指揮⇒飯守泰次郎
演出⇒カタリーナ・ワーグナー
ドラマツルグ⇒ダニエル・ウェーバー
美術⇒ユリウス・ゼンメルマン
衣裳トーマス・カイザー
照明⇒クリスティアン・ケメトミュラー
合唱⇒新国立劇場合唱団
管弦楽⇒東京交響楽団
ドン・フェルナンド⇒黒田博
ドン・ピツァロ⇒ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
フロレスタン⇒ステファン・グールド
レオノーレ⇒リカルダ・メルベート
ロッコ⇒妻屋秀和
マルツェリーネ⇒石橋栄実
ジャキーノ⇒鈴木准
囚人1⇒片寄純也
囚人2⇒大沼徹
ベートーベン:全2幕〈ドイツ語上演/字幕付〉予定上演時間:約2時間40分
第Ⅰ幕70分
--休憩30分--
第Ⅱ幕60分
「フィデリオ」の生舞台は初めてだけど、ビデオディスクは持っているので、まるきり初めてという訳ではなかった。
そのディスクは2003年4月のザルツブル・イースター音楽祭でサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの演奏。演出はニコラウス・レーンホフのものだ。
時代設定はあえて不詳にしてあり、舞台装置も単純で抽象的なものだが、筋書きは台本どおりだと思う。
詳しく勉強した訳ではないが、他に参考資料を見ても、今回の新国立劇場でのプログラムに書いてある「あらすじ」を読んでも、だいたい似たり寄ったりの筋が書いてあるところから、ビデオ版の「フィデリオ」もベートーベンが拠にした台本に沿った演出だと思う。
であるので、これは、男装しフィデリオと名乗って政治犯牢獄で働きながら夫フロレスタンを救出する妻レオノーレの物語だと安心しきっていた。さらに言えば、フロレスタン個人が救済されるというより、政治犯が解放され思想信条の自由が勝利するという物語であるはず。
前から2列めという字幕を読むには不利な席だけど音楽にはどっぷり浸れる。音楽は文句なしにベートーベンらしさに溢れて、歌手には相当困難らしいが、聴いている分にはその良さを堪能できる。
なので、あまり字幕を熱心に追わず、音楽に集中していた。話がどう進み、どういう結末を迎えるか分かっているのだから。
ところがどっこい。
話が違う。
第2幕第2場から様子が変で、ラストはもうまるきり台本から逸脱した。いや、「逸脱」という言葉では不足するくらいのとんでもない最後だった。ベートーベンが生きていたらこの演出家を銃殺したのではないか。
新国立劇場だけでなく、これまでどこの劇場でも終演後にブーイングを聞いたのは初めての経験だ。いや確かに怒りたくなる。
演出家はカタリーナ・ワーグナー。
あのワーグナーのひ孫だそうな。
極東の歴史の浅い(この作品は会場20周年記念特別公演と位置付けられている。)オペラハウスで、好きにやってくれ、と言われて、思い切り遊んでみたか。
2月の二期会「ローエングリン」も深作健太の新演出が自己満足の為に奇を衒ったようで面白くなかったが、今回のカタリーナ・ワーグナーの新演出は、<読み替え>の限度を超えて「フィデリオ」を冒涜したような思いがする。
新国立劇場の音楽監督である飯守泰次郎が最後に自ら指揮をする作品であったのにその有終の美を穢したとは言いすぎかな。
歌手陣はいつもながら素晴らしかった。
レオノーレを演じたリカルダ・メルベートは「ジークフリート」、「ばらの騎士」についで3度めだったが、迫力ある美声だ。
フロレスタン役のステファン・グールドは「リング」4部作についで5度目で、彼も見事なものだ。
他に、ロッコの妻屋秀和やマルツェリーネの石橋栄実など日本人歌手も引けを取らない歌唱だった。
ピットは東響で、これがなかなか良い。ミューザやサントリーで聴くときより響が良いのは、ピット効果なのか、新国立効果なのか分からないけど、音楽を聴く喜びを感じさせてくれる。
指揮者はじめ、演奏陣は力を尽くしているのに、この演出ではさっぱりだ。気の毒に思うよ。カーテンコールも盛り上がりに欠けた。
帰宅後、プログラムをよく読めば、ドラマトゥルク(定義がよくわからないし、プロダクション毎に役割も異なるようだ。)であるダニエル・ウェーバーなる人物がプロダクションノートを記していて、そこに今回の演出の解釈のヒントが出ていたが、仮に事前に読んでいたとしても、舞台で繰り広げられたとんでもない結末を誰が予想したろう。
舞台美術は全幕基本的に変化しない。何しろ全ては政治犯牢獄で始まり終わるのだから。全体に暗いのもやむを得ないだろう。
しかし、最大4階分(上下する)まで作ってあり、そこで芝居が行われるので、1階席からは終始見上げていなくてはいけないし、4階席からは舞台の上部は見えなかったのではないか。こういう点も美術や演出において考えてくれなくては困るな。
いやはや、音楽だけが救いだった。
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