2014年8月29日金曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第301回定期演奏会 【小泉和裕 特別客演指揮者就任披露公演】

2014-08-29 @みなとみらいホール




小泉和裕(特別客演指揮者)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

グラズノフ:バレエ音楽「四季」
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」Op.74


グラズノフのバレエ音楽「四季」は、体調がイマイチで、楽しむゆとりがなかった。

4部構成だけど何故「冬」から始まって「秋」に終わるのだろう?
ハイドンの「四季」もビバルディの「四季」も「春」から始まるのに、ロシアでは季節感が異なるのか。

そういえば、チャイコフスキーにも「四季」があるが、これは12曲のピアノ曲集で、1月から12月までで構成されている(それなら「四季」と言わずに「一年」とでも言えばいいのに!)。
でも、とりあえず1月から始まるということは「冬」で始まるんだ。
やはりロシアの四季は「冬」で始まるのか…でも終わりも「冬」だなあ。

浅田次郎の「プリズンホテル」4部作は「夏」から始まっていたが、これには意味があったな。

…などと非音楽的なことを考えながら集中できないでいた。

一部に聴いたことがあるメロディーが何度か登場したが、全曲を聴くのは初めて。

プログラムには、4部に分かれて「冬」~「秋」ということしか紹介していない。
それで、4曲構成だろうと思いながら聴いていたが、ぜんぜん違う。短い曲がたくさん集まっているので、どこから季節が変わるのか分からない。混乱をする。
今、どの季節の音楽なのか分からない。不安になる。

帰宅後、ネットで調べて分かった。
後日のために書いておこう。

Ⅰ前奏曲

Ⅱ冬
 1情景
 2ヴァリアシオン:霜
 3ヴァリアシオン:氷
 4ヴァリアシオン:霰
 5ヴァリアシオン:雪
 6終曲

Ⅲ春
 1情景
 2バラの踊り
 3小鳥の踊り

Ⅳ夏
 1情景
 2矢車菊とケシのワルツ
 3舟唄
 4ヴァリアシオン:トウモロコシの精の踊り
 5終曲

Ⅴ秋
 1バッカナール
 2小さなアダージョ
 3バッカスの礼賛

Ⅵアポテオーズ

「ヴァリアシオン」や「アポテオーズ」は薬の名前ではない!
バレエ用語だった。--;

今日も思ったけど、バレエ音楽のような劇伴音楽は、音楽のみ単独で聴いてもあまり楽しめない…原因の多くは馴染んでいないということだけど…そうだとしても、やはり、演奏会用には音楽的構成を考えて(バレエ)組曲化したした作品の方が好きだ。


と、気持ちが音楽に集中できないまま「悲愴」になだれ込んだ。

名曲中の名曲で、大好きな作品なのに、浮ついた気持ちを引きずったまま「悲愴」が始まったのは「悲愴」なことだった。

いや、待てよ。

プログラムにタイトルの語源が仏語のPathétique(英語:Pathetic)から来ており(知ってるよ!)、その本来の意味は「悲愴」というより「情熱」に近いとある(知らなかった!)。

そうか、Appassionato(伊語:音楽の発想標語の一。「熱情的に」「激しく」の意。)に近いのだな…とその時は理解した*。

日本語の「悲愴」の意味は「悲しく愴(いた)ましいこと」なので、このチャイコの名曲も何となくそのように受け止め、納得もしていたが、それにしてはぴったり来ない部分があるのは確か。

そう思って聴いていると、やはり第1楽章なんて、もうこれ以上に悲しいことはあるまい、というような激しく落ち込む曲調の後に、曙光が差してくる。

第2楽章は軽快な舞曲風。もっとも5拍子だから、踊るのは難しい。

第3楽章はスケルツォとマーチで勇ましい!

