2014年12月13日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第303回横浜定期演奏会

2014-12-13 @みなとみらいホール



高関健:指揮
ソプラノ:半田美和子
アルト:坂本朱
テノール:錦織健
バリトン:堀内康雄
日本フィルハーモニー交響楽団
東京音楽大学:合唱

シベリウス:交響詩《タピオラ》
ベートーベン:交響曲第9番《合唱》



最近は、気候の変調や季節の食べ物が年中手に入るようになったり、シーズン商戦の前倒しなどで季節変化のグラデーションの帯域が広くなったせいでその変わり目はますます曖昧になっている。

そんな中、音楽シーンはこの月、確実に年末モードに突入して季節を明確に告知する。

「第九」と言えば12月と決まっている。
決まっているからこそ12月は「第九」の大混戦で、「ちけぴ」に出ているコンサートだけでも横浜・川崎だけで8回。主戦場の都内となると30回は下らないようだ。ほかのプレイガイドの取扱いやアマチュアの「第九」も入れると一体どれほどの回数が演奏されるのだろう。
かくいう僕も5回も聴きに行く予定だ。特に聴きたいと思って選んだのは1回だけ。残りの4回は定期演奏会なので、いわばお仕着せなのだ(嫌な訳じゃないけど)。

そのお仕着せ第1号が今日だった。

日フィルのホームページを見ると今月中に「第九」は2人の指揮者で7回演奏するようで(他の在京オケも似たり寄ったりだが)、毎回の演奏に気合を入れられるのかと心配になる。

が、今回の横浜定期が日フィル「第九」の一番乗りだったようで、おそらく、それなりの緊張感を持って臨んでくれたのだろう。

いつもながら、日フィルの響は実に柔らかい。ホールの残響に包まれた耳に優しいサウンドだが、物足りなさもあるのは聴く席のせいもある。これは畢竟費用対効果の問題に帰すので、日フィル定期ではメリハリの良さよりも柔らかサウンドを尊重するということにしておく。


ちょっと違和感を感じたのは、ソリストの出番だ。
合唱団は最初から舞台に陣取った。これはいい。
声楽ソリストはいつ登壇するか。
普通は第2楽章が終わったあとが多いように思う(この際に合唱団も入るということも多い。)。
今回は、違った。

第2楽章が終わってもソリストが登場しない。残るは第3楽章のあとしか無いので、その時点から残念感が同居した。
やはり、第3楽章が終わってからソリストが登場して拍手を受け着席するにはけっこう時間がかかるので、それまで継続していた音楽的緊張感が途切れてしまった。
これは良くない。

第3楽章と第4楽章間はアタッカ(切れ目なし)の指示がないけど、ここは間髪入れず第4楽章になだれ込んで欲しい。
第3楽章と第4楽章は一体なのだ。

第2楽章と第3楽章の間は空いてもいい。
音楽的に質が異なるし、むしろここで休憩代わりに合唱団とソリストを入場させるのが適当だと思う。

第4楽章の低弦のレシタティーヴォも綺麗すぎて物足りなかった。ここはタメを効かせて見得を切るように歌ってほしいな。まあ、好みの問題なのだけど。

残る4つの「第九」はどのように演奏されるだろうか。楽しみではある。


♪2014-115/♪みなとみらいホール大ホール-49

2014年12月12日金曜日

12月歌舞伎公演「通し狂言伊賀越道中双六 (いがごえどうちゅうすごろく)」

2014-12-12 @国立劇場大劇場


中村吉右衛門⇒唐木政右衛門                    
中村歌六       ⇒山田幸兵衛
中村又五郎   ⇒誉田大内記/奴助平
尾上菊之助   ⇒和田志津馬
中村歌昇       ⇒捕手頭稲垣半七郎
中村種之助   ⇒石留武助
中村米吉      ⇒幸兵衛娘お袖
中村隼人      ⇒池添孫八                    
嵐橘三郎      ⇒和田行家/夜回り時六
大谷桂三      ⇒桜田林左衛門
中村錦之助  ⇒沢井股五郎
中村芝雀      ⇒政右衛門女房お谷
中村東蔵      ⇒幸兵衛女房おつや
                     ほか

近松半二ほか=作
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言伊賀越道中双六 五幕六場
           国立劇場美術係=美術

序 幕 相州鎌倉 和田行家屋敷の場
二幕目 大和郡山 誉田家城中の場
三幕目 三州藤川 新関の場
     同     裏手竹藪の場
四幕目 三州岡崎 山田幸兵衛住家の場
大 詰 伊賀上野 敵討の場


