チョ・ソンジン:ピアノ
ベルク:ピアノ・ソナタ 作品1
シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番 ハ短調 D.958
ショパン:24の前奏曲 作品28
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アンコール
ショパン:マズルカ 作品30-4
ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
シューベルトも、信じられないことに、このピアノソナタが苦手だ。シューベルトには若い頃から共感を抱いていた。
彼の音楽はなぜか、自分の感性にピタッとハマるような気がして、他人とも思えないというと大げさだが、つまり、親しみを感じていた。新しい作品を初めて聴いても、まず違和感を覚えない。
…と長く思っていたが、ピアノ・ソナタ19番はどうも勝手が違った。この曲に出会ったのは5年ほど前にソナタ全曲CDを買うまでは(放送などでは別として)きちんと19番を聴く機会がなかったのだ。
で、きちんと対峙してみると19番で語るシューベルトの言語が理解できない。なので気持ちが乗れない。本当にシューベルトの作品なのだろうか、そういう疑念が生まれるほどに馴染んでゆかない。何度繰り返し聴いても、近づけない。
19番は、僕のシューベルト体験におけるエア・ポケットみたいなものだ。
チョ・ソンジンが弾くというから、事前に何度も聴いたが症状は変わらない。
そんな風に迎えた本番。
ベルクは最初から諦めていた。あまり面白い音楽を書く人じゃないから。
でも、シューベルトは、ショパンコンクール1位という俊才の生演奏を間近で聴くことでようやく覚醒できるかもと思って臨んだが、どっこい、距離はあまり縮まらなかった。
作曲家の円熟に従って凡人の感性からは遠のくとも想像できる。
確かに、ベートーベンの場合、最後の30番台のソナタが若い頃は敷居が高かった(今ではむしろこの辺の作品が好きだ。)。
シューベルのピアノ・ソナタでもそういうことが言えるのかもしれないが、因みに、シューベルトの最後のピアノ・ソナタ第21番など、とてもしっくり来るのだ。如何にもシューベルトらしく、メロディーが美しい。なぜ、第19番が近寄りがたいのか、これは一つの課題としておこう。
24の前奏曲(全曲)は、最近では去年夏に(チョン・ソンジンが優勝した同じ2015年のショパンコンクールでファイナリストに残った…留まった?)小林愛実でも聴いたし、アンナ・ヴィニツカヤでも聴いて、いずれも楽しめた。
もっとも、厳密に言うと、全曲が楽しめる訳ではない。
第2曲など特にとっつきにくい。
ベルイマン監督のバーグマン最後の作品「秋のソナタ」でこの音楽が母と娘の断絶の象徴のように使われるが、初めて聴いたときはこれがショパンの作品とはとても思えなかったものだ。
それでも何度も聴いているうちに、まあ、この曲だけを取り出して聴きたいとは思わないけど、前奏曲集として楽しめるようになった。
チョ・ソンジンの音楽性は分からないが、佇まいにただならぬものは感じた。とくに最終曲の最終盤の迫力は鬼気迫るものがあった。
♪2017-006/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-01