回が日本デビューだった。

年齢は不詳だけど若い。金髪の美形だ。

その指揮ぶりがキリッとしていて気持ち良い。あまり表情を変えず、身振りも大げさなところはなく、オケをリードしているようには見えないが、確かに彼女とオケが同じ呼吸をしているという感じが伝わってくる。

全般にテンポが良く、楽章の切れ目もあまり時間をおかない。

交響曲第7番の第2楽章から第3楽章へはアタッカ(切れ目なし)の指示はないはずだけど、事実上連続していた。これが第3楽章プレストの効果を高める。
聴いている方はとても爽快だ。
咳払いしたかったお客さんには気の毒だったけど(それにしても、どうして多くの人が楽章の切れ目でゲボガボ咳払いをするんだろう。)。

館内のお客さんの呼吸も彼女の指揮に合わせて整えられたような気がする。

東響もいつものように問題なく巧い。


カーテンコールが何度も続き、おそらく予定外のアンコールとなった。
パトリチア・ピツァラがコンマスの大谷康子に話しかけ、大谷は一瞬、え?何?どこ?というような顔をしていたが、了解するとオケに向かって何やら声を掛けた。楽譜の用意がないのだから、アンコール演奏すると言ったら終わったばかりの第7番をやるに決まっているけど、第2楽章では長すぎるな、と思ったが、果たして、終楽章の終盤のクライマックスから最後までだった。そうでなくとも熱い音楽のサービスに、観客は大喝采だ。

ああ、これで彼女は観客の心を掴んだ!と思った。
すばらしい日本デビューに立ち会えたのは良かったよ。

もう一人、バイオリンのアリーナ・イブラギモヴァ(ロシア出身)も金髪の可愛らしいお嬢さんで、好感!

今日は、東響の看板おばさん大谷康子(彼女は”茶髪”)もいいところ見せて、3人の女性による心温まる…否、熱くなる良いコンサートだった。


♪2015-94/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-20

2015年9月26日土曜日

N響第1816回 定期公演 Aプログラム

2015-09-26 @NHKホール


ヘルベルト・ブロムシュテット:指揮
ティル・フェルナー:ピアノ*
NHK交響楽団

ベートーベン:交響曲 第2番 ニ長調 作品36
ベートーベン:ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」*

前回の定期公演は6月だったので、夏のシーズンオフを挟んで定期としては久しぶりだ。なんとなく、帰るところに帰ってきた、という落ち着きと、いよいよ始まるという期待感がある。

今月から、パーヴォ・ヤルヴィーが正式にN響の首席指揮者に就任する。もっとも指揮台に立つのは10月からだが、シーズンとしてはヤルヴィ-N響の始まりだ。

今日のコンマスは伊藤亮太郎。
確か、この4月からコンマスになった人で、多分、これまでステージでは一度も見かけなかったひとだ。堀正文が名誉コンマスに昇格したので順送りの芋づる式に昇格したのだろう。あるいは、4月から次期シーズンでのコンマス就任が予定されていたのかも。


ブロムシュテットは、好々爺の風情だ。飄々とした指揮ぶりだけど、手堅いという印象を受ける。

最初に交響曲第2番。
ピアノ協奏曲とのカップリングなら通常は交響曲のほうがトリになるけど、今日の組合わせだとやはり堂々として演奏時間も若干長い「皇帝」がふさわしいという判断だったのだろう。

この第2番て、全9曲あるベートーベンの交響曲の中で、一番聴く機会のない曲だ。奇数番は第1番を除いていずれも超有名。1番だって、そこそこ聴く機会がある。
偶数番は6番がダントツだけど、8番も4番もそこそこ聴く。

なことで、2番は個人的には一番馴染みの少ない曲だったが、今回、予習で聴き倒した感があり、随分馴染みの曲になった。

ベートーベンの音楽史的には前期の最後に位置し、次の年に第3番「英雄」が完成して中期が始まる。
…と説明されることが多いが、この時代区分による作風の違いについてはよく分からない(後期では最後のピアノソナタの3曲や12番以降の弦楽四重奏曲など、随分内省的になっていて前期とは様子が異なることはよく分かるのだけど。)。

何しろ、第1番でさえハイドンの作品とはずいぶん様子が違う。
一歩進めた第2番は一層「英雄」に近づいていて、構造物としても重厚さが漂う。
既に全篇ベートーベン印が飛び散っている感あり。面白い。

この日は、正規の日曜日の席を前日に振り替えてもらったので、席が異なり、少し上手側から聴いたが、同じ3階席前方なので、響に変わるところはなかった。
NHKホールは音が悪いともっぱらの評判だが、確かに、エアポケットみたいな場所が最前列~以外にもあるのかもしれないが、3階の少なくとも前方ではよく響いてくる。舞台後方の反響板の上から、館内の最後部まで、大きな波のうねりのような天井が一体となって続いて、オーケストラの音を運んでくるように思う。
2階席も少なくとも3階席の庇を被らない場所ではよく響く。
それで、僕は自分の指定席に満足しているのだけど、まあ欲を言えば、前回のサントリーホールでのN響の響はめったに聴けるものではなかったことは確かだ。

ピアノ協奏曲「皇帝」はいつもながら絢爛豪華だ。聴き応え十分。
ただ、ティル・フェルナーは何回か音を外していたやに思うが聴き取れなかったのかもしれないが。
ま、少しくらい音を外したって、それより勢いが大切。
大いに盛り上がってよかった。

今日の演奏が、いずれ「クラシック音楽館」で放映されるはず。
その時にじっくり反芻してみよう。


♪2015-93/♪NHKホール-08

2015年9月21日月曜日

読売日本交響楽団第82回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2015-09-21 @みなとみらいホール


尾高忠明:指揮
諏訪内晶子:バイオリン*
読売日本交響楽団

リャードフ:魔法にかけられた湖 作品62
モーツァルト:バイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219「トルコ風」*
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
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アンコール
チャイコフスキー:弦楽のエレジー~イワン・サマーリンの想い出

たまたま重なったのだけど、18日から21日までの4日間で6つのコンサートを聴いた。うち2日間は音楽堂とミューザ川崎シンフォニーホール、音楽堂とみなとみらいホールのハシゴだった。
こんなに重なることはこれまでの観賞歴では無かったことで、いささかコンサート疲れをしていた、その最後のコンサート。