「伊賀越道中双六」は、昨年の11月に同じ国立劇場で通し狂言として上演された。それが初見だったが、なかなか面白かった。
「沼津」の幕が有名で、単独でも上演されるそうだ。
仇討ちをする和田志津馬とこれを助ける唐木政右衛門が主人公と言っていいと思うが、見どころとされている「沼津」では登場しない。
「沼津」は、今は敵味方に分かれた実の親子の再会が一転して悲劇に終わる話で、なかなか味わい深い。
しかし、この話はいわば仇討ちの本道からは逸れた脇道だ。

一方で、この時の公演では悲惨極まりない「岡崎」の場面が省略された。省略されることのほうが多いらしい。

ま、普通の観客の好みで言えば「岡崎」より「沼津」を観たいだろう。


ところで、今回の「伊賀越道中双六」ではその「沼津」が省略され、「岡崎」が上演された。歌舞伎では44年ぶりだそうな。
ほかにも昨年の公演とはだいぶ構成が異なっていた。
いわゆる「饅頭娘」*と言われる「政右衛門屋敷の場」もなくなり、「沼津」が省略され、これらに代わって「藤川」と「岡崎」が置かれた。

換骨奪胎だが、それでも成り立つのが歌舞伎という演劇の面白さなんだろうな。

今回の構成で、仇討ちモノとしては、スッキリと分かりやすくなったように思う。志津馬と政右衛門を軸に話が展開するからだ。
「藤川 新関の場」では志津馬<菊之助>が、「同 竹藪の場」では政右衛門<吉右衛門>が中心となり、「岡崎」も政右衛門と元の妻の芝居が凄絶で見応えがある。

「饅頭娘」が省略されているので、「岡崎」への話のつながりが分かり難い(お谷が巡礼している理由)ところもあるけど、やむを得ないか。

「岡崎」では、幸兵衛<歌六>の屋敷に、運命の糸で手繰り寄せられるように、それぞれの身柄を偽った志津馬、政右衛門と巡礼になったお谷が出会うことになるが、とりわけ、お谷とその乳飲み子(政右衛門の子)が哀れだ。お谷を救えない、そして我が子を手にかけて刺し殺す政右衛門も哀れだ。
すべては、仇討の本懐を遂げるためである。
この凄絶な葛藤は役者にとっても浄瑠璃語りにとってもなかなか至難の芸らしく、達者が揃わなければ上演できないと言われるのも宜なるかなである。

吉右衛門も芝雀も、迫真の芝居だったと思う。
吉右衛門には政右衛門として立ち回りも何度もあるが、やはり、この悲痛この上ないお谷とのやりとりの場面が一番いい。
芝雀も哀れを誘う。

志津馬に一目惚れしてしまった幸兵衛の娘お袖を演じた米吉くんがとても色っぽく可愛らしく、最後は意外な覚悟を見せてなかなか良かった。
志津馬役について言えば、菊之助はとても似合っていた。昨年の公演では虎之介くんで、存在感はいまいちだったが、これは志津馬が引き立つような演出ではないので仕方なかったろうと思う。


筋に戻れば、「岡崎」の我が子を殺した後の場面、幸兵衛の剣術の腕が衰えていないのを見て政右衛門が「まだお手の内は狂いませぬな、ハハハ~」と持ち上げるところなどは、いやはや男どもは呆れたものだと笑えてしまう。このやりとりはない方がいいと思う。

武家社会の義理や面子が、夫婦・親子の情愛を蹴散らしてしまうバカバカしさをもっと直截に工夫できないものか、と思ったが、そこに力点を置けば古典の枠からはみ出てしまうのだろうなあ。難しいところだ。

*政右衛門は、義理の弟(厳密には内縁の妻お谷<芝雀>の弟)の(父和田行家<橘三郎>を殺した沢井股五郎<錦之助>に対する)仇討ちの助っ人になるために、お谷を離縁(?)し、お谷と志津馬の異母妹でまだ7歳のおのちと正式に結婚するのだが、その幼い花嫁は結婚の場で三三九度の代わりに饅頭を欲しがることから「饅頭娘」と言われている。
内縁関係のままでは助太刀できないという理由によるけど、ならばこの際(結婚に反対していたお谷の父は殺されたのだから)、お谷と正式に祝言を上げれば済んだのではなかったかと思うけど、それでは話が盛り上がらないか…。歌舞伎が追求するのはリアリズムじゃないものな。


