2018年2月28日水曜日

オペラ「ホフマン物語」

2018-02-28 @新国立劇場


指揮:セバスティアン・ルラン
演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
衣裳:アンドレア・ウーマン
振付:上田遙
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

ホフマン⇒ディミトリー・コルチャック
ニクラウス/ミューズ⇒レナ・ベルキナオ
オランピア⇒安井陽子
アントニア⇒砂川涼子
ジュリエッタ⇒横山恵子
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル/ダペルトゥット⇒トマス・コニエチュニー
アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ⇒青地英幸
ルーテル/クレスペル⇒大久保光哉
スパランツァーニ⇒晴雅彦
シュレーミル⇒森口賢
ニアントニアの母の声/ステッラ⇒谷口睦美
 ほか

ジャック・オッフェンバック:「ホフマン物語」全5幕〈フランス語上演/字幕付〉

予定上演時間:約3時間40分
第Ⅰ・Ⅱ幕70分
 --休憩30分--
第Ⅲ幕50分
  --休憩30分--
第Ⅳ・Ⅴ幕40分

有名なオペラについては放送機会も多いのでその録画を中心に、大抵複数のバージョンを持っているのだけど、「ホフマン物語」に関しては2009年のMET版だけしかなく、これは数回観たがなかなかしっくりと来ない。それで特に関心を惹く作品ではなかった。そういうこともあって、この作品をナマで鑑賞するのは今回が初めてだった。

元々未完の作品を後日他人が手を入れて完成したものだが、その後も楽譜が発見されたことなどから色んな人が再構成をした版が存在するようで、Wikipediaには6種類が挙げられており、最新版はなんと2006年に発表されたそうだ。
実際の舞台は比較的新しい版が用いられているらしいが、それでもその版に忠実とは限らず、各版の良いとこ取りでの再構成もあるようで、今回のフィリップ・アルローの演出も良いとこ取りだそうだ。

いろんな版があり、部分的に混ぜ合わせた構成も可能ということは、演出家にとっては面白いのかもしれないが、よほどの「ホフマン物語」ファンでない限り、観客は混乱するだろう。

MET版でも納得できなかったが、今回もよく分からないのが、最終幕最終場面のホフマンの死の意味が、やっぱり分からない。(おそらく、ここは、原作台本でもこう書いてあるのだと思うが)3人の女性に失恋したとはいえ、自ら死を選ぶに至る説得力がない。

人は死んでも芸術家(ホフマンは詩人)の作品は残る…なんて意図なら薄っぺらいし、納得できる前フリがない。

倒れたホフマンの躯を放置して登場人物が勢揃いし、「人は愛で大きくなり、涙で一層成長する」と合唱して幕が降りるが、ホフマンは死んでしまっているのだから成長もできないだろう。

とにかく話の筋が分からない。
ひょっとして愛と死と芸術に関する哲学的思索を試みているのだろうか。

どうせ、版はいくらもあり、まぜこぜありの世界だ。誰かスッキリする新演出で「ホフマン物語」を観せてくれないものか。

演出家は美術・照明も担当しているが、こちらの方面には豊かな才能があるのではないか。蛍光色を含む原色で彩られた舞台や衣裳(担当は別人だが演出家の指示を受けているだろう。)が面白く、舞台装置もセンスの良いもので、音楽も聴きどころは多く、筋さえきっちり納得させてくれたら面白いオペラなんだが。

♪2018-025/♪新国立劇場-03

2018年2月25日日曜日

名曲全集第134回 飯守による、珠玉のベートーベン&ワーグナー

2018-02-25 @ミューザ川崎シンフォニーホール


飯守泰次郎:指揮
東京交響楽団
津田裕也:ピアノ*

ベートーベン:歌劇「フィデリオ」序曲 作品72
ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73「皇帝」*
ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」から
      夜明けとジークフリートのラインへの旅
      ジークフリートの葬送行進曲
      ブリュンヒルデの自己犠牲

ミューザの名曲全集は東響の定期のようなものだけど主催がホールなので、不都合が生じた際に定期演奏会なら他日への席替えが可能だが、名曲全集ではそれができない。なので、16年度を最後に年会員になるのは止めて、日程の都合がよく聴きたい曲がある場合に一回券を買うようにしている。

今日の目的はもちろん飯守御大のワーグナーだ。
昨秋完結した新国立劇場での「指環」4部作を全作飯守泰次郎の指揮で聞くことができたのは幸運なことだった。
最後の「神々の黄昏」でピットに入ったのは読響だった。

その時の「葬送行進曲」など、ティンパニーのドン!ドン!が鳴る度に心が震えるような思いがした。

今日は、その興奮を追体験したいと思って臨んだ。


が、しかし、僕の耳がおかしかったのだろうか。
ピアノ協奏曲ではあまり感じなかったが、「神々の黄昏」では期待したほどの響に厚みがない。
一つにはオケの規模がやや小ぶりだった。80名そこそこしか並んでいなかったように思う。数えやすい今橋は7本、チェロも10本だったと思う。
この曲にはワーグナーが弦五部の人数を指定していて、合計が64人となっている。これに管・打・ハープなどを加えて総勢は100人を上回る超特大オケになるはずなのだけど、今日の東響はそこまで強力ではなかった。そのせいもあったかもしれな。