ここに来て、ようやく僕は音楽に集中することができるようになった。というより、引きずり込まれていった。
ファンファーレの連続は凱旋行進曲のようだ。それも終盤はMolto Vivaceという急速テンポでクライマックスに突入。
大音響で終曲すると、ほとんど間を置かずに第4楽章が始まった。
これが心憎い演出(指揮)だ。


「Pathétique」の意味はともかくとしても、第4楽章こそ「悲愴」にふさわしい。前3楽章の激しい情動はここに来て終息し、人生はこんなふうに哀しいものだよ、とチャイコはしみじみ語りかけるようだ。
表情記号にLamentosoと自ら指示しているのだから、「Pathétique」の本意がなんであれ、終楽章の哀感は正しく受け取らねばなるまい。

だからといって、気分が憂鬱になる訳ではないのだけど。

最終場面、低弦がふた手に分かれて最弱音で消えゆくように終曲する。
この部分(だけではないのだけど)は、CDでは我が家の決して貧弱とはいえないオーディオ装置でもきちんと再生はできない。
生のオーケストラのダイナミックレンジが如何に広いかを痛切に味わう作品だ。


今回は体調不十分ながら後半には回復して「悲愴」の凄まじさを聴き逃さずに済んだのは幸いであった。

*後日、時々怪しいWikipediaで調べると、余計に混乱するようなことが書いてあったが、チャイコフスキーが仏語の意味を正確に知っていたのか分からないし、少なくともロシア語にせよ仏語にせよ大本はPathos(希語:情念~)に行き着くらしいから、チャイコフスキーが表現しようとしたものは「哀感を伴う情念」かもしれない。あるいは、第4楽章がすべてを総括し、代表する、ということでは日本語訳も「悲愴」で良いのではないかと、自分的には決着をつけた!

♪2014-81/♪みなとみらいホール-33

2014年8月23日土曜日

アンサンブル・メゾン第33回演奏会

2014-08-23 @みなとみらいホール


田崎瑞博:指揮
アンサンブル・メゾン
チェンバロ 渡辺玲子

C.P.E. バッハ:シンフォニア ニ長調 Wq.183-1
(チェンバロ 渡辺玲子)
プロコフィエフ:シンフォニエッタ イ長調 Op.5/48
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 Op.92

かねてから、小ホールの室内オーケストラで古典派の交響曲を聴いてみたいと思っていたので、調度良かった。

アンサンブル・メゾンという室内オーケストラは今年で設立27年で定期演奏会も33回めと書いてあるけど、このオケ、知らなかった。
チラシにもあまり詳しいことが書いてない。

普通、アマオケならチラシ、プログラムなどにそれらしい表記がある。が、このオケに関しては見当たらない。
メンバーは京都に縁のある人たちだと書いてあるので、もっぱら関西で活動しているプロオケだろうと、<聴く前までは>思っていた。

この演奏会でもエマニュエル・バッハのシンフォニア、それもニ長調 Wq.183-1が取り上げられた。今年生誕300年だからで、この曲を演奏会で聴くのはもう3回めだ。

その第一声で、調子が狂った。
1stバイオリン…音が合っていないよ!

また、全3楽章を切れ目なく演奏したので、全曲終了時に、観客は第1楽章が終わったのかと勘違いして誰も拍手をしない。
かくいう僕も、この曲を聴くのは3度めなので、ああ、終わったな、とは思ったけど、イマイチ自信が持てず、様子を窺っていた。
会場は妙に白けたムード。

指揮者が演奏者を立たせ客席を向いたので、観客にもようやく事態が飲み込めて拍手が沸き起こったが、バツの悪いことであった。

少なくとも前2回(神奈川フィル・日フィル)はきちんと楽章の切れ目をつけて演奏していた。

帰宅後、ネットでスコアを調べると、なるほど、「楽章」の表示はなく、全曲が続けて書いてあり、拍子とテンポが変わるので、楽章の切れ目が分かるけど、演奏する場合は切れ目無しが正解なのかもしれない。
でも、それならそれで、プログラムに書いておくべきだよ。

出だしは悪かったけど、その後はだんだん良くなる法華の太鼓!



ベト7はなかなかの仕上がりだった。
小編成で聴いて初めて見えてきたようなものを感じた。

弦楽器だけだと25名程度、管・打楽器合わせて約40名というこじんまりした編成なので、各パートの音が明瞭に聴こえる。
おそらく、この日の3曲とも、初演された頃はせいぜいこの程度の規模のオケだったのだろう。プロコフィエフは20世紀の作曲家だけどシンフォニエッタ(小交響曲)だから、やはり想定した演奏規模は室内オケなのだろう。

演奏を聴いて、プロではないことは分かったが、アマチュアにしては高水準。
特に低弦はほとんど破綻がなかった!

