2016-01-20 @国立劇場
河竹黙阿弥生誕二百年
河竹黙阿弥=作
木村錦花=改修
尾上菊五郎=監修
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言 小春穏沖津白浪 -小狐礼三ー 四幕
(こはるなぎおきつしらなみ こぎつねれいざ)
国立劇場美術係=美術
序 幕
開幕
上野清水観音堂の場
二 幕
第一場(雪)矢倉沢一つ家の場
第二場(月)足柄越山中の場
第三場(花)同 花の山の場
三 幕
第一場 吉原三浦屋格子先の場
第二場 同 二階花月部屋の場
第三場 隅田堤の場
第四場 赤坂圃道の場
大 詰
第一場 赤坂山王稲荷鳥居前の場
第二場 高輪ヶ原海辺の場
尾上菊五郎⇒日本駄右衛門
中村時蔵⇒船玉お才(修行者経典/地蔵尊のご夢想)
尾上菊之助⇒人形遣い/子狐礼三(八重垣礼三郎/娘胡蝶)
坂東亀三郎⇒奴弓平
坂東亀寿⇒三浦屋小助/雪村三之丞
中村梅枝⇒月本数馬之助
中村萬太郎⇒花田六之進/礼三の手下友平
市村竹松⇒所化天錦
尾上右近⇒三浦屋傾城花月
市村橘太郎⇒三上の中元早助/三浦屋遣り手お爪
片岡亀蔵⇒三上一学
河原崎権十郎⇒漁師牙蔵
市村萬次郎⇒三浦屋傾城深雪
市川團蔵⇒月本円秋
坂東彦三郎⇒荒木左門之助
ほか
2回目の観賞。
初回で十分楽しめたが、セリフの聴き取れなかった部分があったり、どうでもいいようなことだけどラストの舟の仕掛けが気になったりで再見した。もちろん、面白い芝居をもう一度観たいというのが、最大の動機だけど。
2度目ではっきりしたことがある反面、初回には気が付かなかった(不思議に思うゆとりがなかった)不思議に気づいたこともある。
歌舞伎という伝統芸の約束事が十分頭に入っていないためだろうが、新劇を観る目で歌舞伎を観るという感覚が残っているからでもある。
最初に用意された筋書き(場割)を変えて冒頭に置かれた菊之助演ずる人形遣いが狐のぬいぐるみを手に舞台中央のセリから上がってくるシーンは幻想的できれいだし、人形の遣い方も上手で、最初から見せ場となっている。
このシーンはこの芝居の主人公が狐の妖術を使うことを暗示しているのだろうが、それではその人形遣いは誰なのか?
再度登場することはないので一体誰なのかは遂に分からなかった。
分からなくとも良いのだという考え方もある。全体として狐の妖術なのだと解釈できるけど、ちょっと無理があるな。
こういうことを疑問に思うようでは歌舞伎の道はまだまだ険しいか。
第2幕の所謂「だんまり」も、その場面の直前までは日本駄右衛門、礼三、お才が絡みの芝居をしていたのところ、登場していなかった数馬之助、花月、弓平までもが急遽何の脈絡もなく登場し、全員だんまりで暗闘するのも新劇的視点からは理解を超越するのだけど、ここは閑話休題、主要キャストの顔見世だということを頭に入れておかなくてはならない。
さて、最後に菊之助と時蔵を乗せた舟がどうして本舞台から狭い花道に曲がり進んでゆく事ができるのか?
昔は中に人が入って操舵していたという話を聞いたが、現代の舞台でも同様だろうか。もしそうなら舟の前方に覗き穴があるはず。
2回めはちょうど花道のすぐ上の席だったので、単眼鏡でしっかり作りを確認したが、舟の前方には舞台を見透すための小窓もなく、仕掛けが分からなかった。
そこで、国立劇場に問い合わせたら教えてくれた。
やはり舟は電動で動くが、操舵は中に入っている人間がハンドルで操作する。船の前方の底の波模様の部分に覗き窓があリます、ということであった。
いや~気が付かなかった。
そんな低い位置に覗き穴があるなら、中で操舵する人はえらく窮屈な姿勢を強いられるが、それにしても、狭い場所で上手に操舵するものだ。
♪2016-007/♪国立劇場-02