2014年11月6日木曜日

11月歌舞伎公演「通し狂言 伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」

2014-11-06 @国立劇場大劇場


通し狂言「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)

序 幕 花水橋の場   
二幕目 足利家竹の間の場
三幕目 足利家   奥殿の場
     同    床下の場
大 詰 問註所   対決の場
    詰所      刃傷の場


坂 田 藤十郎…乳人政岡(御殿)
中 村 翫 雀…八汐<仁木弾正の妹>
中 村 扇 雀…乳人政岡(竹の間)
中 村 橋之助…仁木弾正
片 岡 孝太郎…沖の井<田村右京の妻>
中 村 松 江…絹川谷蔵<相撲取り。仁木派に襲われる頼兼を助ける>
中 村 亀 鶴…松島<渡辺主水妻>
坂 東 新 悟…侍女澄の江
中 村 国 生…渡辺民部
中 村 虎之介…山中鹿之介
市 村 橘太郎…鳶の嘉藤太
片 岡 松之助…
片 岡 亀 蔵…大江鬼貫
片 岡 市 蔵…山名宗全
坂 東 秀 調…小槙<大場道益妻>
坂 東 彌十郎…荒獅子男之助、渡辺外記左衛門
中 村 東 蔵…栄御前<梶原平三景時の妻>
中 村 梅 玉…足利左金吾(上杉)頼兼<放蕩殿様>、細川勝元        

ほか



「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は、所謂伊達騒動を題材にしたもので、その元の話はあまりにも有名だ。子供の頃、多分東映?の映画を観た記憶がある。その後も、何度か、映画だったかテレビでの舞台録画だったかはっきりしないが観ている。
山本周五郎の「樅ノ木は残った」(大好き!)も伊達騒動を題材にしているが「伽羅先代萩」とは原田甲斐の立場が真逆だ。

今回は、歌舞伎としては初めての演目でもあり、幕間に筋書き読んでにわか勉強しなくともいいように、そこそこの予習は済ませて臨んだ。

伊達騒動ものの歌舞伎はどれが初出か、定説がないようだ。
誰かが書いたものを後の戯作者があれこれ書き替えている。
歌舞伎の中で書替えが多いベスト3は多い順に「曽我」、「忠臣蔵」とこの「伊達騒動」らしい。
その書替えの一つに「四谷怪談」に発展する物語もあるというからえらい飛躍だ。

現在の「伽羅先代萩」の形に整理されたのは1882年(明治15年)に市村座で「着三升伊達裲襠(きてみますだてのうちかけ)」で、九代目市川團十郎が足利頼兼、政岡、仁木弾正の三役を演じたのが始まりらしい。
この作品とて、先行する奈河亀輔作:歌舞伎「伽羅先代萩」(1776年)や桜田治助作:歌舞伎「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」を元に書かれた松貫四ら作:人形浄瑠璃「伽羅先代萩」を再度歌舞伎にまとめあげたものだそうだ(国立劇場プログラム解説抜粋)。

要するに、時間をかけて本来出自の異なる話を寄せ集め、無理に(と言っては言い過ぎかもしれないけど)筋を通そうとしたものだ。

「着三升伊達裲襠」の「きてみます」は1人で3つの裲襠を「着てみます」の言葉遊びではないかと思う(解説は言及していない)が、当否は別として、少なくとも九代目團十郎が1人で3役を演じたということは、重要な役の3人が舞台上絡む場面がまったくないということを表している。

国立劇場2F
ここからも分かるように、幕ごとに物語はほぼ独立・完結している。かくして、全体の物語は継ぎ接ぎであって、構成感は残念ながら大いに欠ける。

「除幕花水橋の場」で登場する頼兼(梅玉)と力士絹川(松江)はそれっきり出る幕はない(梅玉は細川勝元という重要な役で最後を飾る。)。

「竹の間」と「奥殿」の重要な役である政岡(扇雀と藤十郎)や八汐(翫雀)、沖の井(孝太郎)、栄御前(東蔵)もその後は登場しない。

「床下」で荒事を見せる男之助(彌十郎)もこの場だけ(彌十郎は大詰で渡辺外記左衛門:がいきざえもんとして大活躍)。

国立劇場が「伽羅先代萩」を上演するのはこれで3回めだが通し狂言としては初めて、だそうな。
通しで見ると、やはり、この物語としての収まりの悪さが如実になってしまう。
例えば、最後に悪党を退治し、めでたいめでたいの場面に、政岡が駆けつけるといった芝居が付加されたら、もう少し話としてまとまりが良いだろう。

…と、思うのだけど、これらを分かった上で役者の芸を楽しむのが歌舞伎の正しい鑑賞態度だろう。
本作にかぎらず、これまでに観た通し狂言でも各幕各場のつながりの怪しい演目はいくつか経験しているし、一幕一場の上演形態が成り立っているのも、歌舞伎が物語というより役者の芸を中心に味わう演劇ジャンルだということを表していると思う。