それにしてもアンタ何者?

あれこれ検索をかけてようやく分かった。
京都大学OBによるアマオケだった。

気持ちは分かる。名乗りにくいんだ。

♪2014-80/♪みなとみらいホール-32

2014年8月18日月曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.59 東京フィル首席奏者による室内楽

2014-08-18 @みなとみらいホール


荒井英治(Vn)
戸上眞里(Vn)
須田祥子(Va)
服部誠(Vc)
黒木岩寿(Cb)

ティータイム・クルーズ
~Viva!Rossini!~
G.ロッシーニ:弦楽のためのソナタ 第3番 ハ長調
G.ロッシーニ:チェロとバスのための二重奏曲から第1楽章
G.ロッシーニ(編曲:荒井英治):ファンタジー 変ホ長調
P.de.サラサーテ:ロッシーニへのオマージュ より
G.ロッシーニ:歌劇<どろぼうかささぎ>序曲(弦楽五重奏用編曲)


お手頃価格で気楽に室内楽を楽しめるみなとみらいホール主催のクルーズ。

今日は、東京フィルの弦の各パートの首席が集まってのロッシーニ特集だった。

1曲だけサラサーテがロッシーニにオマージュを捧げて作曲した作品があったが、それ以外はすべてロッシーニの作品。

ロッシーニについては、オペラ作家という知識(それも「ウィリアム・テル」、「セビリアの理髪師」、「泥棒かささぎ」程度)しかなかったし、現に室内楽などの分野では作品が非常に少なく、CDで聴けるものは限られている。

それで、これまでとても縁が遠かった。

しかし、1曲めに演奏された「弦楽のためのソナタ第3番」にすっかり魅了されてしまった。
実に軽妙だ。

ロッシーニは全部で6曲の「弦楽のためのソナタ」を書いているが、いずれも編成が変わっていて、2つのバイオリン、チェロ、コントラバスで演奏される。通常の弦楽四重奏ならビオラが入り、コンバスは入らない。
また、この日の演奏は四重奏だったが、むしろもう少し規模を大きくした弦楽合奏として演奏されることのほうが多いようで、帰宅後すぐにAmazonでチェックしたが、四重奏のものは見当たらず、イタリア合奏団の全曲盤を購入したが、これはバイオリン3+3、チェロ2、コンバス1という編成らしい(書いてないがジャケットの写真からの判断)。これはこれで楽しめるのだけど、好みで言えば四重奏の方が音楽の輪郭がはっきりして好きなのだけど。


驚くべきは、この6曲を、ロッシーニは12歳の時に3日間で書き上げたということだ。

確かに、この日聴いた第3番も、その後CDで聴いた5曲も、すべて天才の<発明>に溢れているような気がする。ハイドンの初期の交響曲などにも通ずる遊び心、旺盛な実験意欲が感じられる。

音楽的にはまずい部分もあるのかもしれないが、聴いていて楽しい。時々稚気も混じった陽気さがいい。

「チェロとコントラバスのための二重奏曲」も傑作だった。
演奏者のアドリブも入っていたようだけど、何しろ、最後の「~序曲」以外は初めて聴く曲ばかりなので、2人の演奏家が遊びながら弾いているのは分かっても、アドリブかどうかは分からない。
低弦2本の掛け合いが、時には名人芸を要求されるような部分もあって、スリリングであり、かつ、おかしかった。

第一バイオリンの荒井氏(東京フィルコンサートマスター)はバイオリンだけでなくピアノの方も”プロ”で、3、4曲目のビオラとバイオリンの伴奏を受け持っていたが余技とも思えない腕前だった。

神童モーツァルトが亡くなった翌年、ロッシーニはその後を継ぐかのように生まれ、その天才ぶりを遺憾なく発揮して、オペラを39曲も書いたが、37歳で作曲をやめてしまい、44歳で音楽界から引退し、しかし、好きなことをやって76歳まで生きたそうだ。

