2015-09-21 @みなとみらいホール
尾高忠明:指揮
諏訪内晶子:バイオリン*
読売日本交響楽団
リャードフ:魔法にかけられた湖 作品62
モーツァルト:バイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219「トルコ風」*
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
-----------
アンコール
チャイコフスキー:弦楽のエレジー~イワン・サマーリンの想い出
たまたま重なったのだけど、18日から21日までの4日間で6つのコンサートを聴いた。うち2日間は音楽堂とミューザ川崎シンフォニーホール、音楽堂とみなとみらいホールのハシゴだった。
こんなに重なることはこれまでの観賞歴では無かったことで、いささかコンサート疲れをしていた、その最後のコンサート。
予習するゆとりが無く、何が演奏されるのかも確かめず、チケットだけ持って出かけた。
席に着いてから気がついたけど、今、かけているメガネは外出用じゃない!自宅で読書やパソコン作業をするためのメガネなので度が弱く手元が見やすい代わりに遠くは全然焦点が合っていない。
音楽を聴く上でメガネはどうでもいいか、というとそうではない。
音楽は聴くだけより演奏ぶりを見ることで多くの情報と感興が得られる。
特に、この日はソロ・バイオリニストが諏訪内晶子だ。
多分、日本のこの熟女年代のバイオリニストの中では一番美形ではないかな。その彼女の表情が全くボケてしまったのが残念!って話が違うか。
リャードフという作曲家の存在は知らなかった。
19世紀後半から20世紀初頭のロシアの作曲家・指揮者・教師でリムスキー・コルサコフの門下、プロコフィエフの教師筋に当たるらしい。
「魔法にかけられた湖」はプログラムには楽曲の形式について何も書いてなかったが、Wikipediaでも手元の参考書でも「交響詩」と記載されている。
バイオリンが終始細かい音形を刻んでいる。これが湖のさざなみなのだろう。そこに木管が断片的なメロディを繋いでゆくが、全体としてはぼんやりとした雰囲気で始まり、ぼんやりと終わる。ドビュッシーの(牧神の午後への前奏曲などの)先取りのような印象だ。
モーツァルトの最後のバイオリン協奏曲と目されている第5番(全部で7曲書いたとされていたが、今では6番と7番は偽・疑作とされている。)はCDや放送などで時々耳にするが、これもナマで聴くのは初めてだった。
終楽章はメヌエット(3拍子)だが、中間部の短調・2拍子の部分が「トルコ風」と言われれば、ナルホドそうだったのか、と納得。
チャイコフスキーの4番はホルンとファゴットによる耳タコの勇ましいファンファーレで始まり、このフレーズが全曲を通じて顔を出し、終楽章後半でも再現される。運命のファンファーレというらしい。
プログラムの解説では、「運命と逃避」というキーワードで全体を説明してあったがそんな聴き方はしたことがないので、よく分からなかった。最後は盛り上がって終曲するが、あれはどこかに逃避する逃げ足を表しているのだろうか。
ま、そんなことは考えなくとも哀愁や激情が聴き手の心を掴んで離さない語り口のうまさがチャイコの身上だろう。
♪2015-92/♪みなとみらいホール-27