「花水橋」でのめっぽう強い絹川や「床下」での男之助は、品の良い所作の中に勇ましい立ち回りを見せる。
「床下」は典型的な江戸荒事の場として完成されているそうだ。ここをよく味わねばならぬということだ。

「床下」で初めて登場し(花道のすっぽんから)、妖術で男之助を翻弄する仁木弾正(にっきだんじょう:橋之助)はセリフが無かったと思う。所作だけで怪しげな「悪」を見せるのだが、果たしてどうだったろう。どうも、橋之助に好感を持っているので、そんな悪党には見えないのが困ったものだ。
花道を引き上げてゆく際に宙に浮いているように見せるのがこの役の「芸」だそうだが、確かに、ゆったりした足取りではあった。

この仁木の本格的な場面は大詰めの「対決の場」と「刃傷の場」だ。対するは外記左衛門(彌十郎)と細川勝元(梅玉)。
この大詰めでは勝元が颯爽としてかっこいい役柄なので、勝元が主役ではないかとさえ思える。
仁木弾正、外記左衛門共々、丁々発止のやりとりと立ち回りや傷を負いながらの舞など大詰めらしい盛り上がりがある。

「床下」から終幕まで、男性しか出てこないのは、「竹の間」、「奥殿」が子役と間者以外は女性(女形)ばかりなのと好対象になっている。


歌舞伎の演技の系統に「荒事」、「和事」があるとは承知していたけど、もう一つ「実事(じつごと)」があると、今回勉強した。
この分類に従えば、
「花水橋・床下」は「荒事」。
「対決・刃傷」は「実事」
ということになるのだろう。
そこで「竹の間・奥殿」が「和事」ならば、この芝居は芸のデパートみたいだが、そうではなさそうだ。辞書によると「和事」は「濡れ事を中心として展開される柔弱な男性の行動を表すもの。」とある。


さて、この歌舞伎全幕中最高にして最大の見せ場は、「奥殿」に違いない。
伊達家の幼い跡継ぎ鶴千代に代わって毒入りのお菓子を食べて虫の息の千松を、仁木の妹八汐は悪事発覚を恐れて刺し殺す。
鶴千代の乳人(めのと)政岡はその千松の実母である。
目の前で我が子がなぶり殺しにされるのを顔色変えず耐え鶴千代を守る。
あれこれあって、人が去り、千松の亡骸と自分だけになった屋敷の奥殿で政岡がはじめて千松にとりすがり「でかしゃった」と褒めながらも悲痛な思いを露わにする。この場面は浄瑠璃が入リ、いやが上にも情感を高ぶらせてくれる。
この場の竹本(浄瑠璃)の芸は「クドキ」というそうだ。

こんなことが本当にあるだろうか、という話だけど、この話がなければ「伽羅先代萩」は今日まで残らなかった。
幼い子の忠義、非情な悲しみをひた隠しにしながらお家の安泰を守る健気さ、どっと溢れる母の思い。

今回で12回めという当たり役の藤十郎が「初めて勤めるという気持ちで臨む」迫真の芸は、初めて観る者にもその無念、苦しさが伝わり胸を打つ。


正直に言えば、彼の人が達した芸の境地など本当に分かるはずもなく、ただ、芝居として観ていただけなのだろうから、申し訳ない気もするが、学習途上ということで勘弁してもらおう。

国立劇場の「プログラム」や歌舞伎座の「筋書き」には、出演者の舞台に臨む思いが短文で記されているが、これを読むと、役者の芸に対する真摯さが伝わってくる。
その思いを汲み取りたい、味わいたいと思うが、ついつい見逃してしまったり、理解できなかったりすることがしばしばだ。

藤十郎の政岡(奥殿)は別として、翫雀の八汐、扇雀の政岡(竹の間)、東蔵の栄御前、橋之助の仁木、松江の絹川など主要な役の多くが初役だそうだ。そのせいでもないだろうけど、全篇の隅々まで緊張感が漂う舞台だった。


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「伽羅先代萩」のタイトルについて。
「伽羅」は伊達騒動の主、伊達宗綱が好んだ香木の銘木として知られているところから「めいぼく」と読ませる。

「先代」は伊達家のあった「仙台」にかけているのかも知れないが、違う説もあリ。
伊達家の重臣泉小次郎定倉(片倉景綱のことかも?いずれにせよ、本作にはこれに当たる人が登場しない…はず)が先君遺愛の萩を「先代萩」と名づけて自宅に植える話に因る、という説明を読んだ。
まあ、歌舞伎の演目はいろんな言葉遊びや言い換えなどが含まれているので「仙台萩」の意味もあったのかもしれない。

♪2014-100/♪国立劇場-06