また、規模の問題ではなく、弦の高音部がシャリシャリとしてあまり美しくない。東響がいつもそうだというのではない。

1回券なので、いつも座っている1階後方ではなく、2階中段(2CB)の最前列(ここも文句のない良い場所だ。)を選んだ。むしろ1階席より響は柔らかい。なのにオケの響に満足できなかった。
おそらく、飯守泰次郎も納得の出来ではなかったように思う。

とはいえ、やはり音楽そのものは素晴らしいが。

♪2018-024/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-02

2018年2月22日木曜日

歌劇:ワーグナー「ローエングリン」

2018-02-22 @東京文化会館


台本・作曲:リヒャルト・ワーグナー
歌劇「ローエングリーン」全3幕 
日本語字幕付き原語(ドイツ語)上演

準・メルクル:指揮
深作健太:演出

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

装置:松井るみ
衣裳:前田文子
照明:喜多村 貴  
合唱指揮:増田宏昭
演出助手:太田麻衣子 
舞台監督:八木清市
公演監督:大野徹也
公演監督補:牧川修一

ハインリヒ・デア・フォーグラー⇒金子宏 
ローエングリン⇒小原啓楼
エルザ・フォン・ブラバント⇒木下美穂子
フリードリヒ・フォン・テルラムント⇒小森輝彦
オルトルート⇒清水華澄
王の伝令⇒加賀清孝 
4人のブラバントの貴族⇒菅野敦、櫻井淳、湯澤直幹、金子慧一


コンサート等で忙しくてナマのオペラを観る機会はあまり多くないけど、METのライブビューイング始めBSプレミアムなどで放送される(た)オペラは、よほど現代の、作曲家の名前も聞いたことがないような作品は別にして、大抵録画し、今では録画済みディスクも相当な枚数になっている。
それらは放送時点で観たり、暇を見つけて後日観たり、ナマオペラ鑑賞の前の予習のために観たりして結構鑑賞本数も多い。それにつけても思うのは、オペラの場合はその成否を決するのは一に「演出」にあるように思う。

11月末に日生劇場で観た「こうもり」と2ヵ月後に新国立劇場でみた「こうもり」は面白さという意味では全然レベルが違った。これは舞台美術や歌手の技術に差もあったろうが、何と言っても後者の演出が良かったからだ。

今回の「ローエングリーン」は、どんな物語になったか。
もうスタートから頭が混乱する。
原作台本には登場しないはずのルートヴィヒⅡが第1幕前奏曲からうろついており、同時に子供時代のルートヴィヒⅡも声は発しないが同じ時空に存在し、ルーロヴィヒⅡの方はそのうちローエングリーンに化身する。かと思うと若いローエングリーンも登場し、こちらはエルザの見た夢なのか象徴としての存在なのか、一言も発しない。
本来は、単純なメルヘンであるはずなのに、複雑怪奇な物語にしてしまって、もう訳が分からない。
今回の演出は深作健太だ。こういう他ジャンルから演出家を招くとつい力が入り、”独自色”を出したがって、本来のワーグナーが書いた歌劇からは遠ざかってしまう。本物のルートヴィヒⅡが夢中になった「ローエングリーン」とは似て非なるものになる。

このように大胆に翻案するのを「読み替え演出」というらしいが、やり過ぎは禁物だ。自己満足はできるが観客は置いてきぼりになってしまう。
「ローエングリーン」の過去の演出では2011年のバイロイト音楽祭の”ねずみの兵隊・貴族たち”という奇抜な演出が賛否を引き起こしたという。ちょうどそのをディスクで持っているが、これなど笑止千万だ。

それで、今回の深作演出にはまったく乗れなかった。なぜこの役がここで登場するのかなどの意味を考えていたらちっとも楽しめなかった。

しかし、舞台美術は良かった。かなりお金を掛けている感じだ。

また、声楽独唱陣も合唱団も、都響の演奏もすべてに満足できた。とくに主要独唱者などみんなよく通る声で声量がある。こんなに上手ならなにも外国から歌手を招かなくとも日本人だけでやれるのではないか、と思ったくらいだ。

♪2018-023/♪東京文化会館-02

2018年2月19日月曜日

人形浄瑠璃文楽平成30年2月公演 第3部「女殺油地獄」

2018-02-19 @国立劇場



近松門左衛門=作
女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)
 ●徳庵堤の段
  豊竹靖太夫⇒与兵衛
  豊竹希太夫⇒お吉(きち)/小菊
  竹本小住太夫⇒七左衛門/森右衛門/大尽蠟九
  豊竹亘太夫⇒小栗八弥/弥五郎
  竹本碩太夫⇒お清/花車 
 ●河内屋内の段
口 豊竹咲寿太夫
  竹沢團吾
奥 竹本津駒太夫
  鶴澤清友
 ●豊島屋油店の段(てしまやあぶらみせのだん)
  豊竹呂太夫
  鶴澤清介
 ●同 逮夜の段
  豊竹呂勢太夫
  竹澤宗助
  