予習するゆとりが無く、何が演奏されるのかも確かめず、チケットだけ持って出かけた。
席に着いてから気がついたけど、今、かけているメガネは外出用じゃない!自宅で読書やパソコン作業をするためのメガネなので度が弱く手元が見やすい代わりに遠くは全然焦点が合っていない。

音楽を聴く上でメガネはどうでもいいか、というとそうではない。
音楽は聴くだけより演奏ぶりを見ることで多くの情報と感興が得られる。
特に、この日はソロ・バイオリニストが諏訪内晶子だ。
多分、日本のこの熟女年代のバイオリニストの中では一番美形ではないかな。その彼女の表情が全くボケてしまったのが残念!って話が違うか。


リャードフという作曲家の存在は知らなかった。
19世紀後半から20世紀初頭のロシアの作曲家・指揮者・教師でリムスキー・コルサコフの門下、プロコフィエフの教師筋に当たるらしい。
「魔法にかけられた湖」はプログラムには楽曲の形式について何も書いてなかったが、Wikipediaでも手元の参考書でも「交響詩」と記載されている。
バイオリンが終始細かい音形を刻んでいる。これが湖のさざなみなのだろう。そこに木管が断片的なメロディを繋いでゆくが、全体としてはぼんやりとした雰囲気で始まり、ぼんやりと終わる。ドビュッシーの(牧神の午後への前奏曲などの)先取りのような印象だ。

モーツァルトの最後のバイオリン協奏曲と目されている第5番(全部で7曲書いたとされていたが、今では6番と7番は偽・疑作とされている。)はCDや放送などで時々耳にするが、これもナマで聴くのは初めてだった。
終楽章はメヌエット(3拍子)だが、中間部の短調・2拍子の部分が「トルコ風」と言われれば、ナルホドそうだったのか、と納得。


チャイコフスキーの4番はホルンとファゴットによる耳タコの勇ましいファンファーレで始まり、このフレーズが全曲を通じて顔を出し、終楽章後半でも再現される。運命のファンファーレというらしい。
プログラムの解説では、「運命と逃避」というキーワードで全体を説明してあったがそんな聴き方はしたことがないので、よく分からなかった。最後は盛り上がって終曲するが、あれはどこかに逃避する逃げ足を表しているのだろうか。

ま、そんなことは考えなくとも哀愁や激情が聴き手の心を掴んで離さない語り口のうまさがチャイコの身上だろう。


♪2015-92/♪みなとみらいホール-27

2015年9月20日日曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第312回

2015-09-20 @みなとみらいホール


児玉宏:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K543
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」-ノヴァーク第2稿1878/80(ウィーン国際ブルックナー協会版による)

ブルックナーにどうしてモーツァルトが組み合わされているのか、分からなかったが、プログラムの解説に、間接的に触れてあったのが、ふたりともウィーンの音楽家であることと、2曲とも調性が変ホ長調であるという共通性だが、そんな理由でこの2曲を組み合わせるとも思えないので、結局、妙な取り合わせ感、は拭えなかった。

変ホ長調の件は、主和音(E♭・G・B♭)の第3音Gが弦楽器のうち最も数の多いバイオリン最低音(の開放弦)に当たるので迫力ある演奏ができる、というようなことが書いてあったが、これもよく分からない。それが特別な意味を持つなら世の中の管弦楽は変ホ長調がもっと重宝されているはずだ。
開放弦の迫力?と弦楽器同士の共鳴を期待するなら、バイオリンからコントラバスまでに共通する開放弦の音(G・D・A)を主音にする調性で作曲した方が一層効果的だと思うけど。

まあ、ナントカ調の曲だと言っても実際の音楽では全楽章が第1楽章冒頭の調性で統一されている例はないのではないか。それに一つの楽章の中でもコロコロ転調するので、作曲家は弦楽合奏上の音響効果を考えるというより、各調性の持つ性格を音楽に反映させたり、特定の管楽器を聴かせたい場合にその楽器の性能がよく発揮される調性を選ぶということはあるかもしれない。

開演を待つ間、プログラムを読みながらそんなことを考えていたが、そのおかげでモーツァルトの39番とブルックナーの4番が変ホ長調であることは十分に頭に入ったので暫くは忘れないだろう。だからといって、あまり意味が無いけど。


肝心の音楽。
指揮の児玉宏という人は、初めて聞く名前だった。ドイツの歌劇場で26年のキャリアを積んだ、主にオペラを指揮している人らしい。

指揮者によって音楽が変わるというのは、時々経験するけど、オーソドックスな解釈をする人たちの音楽性の違いは、残念ながら聴き分ける程の感性も知識もないので、この人の演奏もごくフツーのモーツァルトであり、ブルックナーであったように思う。もちろんそれで十分なので、素人にも分かるような新!解釈はむしろ望まないのだけど。

モーツァルトの演奏については、小規模な編成で、その分各パートの輪郭がはっきりして、モーツァルトらしさが出ていたように思う。そして今回この曲を久しぶりに聴いて、改めて<ウィーン>を感じたのが僕にとっては有意義だった。
ベートーベン(ウィーンが作曲拠点だったが)やシューマン、ブラームスなどに共通するドイツっぽさ(の中身はうまく説明できない)とは違って華麗さ、軽やかさが身上なのかなと思ったが、これからは聴き耳!立ててその違いを聴き分けられるように構えてみようと思う。

ブルックナーの4番。
ブルックナーの交響曲の中でダントツに有名だろうな。
「ロマンティック」という作曲家自身が付けた標題と冒頭のホルンのメロディーが特徴的なので覚えやすい。

それにしても長い。
プログラム記載の予定時間は75分!
この曲だけではなく、ブルックナーの交響曲はどれも比較的短めの楽想が次々と現れては消えそれらが繰り返される(ように思う)ので長くなるのだろうが、とりわけ終楽章はあまりに長いので、ブルックナー自身方向性を見失ったのではないかとさえ思うが、ま、これは全貌が掴みきれていない素人の迷いごとか。