この日のコンサートは僕にとって「ロッシーニ開眼」記念日となった。

♪2014-78/♪みなとみらいホール-31

2014年8月17日日曜日

読売日本交響楽団第73回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2014-08-17 @みなとみらいホール



川瀬賢太郎:指揮
読売日本交響楽団

シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759「未完成」
ベートーベン:交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
ドボルザーク:交響曲第9番ホ短調 作品95「新世界から」


夏休み企画なのか、いわゆる三大交響曲を一挙に演奏。
2000席を超える大ホールがほぼ満席だった。

「運命」は、先月、鈴木秀美指揮神奈川フィルでちょいと忘れられないような演奏を聴いたし、「新世界から」は、新しいところでは6月に横響で聴いたのが、しんみりさせてくれた。

「未完成」も色々と思い出のある作品で、この三大交響曲を川瀬賢太郎と読響の組合わせ(初めてではないらしい)が、どんな演奏を聴かせてくれるのか楽しみだった。

3曲とも、とてもオーソドックスな演奏(解釈)で、あまりにフツーなので、妙に納得するとともに物足りなさも感じた。
若い指揮者だし、生演奏なのだ(記録に残る訳ではない)から、もう少し”独自”な解釈があっても良かったのではないか。



オケの編成は、弦が厚かった。
ドボルザークはともかく、ベートーベンやシューベルトの交響曲にしては弦の編成が大きいのではないか。

他のオーケストラの場合に、チェロやコンバスの数は気になるけどバイオリンやビオラの人数を数えたりしないので、他のオケでも似たようなものかもしれないけど、今日の読売日響は、バイオリンだけで1st、2nd合わせて30人。
ビオラ12人、チェロ10人、コントラバス8人。
弦パート全体で60人だった。

それだけに重厚なサウンドを堪能できたが、シューベルトもベートーベンも、もし本人が聴いたらびっくりしたのではないか。


賢太郎氏、指揮台の上で文字どおり飛び跳ねての熱演。
気合が入っていた。

♪2014-78/♪みなとみらいホール-30

2014年8月7日木曜日

フェスタサマーミューザ:日本フィルハーモニー交響楽団

2014-08-07 @ミューザ川崎シンフォニーホール


マックス・ポンマー:指揮
小山実稚恵:ピアノ
日本フィルハーモニー交響楽団

C.P.E.バッハ:交響曲ニ長調 Wq.183-1
 (エマニュエル・バッハ生誕300年記念)
ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73
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アンコール
ベートーベン:エリーゼのために イ短調 WoO59
(小山実稚恵)
ブラームス:交響曲第2番から第3楽章


この日はたくさん歩き、相当疲れていたので、コンサートの前半は睡魔との闘いだった。

今日は、僕の大好物、ドイツの3B、と言いたいところだけど、BachがJ.S.Bachではなく、彼の次男のC.P.E.Bachだ。

C.P.E.バッハの「交響曲ニ長調」は先月も他のオケで聴いた。「交響曲ト長調」は2月に聴いた。生誕300年ということでなければあまり演奏会で取り上げられないが、ちょっと好奇心をそそられる作曲家だ。

こういう時代の曲は、どちらかと言うと睡魔の餌食になりがちだが…^^;


小山実稚恵さんのベートーベンは年初に5番を聴いた。
彼女くらいベテランとなると音楽に安定感がある。
それが安心感になり、ついうとうとしてしまった(…と人のせいにしていいのか!)。
楽章の切れ目は自覚していて、あ、第2楽章だ、第3楽章だ、なんて思いながら此岸と彼岸を行ったり来たり。
万雷の拍手で我に返った次第。もったいなくもお恥ずかしいことであった。

アンコールに彼女が弾いたのは、なんと「エリーゼのために」だった。プロの生演奏を聴いたのは初めてだ。
なんでこんな子供の練習曲みたいなのを選んだのかなと一瞬疑問がわいたけど、お子様用だという先入観が間違いなんだね。
第一旋律以外のテンポがものすごく早いので驚いた。わざとらしいタメのない疾走するエリーゼにすっかり覚醒!