 ◎人形
  吉田和生*⇒豊島屋女房お吉
  吉田簑之⇒豊島屋姉娘お清
  桐竹勘昇⇒茶屋の亭主
  吉田玉男⇒河内屋与兵衛
  吉田簑太郎⇒小栗八弥
  吉田玉輝⇒山本森右衛門
  吉田玉志⇒豊島屋七左衛門
  吉田玉也⇒河内屋徳兵衛
  吉田勘彌⇒徳兵衛女房お沢
  吉田幸助⇒河内屋太兵衛
  吉田簑助*⇒与兵衛の妹おかち
  吉田玉誉⇒綿屋小兵衛
          ほか(*は人間国宝)

2月公演の第3部は、一番楽しみの「女殺油地獄」だ。
僕が初めてこの作品を観たのは歌舞伎版で40年近く昔の事、国立劇場だった。多分、当時の片岡孝夫、現・15代仁左衛門の与兵衛だったように微かに記憶しているが、何にも記録していないので勘違いかもしれない。とにかく、その時に受けたインパクトは大きくて「豊島屋油店の場(段)」というタイトルはとっくに忘れていたがあの油まみれで舞台を滑りながらの刃傷沙汰は忘れられない。

その後、歌舞伎でも見る機会がなかったが、ようやく文楽の形で再見が叶うことになったが、一体、人形であの殺しの場面をどう表現するのかというところが興味深い。

久しぶりに(と言っても文楽としては初見だが)この演目を観ると4つの段はそれぞれによくできている。面白い。それは、3段目に大きな山場があることが分かっているから、今の出来事、人間関係がどう絡み合って愁嘆場を迎えることになるのかという関心が人形や語りに集中させてくれるからだろう。
そして、主役の与兵衛のキャラクターがいい。番頭上がりで主人亡き後婿養子に入った継父の河内屋徳兵衛が元の主人の実子である与兵衛には厳しく処すことができず、いわば甘やかし放題の結果、放蕩息子になってしまっているのだが、近松のほかの世話物(例:心中物)などでも登場する男たちはだらしのない情けない男ばかりだが、彼らにはどこか憎めないところがある。しかし、この「女殺油地獄」の河内屋与兵衛はもう徹底的な悪党で寸毫も同情の余地はない。さりとて大きなことができるほどの器量もないただの出来損ないの小悪党だ。継父や実母や豊島屋の女房お吉などの思いやりはまるで素通りして親も打擲するわ、最後に借金返済のために人殺しをして平然としている。
このようなキャラクター設定が、他の近松作品や文楽作品にも登場するのかどうか浅学のため知らないが、おそらくユニークな人物だろう。そう言えば、歌舞伎「霊験亀山鉾」(鶴屋南北作)の藤田水右衛門が近いか。でもこちらは侍だ。与兵衛は本来なら義理や人情で思いやりを交わしながら暮らしを営む市井の人物なのだからやはり、とんだ精神的畸形といえる。

この性悪が悪さの限りを尽くすことで、観ている観客も一切何らの同情心も湧かず、突き放してみることができるところがある意味痛快でもある。

さて、件(くだん)の「豊島屋油店の段」での殺人だが、豊島屋の亭主の留守に女房お吉に金の無心。断られて持参していた脇差しをお吉に突き立て、斬り掛かり、断末魔のお吉が苦し紛れに店の油を与兵衛に投げつける。床は油とお吉の血だらけとなる…が、もちろん文楽の舞台は想像するだけだが。その床で与兵衛もツツーっと滑り、逃げるお吉もツツーっと滑り、なかなか身体が互いに思うに任せず。やがては動かなくなったお吉を「『南無阿弥陀仏』と引き寄せて右手(めて)より左手(ゆんで)の太腹へ、刺いては刳り抜いては切…息絶えたり」。
戸棚から金を盗んでその逃走中、脇差しを栴檀木橋から川へ捨てた…と太夫の語り。

まったくの余談だけど、かつての大阪勤務時代にこの粋な名前の橋は何度も渡った。北浜から中之島の図書館へ行くには土佐堀川に架かるこの橋を渡らなくてはならない。江戸時代初期に架けられた当時は橋の袂に栴檀の大木があったことから名づけられたそうだ。当然その頃は木橋だ。景勝地区にあって、橋もきれいだった。今ではもっと整備されて中之島公園と一体になっているのだろう。

今から400年ほど前の5月端午の節句の夜、河内屋与兵衛は血糊がべっとり付いた脇差しをこの橋から土佐堀川に捨てたのだ…と思うと、ロマンチックでなくなるな。
なお、実際にこのような事件があったらしい…とされている。

観応え、聴き応え十分な作品であった。

♪2018-022/♪国立劇場-04

人形浄瑠璃文楽平成30年2月公演 第2部「花競四季寿」、「八代目竹本綱太夫五十回忌追善/豊竹咲甫太夫改め六代目竹本織太夫襲名披露 口上」、「追善・襲名披露狂言 摂州合邦辻」

2018-02-19 @国立劇場


●花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)
 〜万才・鷺娘
  豊竹睦太夫
  竹本津國太夫
  竹本小住太夫
  竹本碩太夫
  野澤喜一朗
  鶴澤清丈
  鶴澤寛太郎
  鶴澤清公
  鶴澤燕二郎
 ◎人形
  吉田玉勢⇒太夫
  桐竹紋臣⇒才蔵
  吉田文昇⇒鷺娘 