演奏は、実に残念だったと言わざるを得ない。
何しろ、冒頭の、肝心要のホルンソロがずっこけては気分が乗れない。
その後もホルンは重要なメロディーを担って何度も登場するのだけど、ソロの成功率の低さは問題だ。
アマオケじゃないのだし、本人も辛いだろうから次席か三席かに回せばいいのにと思うよ。

それを別にすれば、弦楽パートも管・打パートも力が入っていた。
第2楽章は弦楽主体の心地よいメロディーがきれいだった(短いフレーズの繰り返しに疑問は持っているのだけど当然これは演奏上の問題ではない。)。
また、長さには閉口するけど第4楽章の低弦主体にメロディが力強く歌うところなんか、ゾクゾク感あり。

終曲は各パートが盛り上げてくれるのだけどカタルシスに至れないのも解釈や演奏のせいではない。
指揮者は暗譜でこの長大曲を引っ張っていた。
その熱意に共感できて終曲の物足りなさも聴き手としては胸中で補うことで満足できた。
それだけにホルン問題は善処してほしい。


♪2015-91/♪みなとみらいホール-26

2015年9月19日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 第310回横浜定期演奏会

2015-09-19 @みなとみらいホール


藤岡幸夫:指揮
ソヌ・イェゴン:ピアノ(第5回仙台国際音楽コンクール優勝)*
半田美和子:ソプラノ
鈴木准:テノール
浅井隆仁:バリトン
日本フィルハーモニー交響楽団
合唱:日本フィルハーモニー協会合唱団

【輝け!アジアの星 第10弾】
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番*
グノー:聖チェチリア祝日のためのミサ・ソレムニス
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アンコール(ピアノ)
メンデルスゾーン(リスト編曲):結婚行進曲

ラフマニノフのピアノ協奏曲はオーケストラの定期演奏会でも取り上げられることが多いが、そのほとんどが第2番で、第3番は記憶にある限り1回しか聴いていない。さらに第1番、第4番となると一度も聴いていない…と思う。

第2番の人気が圧倒的に高いのは、映画「逢びき」や「7年目の浮気」などで使われたせいもあるのだろう。

それにしてもプロのピアニストにとって第1番や第4番は面白く無いのだろうか?
普通のオーケストラコンサートではピアノ協奏曲が単独で演奏されることはない。交響曲など大規模曲と抱き合わせなので、お客に人気がない曲だって取り上げることは可能なのにどうして演奏されないのか。
時々それらをCDで聴くが、この2曲は第2番や第3番のような哀愁に満ちた甘いメロディーはほとんど出てこないけど、ラフマニノフらしい華麗なピアニズムは十分魅力的だけどな。


で、今日の第3番。
第2番に比べても遜色のない叙情性が溢れていると思うけど、この曲も何故か演奏機会が少ない。
一つにはあらゆるピアノ協奏曲中ピアノにとって最難関だとも言われているからかもしれない。それに他の3曲に比べて演奏時間が長い(プログラムに記載された演奏予定時間は38分だったが、手持ちのCDでは47分<アシュケナージ>)のも一因かもしれない。

…なんて心配してもしようがないが、初めて聴くソヌ・イェゴンはまだ26歳という新進気鋭。この難曲を堂々と弾きこなして…当然なのだろうけど…十分の満腹感あり。

グノーの「聖チェチリア祝日のためのミサ・ソレムニス」という作品は、その存在すら知らなかった。この曲が演奏されることは当然前もって分かっていたけど、予習するゆとりもなくて、いわば、白紙状態で臨んだ。
もっとも、グノーの他作品もバッハの平均律第1曲前奏曲が伴奏になる「グノーの<アヴェ・マリア>」以外はオペラの作品名だけいくつか知っているくらい縁の遠い作曲家だったが。

さて、このミサ曲は、演奏時間が長い(約50分)というだけではなく、管弦楽に3人の声楽独唱と混声合唱(200名位並んだ。)、さらにパイプオルガンまで加わるという、大規模曲だ。

ミサ曲ではあるけど、普通に聴き慣れた楽曲構成とはちょっと違っていたし、全体の雰囲気が妙に明るい。メロディも抹香臭さがなく、親しみやすいものばかりで、「キリエ~」と歌いださなければミサ曲とは思わないだろう。聖俗混交オラトリオ風味かな。

「ミサ・ソレムニス」と言えば、ベートーベンの作品を思い出す。
これは「荘厳ミサ曲」とも呼ばれているので「ソレニムス」には「荘厳」の意味があるのかと思っていたけど、本来は「大掛かりな」といった意味で、教会用語では「盛儀」ミサと呼ぶらしい。
確かにこのグノーの「ミサ・ソレニムス」は大掛かりなことこの上ない。再度ナマで聴く機会は当分ないと思うが、いずれもう一度聴いてみたい。

https://youtu.be/CZgV2eiEFv4

♪2015-90/♪みなとみらいホール-25

横浜シティ・シンフォニエッタ第28回定期演奏会

2015-09-19 @県立音楽堂


児玉章裕:指揮
横浜シティ・シンフォニエッタ

ハイドン:
交響曲第77番変ロ長調 Hob.Ⅰ-77
交響曲第88番ト長調 Hob.Ⅰ-88
交響曲第99番変ホ長調 Hob.Ⅰ-99
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アンコール
ハイドン:交響曲第103番変ホ長調 Hob.Ⅰ-103 から第3楽章メヌエット

この日、夕方にみなとみらいホールで日フィルの定期演奏会がある。同じ日の午後に、距離も時間も好都合な音楽堂で「横浜シティ・シンフォニエッタ」の演奏会があるのを知って出かけた。
しかも、ハイドンの交響曲を3曲。
しかも、無料。

都合のつく限り毎回聴いている横浜交響楽団(横響)を別にすると、アマチュアのコンサートは随分久しぶりだ。
山田和樹が音楽監督をしている「横浜シンフォニエッタ」と紛らわしいが全然関係がない。

「横浜シティ・シンフォニエッタ」については、存在を全く知らなかた。年2回の演奏会の場所も横響のように「第九」以外は音楽堂、と決まっている訳ではなさそうで、それでは情報がなかなか入らない。

前日に聴いたアンサンブル金沢も小編成だけど、こちらはさらに小さくて、弦だけ数えて23人。ハイドンの交響曲の場合、管・打楽器も少ないので、全員で30人程度だった。
しかし、ハイドンがこれらを作曲した当時の宮廷内の楽団の規模も似たようなものだったろう。
それに音楽堂はハイドンがぴったりするホールだ。
後は、オケの腕前が良ければハイドン自身が聴いていたような音楽を再現できるだろう。