トリはブラームスの第2番。
ブラームスの作品はなんでも好き!
でも、交響曲で言えば、一番馴染みの少ないのがこの第2番だったが、最近、第2番を聴く機会が多いのはうれしい。
全体に重厚長大の印象が強いが、その中で一番小ぶりで曲調も可愛らしい第3楽章が谷間の百合という感じか。


定期演奏会でオケのアンコール演奏は極めて少ない。
個人的には、大曲の後にアンコールは不要だと思っている。
用意されたプログラムでもう十分満ち足りているのに余韻を壊す場合があるから。
でも、今日のような、本番の中の短い癒し系1曲を再演奏するのは粋だ。

♪2014-77/♪ミューザ川崎シンフォニーホール-09

2014年8月6日水曜日

八月納涼歌舞伎

2014-08-06 @歌舞伎座



八月納涼歌舞伎 第二部

一 信州川中島合戦(しんしゅうかわなかじまがっせん)
輝虎配膳
   
長尾輝虎 橋之助
直江山城守 彌十郎
唐衣 児太郎
越路 萬次郎
お勝 扇 雀

二 たぬき
   
柏屋金兵衛 三津五郎
太鼓持蝶作 勘九郎
妾お染 七之助
門木屋新三郎 秀 調
松村屋才助 市 蔵
倅梅吉 波野七緒八
隠亡平助 巳之助
芸者お駒 萬次郎
狭山三五郎 獅 童
備後屋宗右衛門 彌十郎
女房おせき 扇 雀


「八月納涼歌舞伎」の全三部のどの作品も初めてのものなので、どれでも良かったのだけど、第二部の「たぬき」に歌舞伎らしからぬ面白さを期待して選んだ。

一 信州川中島合戦 輝虎配膳
近松門左衛門作の全五段の浄瑠璃の三段目を歌舞伎に移し替えたもの。

長尾輝虎(後の上杉謙信<橋之助>)は、宿敵武田信玄の名軍師黒田官兵衛を味方に引き入れたく、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」とばかり、家老の直江山城守<彌十郎>とその妻唐衣(官兵衛の妹)に命じて、勘兵衛の母越路<萬次郎>と勘兵衛の妻お勝<扇雀>を屋敷に招き入れ、贈り物や料理のもてなしてで気を惹こうとするが、母越路は輝虎の本心を見抜いているので、息子の忠義の筋を通そうと、もてなしにあれこれ難癖をつける。
あまりの無礼に輝虎は我慢ならんと越路に刀を振りかざすが、お勝が母の非礼を詫び止めに入る。
輝虎は懸命なお勝に免じて2人を放逐することで許す。

全五段のうちの一部なので、物語としては登場人物の描き方が不十分なのはやむを得ないのだろう。
輝虎が悪意の人なのかどうか、は大きな関心事なのだけど、実はこの三段目を見るだけではよく分からない。

また、息子官兵衛(登場しない)がどういう考えであるかも分からないのだけど、配膳を足蹴にするまでの無礼を働く必要があるとも思えないので、越路の行動に説得力はなく、仮に輝虎が悪党だったとしてもそこまでされては武士の面目丸つぶれだ。斬り捨て御免でもやむをえないだろう。

しかし、そこは置くとして、それでも三段目単独上演が成立する面白さは、やはり、義太夫語りと役者のセリフや所作の絡みにあり、なるほど300年(ざっくりした言い方だけど)の鍛えられた伝統芸を感じた。

特に見せ場は、お勝が琴で輝虎の刀を受け止め、吃音であるために言いたいことがうまく言えず、その言葉代わりに琴を弾いて許しを請うところだ。
扇雀が本当に弾く琴と義太夫の三味線とが掛け合いをしながら橋之助の舞のような所作が全てうまく合わさって見事で、こういう芸はまことに一朝一夕では成らぬものだと感心した。


二 たぬき
大佛次郎の昭和28年初演作。
放蕩三昧の挙句、当時はやっていたコレラで急死した江戸の大店の主、柏屋金兵衛<三津五郎>の葬儀が終わり、参列者もみんな帰った後、焼かれるのを待っていた棺が転がり、中から金兵衛が現れる。生きていたのだ。それもピンピンしている。