●八代目竹本綱太夫五十回忌追善/豊竹咲甫太夫改め六代目竹本織太夫襲名披露 口上
 豊竹咲太夫
 竹本織太夫

●追善・襲名披露狂言
 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)
 〜合邦住家の段
中 竹本南都太夫
  鶴澤清馗
切 豊竹咲太夫*
  鶴澤清治**
後 竹本織太夫
  鶴澤燕三
 ◎人形
  吉田和生⇒合邦道心**
  桐竹勘壽⇒合邦女房
  桐竹勘十郎⇒玉手御前
  吉田玉佳⇒奴入平
  吉田簑二郎⇒浅香姫
  吉田一輔⇒高安俊徳丸
          ほか(**は人間国宝。*は切場語り)

今月の国立劇場文楽公演は全3部制で、そのうち第2部が八代目竹本綱太夫五十回忌追善/豊竹咲甫太夫改め六代目竹本織太夫襲名披露 口上を含む記念の公演で、綱太夫追善と新・竹本織太夫の襲名披露の演目は「摂州合邦辻」〜合邦住家の段だ。
これだけだと短いし、祝いごとなので、「花競四季寿」から春と冬の場が演じられた。

「摂州合邦辻」は歌舞伎では観たことがある。お家騒動を軸に、義理の関係とはいえ母(玉手御前)が息子(俊徳丸)に恋をするというとんでもない設定だ。それも、義理の息子に毒を飲ませて面体を醜く崩し、彼の許嫁には結婚を思いとどまらせようとする。この女難を避けて出奔した俊徳丸を玉手御前はさらに追いかけて私と一緒になろうと詰め寄る。とはなんという無茶苦茶な話か、と思いきや、ちゃんと筋が通るようにできてはいるものの、そんなバカな、という類の話だ。

見方によっては、これも一つの愛の形なのかもしれないが、なかなか共感はしにくい。


さて、この演目は織太夫夫の襲名披露ということもあってか、強力な、あるいは身内のスタッフが揃った。
中で三味線を弾いた鶴澤清馗は織太夫の弟だ。
切場を担当したのは目下、唯一の切り場語りで太夫最高格の咲太夫が語った。その三味線を弾いたのは人間国宝であり織太夫の伯父に当たる鶴澤清治だ。
また、人形では合邦を人間国宝・吉田和生が遣った。
つまり太夫・三味線・人形の各分野の最高格が部分的にせよ勤めたのだ。贅沢なものであった。

咲甫太夫の頃からよく通る声と豊かな感情表現が見事で、大いに楽しみな新・織太夫だが、この出し物は元々八代目綱太夫の得意狂言だったようで、それで追善の演目として選ばれたらしいが、織太夫の面目躍如とまではゆかなかったような気がした。もっと、派手な語りこそ彼にはよく似合うのではないか。
しかし、今後も非常に楽しみな太夫の一人であることには違いない。初めて咲甫太夫を聴いたのは「仮名手本忠臣蔵」の九段目、出床で妹・お軽と兄・平右衛門の凄惨な絡みの場の迫力に圧倒されたものだ。また、ああいうすごい義太夫を是非とも聴いてみたい。

♪2018-021/♪国立劇場-03

2018年2月17日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会みなとみらいシリーズ第337回

2018-02-17 @みなとみらいホール


小泉和裕(特別客演指揮者)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
小山実稚恵:ピアノ*

ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調 作品16*
ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68

1曲めの「オベロン序曲」、ナマで聴くのは初めてだった。最初はぼんやりと始まるが、2分ほどして耳に馴染んだ旋律が強奏に続いて始まる。そのTuttiがとてもきれいで、ハッとさせられた。

グリーグのピアノ協奏曲も、ティンパニーのロールが1小節続いた後に全楽器の強奏とともにピアノのソロが始まるが、そのTuttiがピタリと揃って実に心地よい。
ブラームスにおいても然り。今日の小泉・神奈フィルコンビは両者の呼吸がよく合っていて最後まで乱れなかった。
こういう時は響も良くて、時にスカスカのアンサンブルに失望することもあるが、今日はしっかりと中身が詰まっている。
弦の高域もキンキンせず管・弦・打が豊かな響を聴かせてくれた。
久しぶりに聴く小山実稚恵の流麗で安定感のあるピアノもさすがのものだ。
グリーグは名曲だなと改めて思う。
しかしそれ以上にブラ1の素晴らしいこと。

演奏も良かったので、名曲たちがますます輝きを放ったように思う。

♪2018-020/♪みなとみらいホール-07

2018年2月16日金曜日

2月中席

2018-02-16@国立演芸場


落語 金原亭馬久⇒子ほめ
落語 金原亭馬玉⇒ざるや
落語 蝶花楼馬楽⇒長屋の花見
漫才   金原亭世之介/古今亭菊春
落語 林家正雀⇒四段目
落語 金原亭馬生⇒子別れ(上・強飯の女郎買)   
獅子舞 金原亭世之介/古今亭菊春
  ―  仲入り  ―
大喜利 鹿芝居
「世渡親子柵 ―人情噺子は鎹―」脚本=竹の家すゞめ
(よをわたるおやこのしがらみ―にんじょうばなしこはかすがい―)
  大工熊五郎⇒金原亭馬生
  女房お光⇒林家正雀
  倅亀吉⇒金原亭馬玉
  女房お花⇒古今亭菊春
  番頭伊之助⇒金原亭世之介  
  紙屑屋長吉⇒金原亭馬治
  かっぽれ屋久八⇒金原亭馬久  
  大家清兵衛⇒蝶花楼馬楽