果たして。


第77番の第一声は、アンサンブル金沢にも迫っているかのような好印象でスタートしたが、残念ながら長くは続かない。低弦中心の場合は比較的整ったアンサンブルに聴こえるけど、高音部が混じってくるとピッチの不揃いが明らかになってくる。

まあ、アマチュアだし、そんなものだ、という割り切りで聴いておれば、ハイドンの軽妙な味わいも楽しめる。
ロマン派の交響曲などとはまったく異なる世界だ。
ユーモア(知的な遊び)を感じさせてくれる。

第88番だけは聞き馴染みがあった。「V字」という標題が付いている作品だ。
それ以外はいずれも初聴きだったが、108曲もあるハイドンの交響曲はよほど初期やよほど終盤のものでない限りほとんど似たような曲調でとても覚えられない。

しかし、ともかく、久しぶりにハイドンの交響曲をまとめて3曲聴けたのは良かった。


♪2015-89/♪県立音楽堂-11

2015年9月18日金曜日

辻井伸行 with 井上道義&オーケストラ・アンサンブル金沢 《悲しみのモーツァルト》

2015-09-18 @ミューザ川崎シンフォニーホール

井上道義:指揮
辻井伸行:ピアノ*
オーケストラ・アンサンブル金沢

モーツァルト: 
交響曲第25番 ト短調 K.183
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466*
交響曲第40番 ト短調 K.550
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アンコール
モーツァルト:トルコ行進曲(辻井編?)*
リスト:コンソレーション第3番*
モーツァルト:2つの行進曲ニ長調から第1番
武満徹:「3つの映画音楽」からワルツ<映画「他人の顔」>


5月の「熱狂の日」でオーケストラ・アンサンブル金沢の音の良さに魅せられて、機会があったら是非再度聴きたいと思っていた。
加えて人気の辻井伸行のピアノで、おまけにモーツァルトのマイナー曲ばかりという、ある意味ポピュリズムに訴えた品揃えのコンサートだともいえるが、僕も大いに心動かされたクチだ。

曲目はいずれもお気に入りばかり。
僕のiTunesライブラリには、モーツァルトのフォルダーの中に「ピアノ協奏曲短調」というプレイリストと「交響曲短調」というプレイリストが作ってある。いずれも2曲ずつしかない(それほどモーツァルトの短調作品は少ない。ピアノ協奏曲は27曲中、交響曲は41曲中、各2曲)。
時々、モーツァルトの疾走する悲しさ、とやらに浸りたい時があるのだ。
そのプレイリスト4曲中の3曲が演奏されるとあっては期待せずにはおれない。

ところが、オーケストラの第1声にちょいと不安を感じた。
いつもの聴き慣れたオーケストラの音ではないぞ。

なぜか?
一つには、編成が極めて小さい。バイオリン1、2とビオラはいずれも3プルト(6人)ずつ。チェロは4人、コンバスは2人。これに管楽器がオーボエ、ファゴット、ホルン各2人、曲によってフルート1人、トランペット2人が加わる。
こんなコンパクトな編成だから、各パートは明瞭に響く。
しかし、なんといっても弦楽器の数が少ないので楽器の共鳴効果(交響!)が期待できなく、硬めの音になってしまう。

では、5月に聴いたバッハの演奏はどうだったのか?
あの時の音はもっとやわらかな響だったように思う。

席は1階上手最前列センター寄りだった。
最前列でオケを聴くなんてできたら避けたいのだけど、ミューザの1階の座席配置は舞台に向かって3ブロックが扇型に並んでいるので、左右ブロックは最前列の最も内側でも指揮者への距離はセンターブロックの5列目に相当するので、まあ、室内オーケストラを聴くには前過ぎるとは思わなかったのだが、ひょっとして、この距離のせいもあったかもしれない。
つまり、楽器の共鳴効果の問題だけではなく、ホールの残響効果もこの席では十分ではなかったのだろう。
5月の国際フォーラムではオケまでの距離が十分あったのがサウンドをまろやかにしたのかもしれない。


一方で、ピアノの音も随分乾いた音なのだけど、これが実にクリアで粒立って小気味よく響いた。こういう音ならずっと聴いていたいような生理的にも快感がある。
この日、開演直前までピアノの調律が行われていた。
まあ、そんなに珍しいことではないけど、調律というより辻井くんの好みに整音していたのかもしれないな。

ともかく、どのホールでは、どういう編成の場合、どの辺で聴くか、難しいことだ。

音響は別とすれば、やはり鍛えぬかれたアンサンブル、という感じだ。少数だから、音楽の決めどころがピタッと合う。これは気持ちが良い。

いずれの作品も耳に馴染みすぎているせいか、あまり「疾走する悲しみ」は感じなかったけど、それが良かったかもしれない。浪花節みたいなモーツァルトはらしくないもの。


さて、辻井くん。
何にも見えないはずなのに、ピアノの前に座ったら手さぐりする様子もなく、正確に弾きだすのにはまったく驚く。
彼には心の中で何が見えているのだろう。

演奏が終わると、三方、四方に深々と何度も頭を下げる様子には、ちょいと胸を打たれた。

が、果たして、本当にうまいのだろうか。
弾き方がちょっと乱暴な感じもしたけど、どうなのかなあ。
国際コンクールにも優勝し(名誉賞だったという話も聞くが)、海外一流オケとの共演もこなしているのだから、相当の腕前なんだろうけど。

音楽に限らないけど、また辻井くんだけに限らないけど、作品というコンテンツが世に出た途端、それはストーリーを帯びることになる。
彼の場合は、全盲のピアニストで、若くて、可愛らしい表情なので、一層強力なストーリーが生まれる。
ストーリーは聴き手一人ひとりの中で妄想のごとく肥大化する。

佐村河内事件が突きつけた問題は、このコンテンツにまとわりつくストーリーがコンテンツ本体の評価を歪めるということを証明した。
辻井くんの場合も聴衆の妄想が彼の音楽性(の評価)を狂わせないように要注意だ。

