2016年1月12日火曜日

東京都交響楽団第800回 定期演奏会Aシリーズ

2016-01-12 @東京文化会館


小泉和裕:指揮
イザベル・ファウスト:バイオリン*
東京都交響楽団

メンデルスゾーン:バイオリン協奏曲 ホ短調 op.64*
R.シュトラウス:家庭交響曲 op.53
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アンコール*
クルターク:ドロローズ(無伴奏バイオリン曲)


久しぶりの文化会館大ホールだ。ホールはどんな響だったか忘れていたが、今回聴いてみると、やはり古いタイプの音作りなんだと分かった。

公的なコンサートホールとしては日本最初の神奈川県立音楽堂と同じ前川國男の設計だからだろうが音響効果も似ている。
因みに、首都圏の主要なコンサートホールを開館された順番で並べてみる(#)と、音楽堂から県民ホールまでは音響設計のコンセプトはおそらく同じではないか。
新宿文化センターについてはここで聴いた回数が少ないしそれも相当古いことなのでなんとも言えないが、少なくともサントリーホール以後のホールの音響設計は残響を長めに取るように変わってきたのではないかと思う。

ホールの響は残響時間だけで決まる訳ではないだろうから、その長短だけで音響の良し悪しを決める訳にはゆかない。
ヴィンヤードかシューボックスかといった客席の形にもよるだろうし、第一、どの席で聴くかによって大きく左右される(この左右のされ方の程度もホールによって異なる。)。

それで、どのホールの音が良い、悪いとかいう議論はさまざまな前提条件をおかなければなかなか比較はできないはずだが、素人の耳には、手っ取り早く残響の長短が「好み」に一番的確に影響するのではないか。

という次第で、いつでもどこでも残響コントロールは音響設計の核をなしているのではないかと思う。
それが、80年代の前後で好みが変わってきたのだろう。
古いホールは残響が短く響はデッドだ。
新しいホールは残響を活かした音作りをしている。
どっちが良いか、はまさに好みの問題だし、オーケストラの規模や曲の楽器編成などによって、どちらが向いているかが変わってくると思う。

少なくとも、残響の短い(音楽堂や県民ホール、そして東京文化会館などの)ホールでは、下手なオケはごまかしが効かない、ということは言える。しかし、そういう場所で、腕の良いオケが演奏する硬めの乾いた質感の響はこれまた味わいがある。


ところで、演奏。
メンデルスゾーンは、イザベル・ファウストというドイツの女流バイオリニスト。初めて聴いた。コンクール受賞歴から相当な実力者らしい。使用楽器もストラディバリウス(このクラスだと珍しくないけど、そんなにもたくさん作られたのか…。優れた現代楽器と大差はないという実験結果もあるようだが。)ということで、どんな音を出すのか、と思ったが、ホールのせいもあって、とても透明感のある繊細な音色が広い会場に届いた。

ただ、直前に聴いたバイオリン協奏曲の演奏が、刮目のインパクトを与えてくれたhr響と五嶋龍のチャイコフスキーで、これと比較すると、曲自体がチャイコの方が<協奏曲>として面白くできているのに対して、メンコンはあくまでも独奏バイオリンの名人芸を聴かせるという趣向で、管弦楽との絡みが物足らない。
これはファウストのせいではないけど。

アンコールは現代の無伴奏曲。
微弱音というか、ほとんど聴こえないような音?のフレーズがあって、こんな大ホールで演奏する曲ではないな。


家庭交響曲は、ナマで聴くのは初めてだった。放送でも長い観賞歴で数回だろうし、それも耳に入ったという程度でまともに聴いたことはなかった。案の定、最後まで馴染みのあるフレーズは出てこなかった。
都響も、冒頭部分がざわざわしてすっきりしなかったが、中盤から立てなおして怒涛のクライマックスを乗り越えた。
メンコンは標準的な2管編成であるのに対して、家庭交響曲ではホルンが8本、コントラバスも8本という大編成で変則4管編成だったのかな。

あらためてNETストリーミングで聴き直してみたが、どうにも親しみを感じられない音楽だ。どうしてこんな騒がしい曲を書いたのだろう。

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都響50周年・800回定期記念のおみやげ
神奈川県立音楽堂⇒ 1954年
東京文化会館⇒ 1961年
NHKホール⇒ 1973年
神奈川県民ホール⇒ 1975年
新宿文化センター⇒ 1979年
サントリーホール⇒ 1986年
東京芸術劇場⇒ 1990年
すみだトリフォニーホール⇒ 1997年
東京オペラシティコンサートホール⇒1997年
みなとみらいホール⇒ 1998年
ミューザ川崎シンフォニーホール⇒ 2004年



♪2016-005/♪東京文化会館-01