国立演芸場二月の中席は毎年仲入り後に「鹿芝居」(語源:噺家の芝居⇒ハナシカ・シバイ⇒鹿芝居)を演るのが恒例で、今年で17年目だそうな。これがなかなか傑作で、今日は超満員だった。みんな鹿芝居が目当てだ。

仲入り前には落語や漫才、奇術、獅子舞もあるが、これがすべてその道の専門家ではなく落語家が演るのだけど、なかなかの腕前だ。2頭の獅子舞はひとしきり舞台で転げ回った後に客席に降りてきてお客さんの病気平癒・無病息災を祈って噛み付いてくれる。僕も身体の悪いところはどこかと問われて頭だと答えたので頭を噛んでくれたがこれで少しは頭が良くなるかも。


「鹿芝居」、昨年は落語の「らくだ」を基にしたものだったが、今年は「子別れ」の上中下のうちの中下を芝居にしたもので、上(強飯の女郎買)は馬生が芝居の前にあたりまえに落語として演じ、芝居ではそれに続く「中下」が演じられた。
この芝居を脚色したのが林家正雀だ(「竹の家すゞめ」は正雀のペンネーム。)。

噺家たちであるからあまり芝居がうまい訳ではないが、余技にしては堂にいっている。その中途半端さがおかしい。人情噺が観客の気持ちをホンワカさせて良い塩梅だった。
最近、NHKTVが「超入門 落語THE MOVIE」という番組を放送しているが、鹿芝居は、まさしく「超入門 落語THE 芝居」である。

♪2018-019/♪国立演芸場-02

2018年2月14日水曜日

人形浄瑠璃文楽平成30年2月公演 第1部「心中宵庚申」

2018-02-14 @国立劇場


近松門左衛門=作
心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)

 上田村の段
  竹本文字久太夫
  鶴澤藤蔵
  ◎人形
  豊松清十郎⇒姉おかる
  桐竹勘十郎⇒女房お千代
  吉田玉也⇒島田平右衛門
  吉田玉男⇒八百屋半兵衛 ほか
 
八百屋の段
  竹本千歳太夫
  豊澤富助
  ◎人形
  吉田分司⇒伊右衛門女房
  吉田玉男⇒八百屋半兵衛
  吉田簑一郎⇒八百屋伊右衛門
  桐竹勘十郎⇒女房お千代 ほか
 
 道行思ひの短夜(みじかよ)
  竹本三輪太夫⇒お千代
  豊竹芳穂太夫⇒半兵衛
  豊竹希太夫
  竹本文字栄太夫
  竹澤團七
  鶴澤清志郎
  鶴澤友之助
  鶴澤錦吾
  鶴澤清允
  ◎人形
  吉田玉翔⇒庚申参り
  吉田簑太郎⇒庚申参り
  吉田玉男⇒八百屋半兵衛
  桐竹勘十郎⇒女房お千代

近松の心中物と言えば、大抵は女は遊女、男は手代とか婿養子といういずれも弱い立場の組み合わせが多いようだが、「心中宵庚申」は好きあって連れ添い腹に子を宿した女房とその亭主の心中だ。
そこで思い出したのは、先日新国立劇場で観た「近松心中物語」(秋元松代作)だ。「冥途の飛脚」を軸に「卯月の紅葉」とその続編「卯月の潤色(うづきのいろあげ)」を合わせて作劇してあるが「卯月〜」こそ夫婦の心中ものだった。尤も「〜紅葉」では男は死に損ない、「〜潤色」で後追い自殺するのだから厳密には心中とはいえない。ついでに「冥途の飛脚」も「近松心中物語」では2人で心中するが、原作の方は追手から逃げてゆくところで終わっているのでこれも心中物ではない。
すると、厳密な夫婦心中物はひょっとして「心中宵庚申」だけかもしれないな。


お千代は上田村の裕福な百姓の娘だが、二度嫁いで二度とも離縁されていた。一度は婚家の破産、一度は死別なので彼女には何の落ち度もなかった。そして三度めに嫁いだ大阪の八百屋半兵衛とは互いに仲睦まじく暮らしお腹には二人の子を宿していた。ところが、姑は何が不満かお千代に辛く当たり、半兵衛が旅に出ている間に離縁してしまう。所謂「姑去り」だ。
実家に戻った日に訳を知らない半兵衛が旅の帰りにその実家を訪ねてことの仔細を知り、大阪に連れ帰ったが、義母の手前、家に入れることはできず従兄弟の家に隠し、時々の逢瀬を楽しんでいた。しかし、それも義母の知るところとなり、半兵衛はお千代との離縁を強く求められる。
義母への恩もあり、義理と愛情との板挟みで苦しんだ挙句、お千代を正式に離縁した。その夜は宵庚申だった。半兵衛とお千代は今度こそ一生連れ添おうと、庚申参りの賑わいに紛れて生玉神社へゆき夜明けを待って心中をした。