館内の歓声は絶叫の嵐だ。
隣席のご婦人は僕の耳元でブラボー!の嬌声を張り上げ、しまいには立ち上がって(辻井くんには見えないのだけど)叫んでいた。
トリの40番が終わった時はえらくおとなしくしていたけど。

ある意味、異常な熱気だった。
音楽とは別の世界の熱気だ。

♪2015-88/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-19

音楽堂建築見学会vol.8「1950年代の建築の輝き」 自由な視点で音楽堂の歴史と建築の魅力を再発見 藤原真理ミニコンサート付き♪

2015-09-18 @県立音楽堂


青木淳(建築家)
松隈洋(建築史家・京都工芸繊維大学教授)
水沢勉(神奈川県立近代美術館館長)
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藤原真理:チェロ
倉戸テル:ピアノ*

・G.カサド: 「親愛の言葉」
・J.S.バッハ:「無伴奏チェロ組曲 第1番」から前奏曲 BWV.1007
・J.S.バッハ:「主よ、人の望みの喜びよ」 BWV.147
・ファリャ:「6つのスペイン民謡」より ホタ
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アンコール
・J.S.バッハ:チェンバロ協奏曲第5番ヘ短調BWV.1056から第2楽章「アリオーソ」
・サン・サーンス:白鳥


県立音楽堂は昨年還暦を迎えたが、確か、その前年?から「音楽堂建築見学会」が開催されていたようだが、全然気が付かなかった。
同種の催しには一度参加したが、建築と音楽の関係が論じられたけど、僕の関心である音響的特性については触れられなかった。

今回も同様だったが、改めて設計者前川國男の設計思想の片鱗に触れて、なるほど建築設計というのは奥の深い世界だな、と感心できたのは良かった。

さて、今回の楽しみは、建築学レクチャーの後のミニコンサートだ。過去7回の音楽家ゲストには仲道郁代、吉野直子など錚々たる顔ぶれで、今回は藤原真理さんだ。

僕にとっては、重要人物だ。
初めて買ったバッハの無伴奏チェロ組曲のCDは彼女の演奏で、多分25年前だ(今は新録音のほかにこの古いCDの復刻版?も出ているようだけど)。擦り切れんばかりに繰り返し聴いたので、バッハの無伴奏チェロ組曲と言えば、彼女のフレージングやアーティキュレーションがこびりついている。
その後、御大カザルス、ミーシャ・マイスキー、ジャン・ワン、鈴木秀美を入手したが、いつも基本は(カザルスではなく!)藤原真理だ。
ほかの演奏家がつまらない訳では決してないけど、誰を聴いても、あ、ここがちょっと違う…などと感じてしまう。藤原真理の演奏は僕にとってメートル原器ならぬ、バッハ無伴奏原器になっているのだ。

そんなに長く親しんできたのに、ナマを聴いたことがなかった。ご本尊を拝顔する機会がなかった。
それがこんな建築学講義のオマケのような形で機会を得るとは思わなかったが、むしろ、このような形であって良かった。

指定席だが、予約開始とともにチケットを買ったのでセンター前から5列目という室内楽やソロには絶好(かどうかは人それぞれ。)と思っている席を確保できた。

舞台に登場した藤原真理さん、なんて小さいの。CDジャケットしか見ていないから、まあ、四半世紀分の歴史を背負っておられるのは致し方無いとしても、こんなに小さい人だとは思わなかったからびっくりした。チェロが大きいのだ。
それにほとんど、スッピン?スーパーから買い物をして出てきたおばちゃんの風情だ。笑顔も気取りのない気さくな感じだ。

最初の音でよく響くチェロだと思ったが、彼女のチェロはクレモナで300年以上前に制作されたものだそうだ。製作者については言及がなかった。

2曲め以降は彼女の解説入りで、それも曲目の説明というより、楽器の特性、木の大切さ、そのための環境保護などが中心で、さらに希望する観客(20名位)を舞台に上げてチェロの音がエンドピンを通じて音楽堂の舞台の床にどう伝わるかを体感させたり、客席前方で聴いていたお客に良ければホールの後方に移動して、前でも後ろでも音響に変わりがなく響くはず…だということを体感させた。
僕の列はほとんどが後ろに行ってしまったが、僕は断固自分の席を死守した。動きたくないほど美しい音だったし、最後までそばで聴いていたかったから。

藤原真理さん曰く、「良いホールで良い楽器を良い演奏者が鳴らせば、一番後ろでも良い音で響くはずです」。
まさにそのとおりで、音楽堂の1フロア、全面板張り、コンパクトなホールの音の通りの良さは確かにあまり場所を選ばないことはよく知っている(でも、微妙な違いを感ずる演奏もある!)。

音楽堂は、残響が短いので、下手な演奏、好ましくない楽器ではガサガサと原音が耳障りになる場合がある。

しかし、今日の藤原真理さんの、良い楽器と良い演奏のコンビでは実に妙なる音を音楽堂が響かせるということを改めて体感できた。
彼女の弾くチェロの音は、弦の振動で脂が粉となって飛んでゆく時の、摩擦音が楽音に変化する微妙な両者の共存が聴かせる豊かな音色だ。
チェロの、これほど美しい音を聴いたことは今までになかった。


余談:
前川國男は世界的権威であるル・コルビュジェ(国立西洋美術館の設計者)らに学び、その影響を受けて、戦後の日本の建築界をリードした存在だ。
DOCOMOMO Japanが最初に優れた近代建築20選を定めた際に、前川國男設計の県立音楽堂と音楽堂に隣接する県立図書館が選ばれている。ほかにも、京都会館、東京文化会館(そういえば両者は感じがよく似ているな。)、国立国会図書館、神奈川県青少年センター、紀伊国屋書店新宿店、東京都美術館、東京海上日動ビルディング本館など有名な建築が多い。今では丹下健三のほうが有名だが、彼は前川事務所の出身だ。


♪2015-87/♪県立音楽堂-10

2015年9月16日水曜日

横浜交響楽団第665回定期演奏会

2015-09-16 @県立音楽堂


田中健:指揮
横浜交響楽団

マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
(1863~1945)
マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
(1860~1911)