金兵衛は考えた。このまま本宅に戻って元の生活をするより、愛妾お染<七之助>と一緒に暮らしたほうが面白い。
そこで勝手知ったるお染の家に上がり込んで待っていると、お染には実はかねてから情夫狭山三五郎<獅童>がおり、その晩も訪ねてきているのを知って愕然とする。

その後、金兵衛は神奈川で甲州屋長兵衛と名を変え新たに興した商いに成功していた。

生まれ変わって1年余。江戸で芝居見物をしていた際に、かつて贔屓にしていた太鼓持ちの蝶作<勘九郎>が長兵衛が金兵衛とそっくりなことに気づくが、まさか同一人物とも思えずうろたえるばかり。それを面白がって嫌味や皮肉でからかう金兵衛。蝶作は自分を裏切っていたお染の兄なのだ。

その蝶作を連れて、元の本宅のそばの寺まで行った金兵衛は、境内でハテ本宅に戻るべきか否か思案するが、そこに通りがかったお染は金兵衛を見て、よく似ているが違う人だと蝶作に告げて去ってゆく。
しかし、たまたま女中に連れられて通りがかった幼い息子の梅吉は、金兵衛を一目見て「ちゃんだ!」と叫ぶ。

と、かなり端折った筋書きはかくの如し。

前半は、死んだ人間のそっくりさんが登場して周囲がまごつく滑稽さ。特に太鼓持ちの勘九郎がおやじさんそっくりで(悲しいくらいに)おかしい。
後半は、商売に打ち込み人の情愛を失くしたかのような金兵衛が、やはり子供の無垢な心は騙せないと悟る人情物語。
ドラマとしてとても面白い。

最後に子供の正直さに化けの皮が剥がれる話は、高倉健主演の傑作映画「新幹線大爆破」の名ラストシーンを思い出した。

と、脱線してしまったが、あまり「歌舞伎」らしくない舞台ではある。
台詞回しもほとんど現代の言葉で、下座音楽はわずかに効果音程度しか使われていない。照明の使い方も含め、「新劇」を観ているようでもあった。
もちろん役者が見栄を切るような場面はない。大向うの掛け声も少なく拍手する場面も少なくて、観客としてはカタルシスに不足する。

しかし、一切のケレン味を排し、地味ではあるが、とても分かりやすい人間ドラマとして一興だ。

「新歌舞伎」、「大佛歌舞伎」というそうだ。


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「浄瑠璃」、「竹本」、「義太夫」の違いを平凡社世界大百科で調べるとおよそ以下のとおり。自分でもすぐ曖昧になるので記載しておこう。

●「浄瑠璃」⇒中世以来の諸音曲を総合した語り物
●「豊後(節)」⇒三味線音楽の一流派。宮古路豊後掾の浄瑠璃を〈豊後節〉といったが,広義にはその弟子系の創始した常磐津節、富本節、清元節、新内節、宮薗節などをも含めていう。
●「義太夫(節)」⇒「浄瑠璃」の中の「竹本義太夫」が創始した流派
●「清元(節)」⇒三味線音楽の一種目。豊後三流の一つ。江戸時代にできた浄瑠璃の中ではもっとも新しい。
●「常磐津節」⇒浄瑠璃の一流派。豊後系浄瑠璃(豊後節)のうち、いわゆる豊後三流の一。江戸の歌舞伎音楽(出語り)として発達した。
●「竹本」⇒「義太夫節」の別称、また歌舞伎専門の義太夫節演奏者の称。もともと人形のために作られた浄瑠璃は、そのままの曲節では人間の俳優の動きに適しない場合が多く、歌舞伎的に編曲したり、文章を加除したりするために専門の職種が生まれた。そこで文楽(人形浄瑠璃)の太夫、三味線と区別して竹本と呼び、文楽から竹本に転向した者は再び文楽には戻れぬという鉄則が現在も守られている。このため、かつては文楽より下位に置かれ、〈チョボ〉と呼ばれて蔑視された。その後、義太夫狂言は歌舞伎の重要な柱であり、これを支える竹本の存在が重視されて、人間国宝の指定を受ける者も出た。国立劇場による後継者養成も始まり、その地位は高まりつつある。なお、チョボの語源については諸説があって明らかでない。

♪2014-76/♪歌舞伎座-04