なんとも哀れなお千代だ。
半兵衛も元は武士であるのに、何という気の弱さ。

この話では、姑がなぜお千代を嫌うのかが説明されていないので心中せざるを得ない理由が不可解なのだが、多分、近松にとってそんなことはどうでも良かったのだろう。嫁と姑の軋轢は多くの場合些細なことから生じていてそこを論ずるにあまり意味はない。むしろ、それがフツーにある、ということを前提にして行き場を失った夫婦の悲劇を見せようとしたのではないか。

義太夫、三味線、人形遣いの巧拙はよく分からないが、この三者の織りなす世界は不思議な魅力に満ちている。
例えば、お千代の哀しさは、人間が演ずるより人形の方が心に染み入るようだ。お千代の役だけではなく、人形が演ずる(遣っているのは人間だが)ことで、観ている方の感情の振幅が素直に増大されるような気がする。もちろん、語りと三味線が息を合わせているからこそだが。

今回の公演は3部あり、今日はまず第1部を観た。次は第2部が今回の要の公演で八代目竹本綱太夫の五十回忌追善と豊竹咲甫大夫改め六代目竹本織太夫襲名披露公演「摂州合邦辻」、第3部が「女殺油地獄」でいずれも楽しみだ。

♪2018-018/♪国立劇場-02

2018年2月12日月曜日

読響第101回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2018-02-12 @みなとみらいホール


ユーリ・テミルカーノフ:指揮
読売日本交響楽団
ニコライ・ルガンスキー:ピアノ*

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23*
ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調 作品27
----アンコール----
ラフマニノフ:前奏曲作品32-12*

チャイコ第1番は昨夏にN響+フェドセーエフ+ボリス・ベレゾフスキーというコンビで豪快な演奏を楽しんだが、今日もとても良かった。
独奏ピアノのルガンスキーは生では初めてだが、ラフマニノフの前奏曲集などのCDを持っていいて時々これを聴いているので、親しみを感じながら聴いたが、94年のチャイコフスキーコンクール最高位入賞だそうで、当然にバリバリと聴かせてくれた。

冒頭のホルンの四重奏の豊かな響にまずは気持ちを惹かれた。ピアノが何重音か知らないけど、4分音符で力強く入ってくるとその最低音をコンバストビオラがユニゾンで補強するその響がこれまた素晴らしい。始めよければ終わりよし、すっかり術中に嵌った感じで最後まで楽しむことができた。

ラフマニノフの「交響曲第2番」は3曲ある交響曲の中では一番聴く機会が多い。そして1番はCDでは聴くことがあるが、ナマでは聴いたことがない。何と言っても2番が一番聴きやすいと思う。とりわけ、第3楽章のAdagioは叙情的メランコリックでいかにもラフマニノフといった感じの美しい音楽だ。第1、第2楽章なんか、この第3楽章を聴かせるための手続きとして存在しているようなものだ。
ただし、長い。

今日の演奏は予定時間が60分。実際には3分ほど短かったのではないかと思うが、それにしても長い。
それでかつては短縮版というのが作られていたそうだが、我が家の手持ちCD2枚はユージン・オーマンディ版がその短縮版で49分、ポール・パレー版が46分なので何らの説明もないがこれも短縮版なのだろう。第1楽章の提示部の繰返しを省略する演奏もあるようだが、それだけで10分以上短くなるとは思えない。

長い音楽だけど、今日の読響のアンサンブルはチャイコに引き続き上出来だった。弦の高音部で時にキンキンする(ピッチのズレではないか。)事があるが、今日はそういう場面が全然なくて、心地よい”管弦楽”の面白さを味わった。

ユーリ・テミルカーノフという指揮者は2015年から読響の名誉指揮者だそうだが、就任時に振って以来2年5ヶ月ぶりに読響の指揮台に立ったそうだ。そう言えば、記録を見ると2015年5月にリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」やラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲ニ長調」などを聴いている。指揮ぶりはごく地味で華やかさは微塵もなく淡々と職人仕事をしているという感じだ。「シェエラザード」で独奏バイオリンを担当したのが、読響の特別客演コンマスの日下紗矢子で今日も彼女がコンマスを努めた。彼女はなかなか好感が持てる。いかにもコンマスといった弾きぶりが見ていても感じがいい。

♪2018-017/♪みなとみらいホール-06

2018年2月10日土曜日

N響第1879回 定期公演 Aプログラム

2018-02-10 @みなとみらいホール


パーヴォ・ヤルヴィ:指揮
NHK交響楽団

マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

パーヴォ指揮マーラーの7番。コンサートでマーラーの交響曲が演奏される事は多いが7番は少ないという事もあって中々馴染めない。
ちなみに、過去にコンサートで聴いたマーラーの交響曲の番号別回数は、2013年以前はきちんとした記録を残していなかったのでやや不正確だが、おおむね
1番⇒10回
2番⇒  4回
3番⇒  2回
4番⇒  2回
5番⇒  3回
6番⇒  4回
7番⇒  1回
8番⇒  2回
9番⇒  2回
ということで、全30回のうち1/3は1番だ。
2番、6番がその次で5番が3位。
やはり、7番は回数が少ない。今日で、2回めということになるが、13年以前にも聴いていないと思う。