この回から指揮者が交代制になったそうで、田中健氏がタクトを振った。えらく若く見えたけど、プログラムの紹介欄には77年生まれと書いてある。いろんなアマオケで指揮やコーチをしている人らしい。
その指揮ぶりは堂々としているし、身のこなしもベテランの風情があった。

一つ難点を言えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲を振り終えた際の終止感(僕の造語。指揮者として、この音楽は終わりました、という感覚)を観客に伝えるタイミングが明確ではなかった。
生のコンサートは演奏者と観客の共同作業のようなものだけど、後者の出番は黙って聴くというほかは終曲を待って拍手をする・歓声を上げることしかない。この作業に円滑に入れることで気持ちを託した拍手に熱意がこもるし、カタルシスが具体化する。
でも、演奏が悪かった訳でもなく、曲の終わりがはっきりしなかったのでもなく、音楽は終わったけど、指揮者の意識の中ではまだ続いているかもしれない…そこが明確ではなかったので観客としては、溜め込まれた緊張を拍手によって一気に解放することができなかった。

フライイング気味の拍手がパラパラと起こったが、全体として拍手の盛り上がりを欠くことになりバツの悪い雰囲気が漂ったうちに休憩になった。


メインイベントのマーラーは多分アマチュアがやるには相当難しいのかな。
帰宅後スコアを見たら、馴染みのあるチェロのパートだけだけど、♯が4つとか♭が5つとかいう部分があって、個人的にはもうそれだけでお手上げだけど、そういうややこしい楽譜をちゃんとそれなりに音にしていたんだなあ、と感心をした。

問題はいくらもあった。やはり、ピッチが「不揃いの楽器たち」だ。
これはいつものことで、アマチュアの限界かも。
大活躍が期待されるトランペットも気の毒なところが随所に見られた。
でも、マーラーが恋人にプロポーズ代わりに贈ったという第4楽章のアダージェットは十分にロマンチックで美しかった。

いろいろあったけど、この大曲に挑戦する横響のパワーは素晴らしい。

♪2015-86/♪県立音楽堂-09

2015年9月13日日曜日

東京交響楽団 川崎定期演奏会 第52回

2015-09-13 @ミューザ川崎シンフォニーホール


ジョナサン・ノット:指揮
藤村実穂子:メゾ・ソプラノ
東響コーラス:女声合唱
東京少年少女合唱隊:児童合唱
東京交響楽団

マーラー:交響曲 第3番 ニ短調


第3番は、マーラーのいずれも長ったらしい交響曲全10曲の中でもとりわけ長大で、近年までギネスブックに最長時間交響曲として記録されていたという。

プログラムでは演奏予定時間100分とある(結果的には105分だったと思う。)。

そんな訳で、CDでは数回聴くともなしに聴いてはいるのだけど、真剣に聴いたことがなかった。オケの定期でもなかなか取り上げられない。何しろ、「長い」だけではなく、オケの編成が異常に大きく、さらに独唱、女声合唱団と児童合唱団が加わるのだから、容易には取り上げることができないだろう。一回演奏する毎に赤字が出るのではないだろうか。

とにかく、CDでさえ(だから?)、真剣に聴いたことがない長大曲を今回初めてナマで聴くことになったが、休憩なしに演奏するというのだから、聴き手も一種の修行である。
事前に十分な予習と体調管理をして臨まねばとてもこの曲を鑑賞することはできない。

それが、体調不十分だった。
昨日の早朝の地震以来リズムが狂ってしまった。
こりゃあ、爆睡必至だなあ、と危惧しながら出かけた。

しかし、始まってみると、最初の10分位かな。しんどかったのは。
後は、ノリノリで、不思議なものだ。マラソンランナーのランナーズ・ハイのようなものか。

長くとも、それなりに(楽しめるとまではゆかないが)聴いておれるのは、マーラーの他の曲でも同じだけど、多彩な楽器を投入し、多彩な演奏技法を繰り広げ、刺激的でダイナミズムに富んだリズムとメロディが次々に押し寄せるからだろう。


因みに、オケが大編成だと書いたが、管・打楽器の編成は一応楽譜に書いてある(とはいっても、本番では補強しているように思う。)が、弦楽器については単に弦5部としか書いてない。
弦楽パートをどういう規模にするかは、指揮者の判断なのだろう。今回はコントラバスが9本並んだ。9本も並んだのを確認したのは初めてだ(千人の交響曲の時はどうだったのか記憶も記録もない。)。他のパートも推して知るべし。実に分厚い弦楽が時にはパート内でさらに2パートに分かれたりして重厚かつ繊細な響きを聴かせてくれた。

この重厚で華麗なサウンドがなければ、この長大曲を聴くのは苦行に等しいが、そこはうまく工夫して飽きさせない仕掛けが織り込んである。オーケストラの狂奔ぶりはもちろん聴き手の感性を大いにかき回すのである。

長きが故に尊からず。これは音楽表現を借りたアクロバチック・イリュージョンにすぎないのではないか、という不信感が根底にあるのだけど、抵抗したい気持ちも長くは続かなくなるのも現実だ。

音楽ってなんだろう、ていう疑問は永遠のものかもしれないが、マーラーを聴くとき特に強く感じてしまう。




演奏について。
メゾ・ソプラノの藤村実穂子の声が、天上の高いミューザの空間によく響き渡ってきれいだった。
女声合唱はP席に配置されていたが、児童合唱は客席第3層上手の一角から降り注いできたのも効果的な演出だった。
ミューザではホール客席内に合唱やバンダ(オケの別働隊)を配置するためのスペースが用意されているからこそこういう演出ができるのだが。
指揮のジョナサン・ノットの音楽的特徴は分からない。それほど聴いていないから。しかし、誠実そうな印象にいつも好感する。
今日の長大曲を完全暗譜で振ったというのはすごいなあと大いに感心した。そういえば以前にジョナサン・ノットが東響の音楽監督就任記念コンサートでマーラー(第9番)を振った時も暗譜だったなあ。

そして、東京交響楽団はいつもの様にうまい。
僕の独善では、N響、読響、都響と並んで在京オケ四天王だと思うよ。



この日の終演後のカーテンコールの凄まじさと言ったら、これまでのミューザ経験では最高の興奮ぶりだった。上に触れた一昨年のジョナサン・ノットの音楽監督就任記念コンサートでも大きな拍手と歓声に包まれていたが、今回はもっと一桁dbが大きかったように思う。

マーラーの音楽に対する僕の屈折した思いとは別に、大曲を演奏し終えた指揮者やオケや声楽の諸君たちと2千人近い観客が幸福な気持ちを一つにできる瞬間だ。

♪2015-85/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-18

2015年9月12日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホールシリーズ 第5回

2015-09-12 @県民ホール


小泉和裕(特別客演指揮者)
清水和音:ピアノ
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ベートーべン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73 「皇帝」
ブラームス:交響曲第4番ホ短調 作品98


今日のプログラムはも、王道の中の王道。
ベートーベンとブラームスという、作曲家も王道だが、各自の作品がそれぞれのジャンルでの各自の最高峰ではないか(ま、人によって好みの違いがあるかもしれないけど。)。

こういう作品が並んだコンサートは実に安心できる。
幸福な時間だ。
でも、幸福すぎて前半は船を漕いでしまった。

なにしろ、今朝の6時前の激震(正確には震度4だけど…突き上げるような揺れだった。)ですっかり目を覚ましてしまってそれから寝られず、激しい睡眠不足状態だった。

どのオケのコンサートでも、第一声は不安だ。
ちゃんとピッチのあったきれいな音が協和して響くだろうか。
でも、この問題は、曲によってはそう心配しなくともよい場合がある。一般化してどう表現したら良いか思いつかないけど、例えば、ホルンを筆頭に木管の弱音で始まらない場合、とりわけ、低弦中心のTutti(言語矛盾があるかも)で音楽が始まる場合は不安要素が少ない。
最近、体感した例では、ベートーベンの「エグモント」序曲のようなタイプだ。そして、今日の同じくベートーベンの「皇帝」も安心できるタイプだ。

出だしはとてもきれいな響でホッとした。
続くピアノのアルペジオもきれいだし、とても気分の良い出だしだったが、2楽章の途中から、意識が朦朧としてしまったのは、演奏している人たちに大変申し訳無い。


「皇帝」の聴き所は全曲だろうけど、個人的に細かいところをあげるなら2楽章の終わりから終楽章へのつなぎの部分もゾクゾクするところだ。
終楽章のテーマをスローテンポで小出しにしながら盛り上げてゆき、ついに頂点に達した時に(attaccaで)第3楽章が華やかに始まる。
これは「運命」の第3楽章から第4楽章へのつなぎと同じ趣向だ。
「皇帝」は「運命」のほぼ1年後に完成しているらしいから、もう一度異なる分野でも同じ趣向を試みたのだろう。

ま、そんな訳で、個人的には、第2楽章の終わりから第3楽章への緊張感の持続と盛り上がりを興味を持ちつつ味わいたいところなので、第1楽章でうたた寝しても第2楽章では覚醒していなければならなかったが、震度4の余震がこんなところに及ぶとは思わず、気づいたら終楽章が始まっていた。残念無念。

でも、堂々とした「皇帝」ぶりで良かった…なんて、ちょっと白々しい?


休憩挟んで後半はばっちり刮目してブラームスを楽しんだ。
この曲は、初っ端からもうハラハラと泣ける感じだ。
それでいてその気になって泣いていると置いてゆかれてしまう。
この辺がチャイコフスキーなんかとは違うんだなあ。
情緒的ではあるけど、情緒に流されない。その抑制された感情表現がブラームスの真骨頂ではないか。

「ブラームスはお好き」?とサガンは問うた。
もちろん「大好きだよ!」と答えよう。



♪2015-84/♪県民ホール-02

2015年9月6日日曜日

女神(ミューズ)たちの”愛のうた”

2015-09-06 @ミューザ川崎シンフォニーホール


千住真理子:バイオリンVn
長谷川陽子:チェロVc
仲山郁代:ピアノPf

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第3番より プレリュード(Vc)
ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ(Vc+Pf)

ショパン:幻想即興曲(Pf)
ショパン:夜想曲 第20番「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(Pf) 
ショパン:練習曲 第12番「革命」(Pf)

マスネ:タイスの瞑想曲(Vn+Pf)
J.S.バッハ:無伴奏バイオリン・パルティータ 第3番よりプレリュード(Vn)
イザイ:無伴奏バイオリン・ソナタ 第2番より「幻影」(Vn)

チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」(トリオ)
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アンコール
E.エルガー:愛の挨拶(トリオ)


このシリーズ、いつからやっているのかしらないけど、少なくとも2013年にはみなとみらいホールで聴いた。
その時のメインプログラムはメンデルスゾーンの第1番のピアノトリオだった。
今日は、チャイコフスキーのピアノトリオだった。
いずれも甘く切なく、ロマンチックだ。

お嬢さん方にはピッタリの選曲かも知れない。

僕がピアノ・トリオという形式の音楽に開眼したのは、ほかでもない、このチャイコのトリオを聴いてからだ。
冒頭のチェロから始まりバイオリンに受け継がれる主旋律に惹きこまれない人はいないだろう。

変則2楽章形式だが、前半は特に変わったところはないけど、後半の、特にコーダからは第1楽章の切ないメロディーがだんだんと大げさになって繰り返され、やがて、テンポを落とし、葬送行進曲にでしめやかに終わる。
そういう意味では暗~い音楽だ。
演奏に50分も要する長大曲だがセンチメンタルな情感のせいか長さを感じさせない。

あくまで個人的見解だけど、ピアノトリオには傑作が多い。
この楽器編成が作曲家に刺激的だったのだろう。
古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーベン)もたくさん傑作を作っているしシューマン、もブラームスも、メンデルスゾーンもドボルザークも数曲ずつ作曲している。
ショパンとチャイコフスキーが1曲しか作っていないのはなぜだろう。

コンサート前半は各自のソロとピアノとのデュエットにピアノソロだ。
バッハ「無伴奏チェロのための組曲第3番」からのプレリュードにせよ、同じく「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第3番」プレリュードにせよ、聴くには物足りない。曲目を減らしても全曲聴きたかった。ただ、無伴奏バイオリンの2曲めがイザイの無伴奏ソナタ第2番から幻影というのは、良い選曲だった。