80分の長尺で全篇鳴りっぱなし。なので、退屈することもないし眠ることもできない。さりとて面白いかと言えば、冗長に過ぎる気がしてならぬ。構成感に乏しく、聴く側として気持ちの持ち方が難しい。

N響の演奏は、たいていパーヴォの指揮のときはリハーサルが念入りなのか、メリハリの付いた音楽の輪郭が明らかなで聴きやすいとは言える。でも、感動するにはだいぶ遠いな。聴き馴染んだら面白いと思うようになるだろうか。

ところで、チェロの首席が日フィル辻本氏にソックリ!まさかと思ったが、どうもそのようだ。エキストラというのではなくて、この場合は客演ということなのだろうな。
N響にかぎらず、時々、他のオケメンバーが混じっていることがある。以前、N響に神奈川フィルのメンバーが加わっていて驚いたことがある。ま、いい音楽を聴かせてくれたらこだわる必要もないけど。

♪2018-016/♪NHKホール-02

2018年2月6日火曜日

劇団四季ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」

2018-02-06 @カルッツかわさき


ジーザス・クライスト⇒清水大星
イスカリオテのユダ⇒佐久間仁
マグダラのマリア⇒山本紗衣
カヤパ(大司教)⇒高井治
アンナス(カヤパの義父)⇒吉賀陶馬ワイス
シモン(使徒)⇒大森瑞樹
ペテロ(使徒)⇒五十嵐春
ピラト(ローマの総督)⇒山田充人
ヘロデ王⇒北澤裕輔
司祭1⇒佐藤圭一
司祭2⇒賀山祐介
司祭3⇒高舛裕一


ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」[エルサレム・バージョン]

まずは、昨年10月にオープンした「カルッツかわさき」について。
今日が初めてだった。体育館と劇場との混合施設だ。これは以前から、同じ場所にそういう施設があり、それが老朽化したので建て替えた際に両者一体のものとして建設したらしい。
劇場の方は定員が2,013席というから、サントリーホールや同じ川崎のミューザより少し多くみなとみらいホールより少し少ない。
ただ、川崎市内にある劇場では初めてオーケストラピットを備えて、オペラやバレエ公演も可能となっている。
しかし、全体の作りはまるで体育館である。ちっとも劇場らしくなく、全体に安普請で飾り気もない。とても劇場に来た!という高揚感は味わえない。


と、長い余談になった。本題は余り書くべきこともないから。

ジーザス・クライスト・スーパースター(JCS)を初めて観たのは昭和52年の8月だから40年と半年前か。それもロンドンのパレス・シアターだった。帰国後サウンドトラックのLPを聴いたり、劇団四季の翻訳版を観に行ったりしているうちにすっかりハマってしまった。熱心なファンは何十回もリピートしているようだが、僕はせいぜい十数回。それでも同じ舞台をこれだけ観ているのは他に例がない。尤も、四季の初演がいつだったか知らないが、少なくとも40年以上の長期間に渡って繰り返し再演を続けている舞台は珍しい。

音楽がいい。A・L・ウェバーの音楽はもうすっかり頭に入っている。
物語からはもうなんの衝撃も受けないが、今日もただ音楽を聴いていたようなものだった。

劇団四季のレベルも上がってきたように思うが、当初からの不満は今も変わらない。歌唱についてはきれいに歌いすぎだ。もっと野性味がほしい。何より問題なのは、ロック・オペラなのに、役者たちがちっとも”ロック”していないことだ。冒頭のモブシーンで特に見ていても恥ずかしくなるくらいだが、殆どが棒立ちに等しい。
突っ立ってないでビートに身体の動きを合わせてくれ。抑えきれない感情の迸りを全身で表現してくれ。盆踊りじゃないんだ。

♪2018-015/♪カルッツかわさき-01

2018年2月1日木曜日

シスカンパニー公演「近松心中物語」

2018-02-01 @新国立劇場


秋元松代:作
いのうえひでのり:演出

堤真一⇒亀屋忠兵衛
宮沢りえ⇒遊女梅川
池田成志⇒傘屋与兵衛
小池栄子⇒傘屋お亀
市川猿弥⇒丹波屋八右衛門
立石涼子⇒亀屋後家妙閑
小野武彦⇒土屋平三郎
銀粉蝶⇒傘屋お今

近松心中物語

近松の「冥途の飛脚」を中心に他の近松作品からも登場人物などを借用して改作したものらしい。
「冥途の飛脚」は近松の没後半世紀を経て他人の手によって「傾城恋飛脚」(その歌舞伎版「恋飛脚大和往来」もあり。)としても上演されてこんにちに至る。
「傾城恋飛脚」は「冥途の飛脚」が話の組立てが単純で、心中一直線であるために、これをもっと膨らませたもので、今回の「近松心中物語」も同趣旨に出たものだろう。

ただ、「冥途の飛脚」も「傾城恋飛脚」(新口村の段)も文楽で観ていて、多少筋書きは頭に入っていたが、この2本でさえごっちゃになるのに今回の大いに膨らませた筋で、ますますこんがらがってしまった。

が、新作と思えば(いや、事実新作なのだけど)なかなか面白かった。やはり、梅川(宮沢りえ)と忠兵衛(堤真一)だけだと、話に起伏が不足する。与兵衛(池田成志)とその女房お亀(小池栄子)の妙な夫婦が梅川・忠兵衛の本筋に並行して、時に絡んで描かれることで、物語の振幅が大きくなった。

終盤は2組の若い男女のいずれもが死の道行き。
4人共知恵が足らない。バカな生き方。とりわけ、2人の男が情けない。そのつまらない男に縋って自らも命を縮める女2人がバカとはいえ哀れ。しかし、ギリギリまで追い詰められ、この道しか無いと選んだ死の道行きは壮絶で美しいとも言える。愛の極致とも思える…からこそ、死を選んだ自分を納得させるのだろうな。

宮沢りえは前に野田マップ「キャラクター」を観て、不思議な存在感を感じたが、今回も同様。梅川の役はハマっていた。原作では梅川・忠兵衛は生きて捕縛されるが、この作品では心中する(だから「近松心中物語」?)。雪が降りしきる真っ白な舞台で着物の帯を解き真っ赤な長襦袢姿の梅川が忠兵衛に真っ赤な腰紐で首を絞められて絶命するシーンは絵としても美しい。この儚げな薄幸の遊女が宮沢りえにはよく似合う。

一方、喜劇部分を担うのが、与兵衛とお亀だが、この2人は死に様まで滑稽だ。特に小池栄子がいい。演技力がどうこうは分からないが、馬力がある。求心力がある。お亀は梅川とは好対照の人物像だが、役者としても宮沢りえに引けを取らない良いバランスをキープしていたように思う。

♪2018-014/♪新国立劇場-02

二月大歌舞伎 昼の部

2018-02-01 @歌舞伎座


一、春駒祝高麗(はるこまいわいのこうらい)
工藤祐経⇒梅玉
曽我五郎⇒芝翫
大磯の虎⇒梅枝
喜瀬川亀鶴⇒梅丸
化粧坂少将⇒米吉
曽我十郎⇒錦之助
小林朝比奈⇒又五郎
     
二、一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)
檜垣/奥殿
一條大蔵長成⇒染五郎改め幸四郎
常盤御前⇒時蔵
お京⇒孝太郎
吉岡鬼次郎⇒松緑
茶亭与市⇒橘三郎
女小姓⇒宗之助
八剣勘解由⇒歌六
鳴瀬⇒秀太郎
     
三、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
鎌倉権五郎⇒海老蔵
鹿島入道震斎⇒鴈治郎
那須九郎妹照葉⇒孝太郎
成田五郎⇒右團次
小金丸行綱⇒彦三郎
加茂三郎⇒坂東亀蔵
桂の前⇒尾上右近
大江正広⇒廣松
埴生五郎⇒弘太郎
荏原八郎⇒九團次
足柄左衛門⇒男女蔵
東金太郎⇒市蔵
局常盤木⇒齊入
宝木蔵人⇒家橘
加茂次郎⇒友右衛門
清原武衡⇒左團次
     
北條秀司作・演出
四、井伊大老(いいたいろう)
井伊大老⇒吉右衛門
お静の方⇒雀右衛門
昌子の方⇒高麗蔵
宇津木六之丞⇒吉之丞
老女雲の井⇒歌女之丞
仙英禅師⇒歌六
長野主膳⇒梅玉

高麗屋3代同時襲名披露公演の第2弾、と言っても3人が揃うのは夜の部で、これは3等席以下の切符が取れない。2等席といっても1万5千円だ。これなら日生劇場のS席に回したい。
昼は新・幸四郎が一条大蔵卿に出ただけで新・白鸚も新・染五郎も夜の部だけだ。それに夜の部には高麗屋の3人以外に菊五郎、仁左衛門、玉三郎、猿之助、藤十郎などのスターが登場するので、昼のぶとは比べ物にならない豪華さだ。
昼夜の配役の偏りは大いに不満。
それで料金は同じなんだものなあ。
結局、昼の部だけではなく夜の部も観せようという商魂か。
いや、それだけではなく「仮名手本〜七段目」ではお軽勘平を偶数日と奇数日で、玉三郎+仁左衛門と菊之助+海老蔵というダブルキャストにして、よければ二度とも観てくださいという魂胆であるのが腹立たしい。


その高麗屋の貴重な出番「一條大蔵譚」では新・幸四郎の阿呆ぶりはもっとハジけたかった。この芝居は何回か観ているが、誰が演っても無理があって、面白いと感じたことはない。大義のために阿呆なふりをしているが、ここ一番では正気に戻ってかっこよく見せ問題が片付くとまた阿呆に戻るのだが(もう、戻る必要はないのではないか、という気がしてならないのだけど。)、こういう変化はなんかお客を喜ばせるにはとても安易でどうも気分が乗れない。
ま、ここぞというところで、一條大蔵卿が孔雀の羽を広げるように豪華な衣裳を見せて見得を切るというところが、歌舞伎の華々しいところで、これはこれでいいのだろうけど。

「暫」は前に七之助の「女暫」を観たが、本家?は今日が始めて。海老蔵がさすがの貫禄。長い刀を振り回して大勢の首を跳ねるところは「女暫」で経験していたが、面白い。
「井伊大老」はえらく地味な科白劇だが、2幕途中から登場する吉右衞門と雀右衛門のシットリ芸がいい。

♪2018-013/♪歌舞伎座-01