難曲、「偉大な芸術家の思い出に」では、特にピアノがときどき音を外していたが、勢いがあったのでさほど気にもならなかった。

今日のミューザ川崎シンフォニーホールでの席は、第2層のセンターの中のセンターという場所を選んだ。P席以外はどこも同額でランク無しだったので、普段聴いたことがないなるべく後方を選んでみたのだけど、音の響きはとても良かった。
以前、みなとみらいで聴いた際に千住真理子のストラディヴァリウスの音がやけに硬いという印象を受けたが、今日は、とても良い感じだった。

音楽とは関係ないけど美形3人の中では、千住真理子に親しみを感ずる。その真理子さんもデビュー40年だそうで、チャイコを弾くときにはメガネをしていたなあ。
いつまでもミューズでいてくれたらいいのだけど、そうもゆかんのだろうな。


♪2015-83/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-17

2015年9月3日木曜日

松竹創業120周年 秀山祭九月大歌舞伎 昼の部

2015-09-03 @歌舞伎座


一 双蝶々曲輪日記
(ふたつちょうちょうくるわにっき)
 新清水浮無瀬(しんきよみずうかむせ)の場

二 新歌舞伎十八番の内
   紅葉狩(もみじがり)

  紀有常生誕一二〇〇年
三 競伊勢物語(だてくらべいせものがたり)
序幕 奈良街道茶店の場
   同  玉水渕の場
大詰 春日野小由住居の場
   同  奥座敷の場

一 双蝶々曲輪日記
南与兵衛⇒梅玉
藤屋吾妻⇒芝雀
平岡郷左衛門⇒松江
太鼓持佐渡七⇒宗之助
堤藤内⇒隼人
井筒屋お松⇒歌女之丞
手代権九郎⇒松之助
三原有右衛門⇒錦吾
山崎屋与五郎⇒錦之助
藤屋都⇒魁春

二 新歌舞伎十八番の内 紅葉狩(もみじがり)
更科姫実は戸隠山の鬼女⇒染五郎
局田毎⇒高麗蔵
侍女野菊⇒米吉
山神⇒金太郎
腰元岩橋⇒吉之助
従者左源太⇒廣太郎
従者右源太⇒亀寿
平維茂⇒松緑

  紀有常生誕一二〇〇年
三 競伊勢物語(だてくらべいせものがたり)
紀有常⇒吉右衛門
絹売豆四郎/在原業平⇒染五郎
娘信夫/井筒姫⇒菊之助
絹売お崎⇒米吉
同 お谷⇒児太郎
旅人倅⇒春太郎<初お目見得井上公春(桂三長男)>
およね⇒歌女之丞
川島典膳⇒橘三郎
茶亭五作⇒桂三
銅羅の鐃八⇒又五郎
母小由⇒東蔵


「双蝶々曲輪日記」は昨年の10月の国立劇場で「通し狂言」としてみているので、予習もせずに臨んだ。

今回の「新清水浮無瀬の場」(原作浄瑠璃から三段目の「小指の身代わり」の趣向も取り入れられている、と<筋書き>に書いてある。)は、通しでは除幕に当たる部分で、物語をすっかり忘れているのには我ながら呆れた。もっとも小指を噛み切られる話は忘れているというよりそもそもそんな芝居あったっけ?という疑問が頻りだ。

ただ、南与兵衛(なんよへい・梅玉)が新清水の舞台から商売道具の傘を落下傘のようにして飛び降りる宙吊り芸は思い出した。

見どころはそこだけかな。
<ふたつちょうちょう>と言っても相撲取りは登場しない。
やはり「引窓」を含む場面構成で観たいな。


「紅葉狩」は竹本、長唄、常磐津の掛け合いによる舞踊劇。
能の「紅葉狩」を題材にしているようだが、打って変わって舞台は歌舞伎らしい派手な紅葉尽くしだ。
平維茂(たいらのこれもち。松緑。ヒゲがない方が良かったぞ)が紅葉狩りに来た戸隠山中で更科姫(その正体は戸隠山の鬼女。染五郎)とその共の一行と会い、酒を酌み交わしながら彼女たちの舞を見るうちに睡魔に襲われる。
ここで更科姫が2枚の扇を使って踊るところがひとつの見所らしい。

更科姫一行が姿を消した合間に山神(金太郎)が現れて、維茂に更科姫の本性を告げる。
後半、美しかった更科姫が世にも恐ろしい鬼女とに変貌して維茂を襲うところがものすごい。これはなかなかコワイ。

維茂は愛刀小烏丸で対抗し、鬼女はその威徳に抗せずして松の大木に逃げるように飛び移って両者が睨み合う大見得で幕。

賑やかな浄瑠璃に乗って、派手な舞台と衣装、そして舞踊が華やかでよろしい。



「競伊勢物語」がメインディッシュだったのだろうが、この話も人間関係も複雑で分かりにくくなかなか楽しめなかったが、大詰めのそれも終盤に至っての劇的展開に完全覚醒し唖然とした。

紀有常(吉右衛門)が、実の娘・信夫(しのぶ。菊之助)と彼女の許婚である豆四郎(実は磯上俊清⇒在原業平の家臣。染五郎)の生命を犠牲にして主君業平(染五郎の二役)とその恋人井筒姫(有常の幼女。菊之助の二役)を救う話で、そのような経緯になったのは、あれやこれやあるけど、つまりは、信夫は井筒姫に、豆四郎は業平にそっくりだったったために身代わりにされたということだ。
その死に方もかなり残酷だ。

事情を知らされない信夫の養母小由(東蔵)は信夫と衝立を挟んで向い合い、別れの琴を弾いてほしいと頼み、自らもそれに合わせて砧を打つ(ここでは菊之助が本当に琴を弾いているのには驚いた。なんでもやれるんだ。)。
その琴と砧の音を聴きながら、豆四郎は切腹をし、有常に首を討たれ、ついで、信夫も有経の手にかかって惨殺される。
お家大事のためにやむをえなかったとはいえ、なんという悲惨極まりない筋立てに仕上げたものか。

これは少々気色が悪い話だ。
江戸の庶民はここまでもえげつない話を望んだのだろうか。

昼の部では吉右衛門、東蔵、菊之助の出番はこの演目だけだったが、染五郎も加わって、実に緊迫の芝居を見せてくれたものの、後味の悪い話ではあった。



♪2015-82/♪歌舞伎座-05