♪2014-114/♪国立劇場-07

2014年12月7日日曜日

N響第1796回 定期公演 Aプログラム

2014-12-07 @NHKホール


シャルル・デュトワ:指揮

ペレアス:ステファーヌ・ドゥグー(Br)
ゴロー:ヴァンサン・ル・テクシエ(Bs/Br)
アルケル:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(Bs)
イニョルド:カトゥーナ・ガデリア(Sp)
医師:デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(Br)
メリザンド:カレン・ヴルシュ(Sp)
ジュヌヴィエーヴ:ナタリー・シュトゥッツマン(Ct)コントラルト
東京音楽大学:合唱
NHK交響楽団

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(演奏会形式)


「ペレアスとメリザンド」という音楽作品は数種類あり、それらの中ではフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」の中の「シシリエンヌ」という曲がいろんな器楽曲に編曲されていて聴く機会が多いので馴染んでいるが、他の作曲家(シベリウス、シェーンベルク)はもちろん、今回聴くことになったドビュッシーの作品については存在を知るのみで自覚的に聴いたことはなかった。

メーテルリンクが戯曲「ペレアスとメリザンド」を発表したのが19世紀末。どこが良かったのか、大勢の作曲家が一斉に飛びついて、上に記した4人のほかウィリアム・ウォレスという作曲家も加えて少なくとも5人が音楽にしたのが2000年から2005年という時期に集中している。

メーテルリンクは「象徴主義」の詩人と言われているらしい。
「象徴主義」を広辞苑で引けば「リアリズムに対抗し、象徴作用によって内的世界を表現しようとする芸術思潮。」とある。

他の作曲家は知らないが、ドビュッシーにとっては、「牧神の午後への前奏曲」(1894年)で骨格を固めた独自の作曲手法を発展させるには格好の題材だったのだろう。
メーテルリンクの台本をそのまま活用してオペラとして完成させた(初演は1902年)。
「ワーグナーから影響を受けたライトモティーフの技法を用いながらも、全音音階や平行和音、小節線から自由になったリズム法など新しい作曲法を導入し、メーテルリンクの原作よりもいっそう深い意味をもった作品を作り上げた」(世界大百科辞典)。

かくして、ドビューッシーによる「ペレアスとメリザンド」の完成は20世紀初頭の音楽界を揺るがす大事件となったらしい。



確かに、現代に生きる我々は、ベートーベンを聴いて、次にルネサンス音楽を聴き、ストラヴィンスキーを聴くかと思えばドビュッシーも聴き、次にシューマン、といったふうに音楽史を自在に行ったり来たりしていろんな時代の音楽を楽しんでいるために、ドビュッシーだけではなく、バッハの改革もベートーベンの新工夫もワーグナーの発明も、ショスタコーヴィチの跳躍も、その時代の人のような衝撃を持って受け止めることができないのだけど、もし、シェーンベルクやストラヴィンスキーを一度も聴かず、せいぜいワーグナーまでしか知らなかった人がこの「ペレアスとメリザンド」を聴けば、とりあえずはびっくりしたに違いない。初演は酷評の嵐だったそうだ。ま、それも束の間、すぐ理解者を得て興行は成功したようだが。

内容をうまく説明するのは力不足なので簡単に…と言うか、自分のための備忘録として気がついたことを書いておこう。

掻い摘んでいえば、オペラからアリアをなくした。
ここ一番、といった聴かせどころをなくした。
不自然な大音声はなく、語られるような旋律で人間の感情が忠実に音楽化されている。
必要な長さだけ歌われ、音楽形式上の都合で表現が断ち切られることはない。言葉(感情表現)こそ主で言葉が音楽に合わせるのではなく、音楽が言葉に合わせる。
調性は無い(古典派以来の調性はない)し、律動もない(と言っていいと思う)ので、着地点の予想はつかず、ひたすら音楽が揺蕩う。

管弦楽も登場人物の感情表現に奉仕するので、それを外れて器楽的クライマックスというものはない。序曲もファンファーレもコーダ(終結尾)の昂ぶりもなし。

まあ、この辺の音楽的特徴や物語のあらすじなどは事前の予備知識として持っていたが、休憩を入れて3時間20分という大作。
果たして、全編を楽しむことができるかが大いに疑問であった。

結果的には、マエストロ(シャルル・デュトワ)には申し訳ないけどウトウトする場面もあった。
いや、この音楽はそもそも、聴いている者を夢か現かといったまどろみに誘ってくれるのだ。聴きながらウトウトするのは敢えてそうありたいとコチラが願うような状況になってしまうから…というのは言い訳にすぎないかもしれないけど。

物語そのものがよく分からない。いや、分かるけど納得できない内容だ。あれこれ言い出すときりがない。
登場人物がなぜそういうキャラクタ設定なのか、が分からない。例えば、老いた王は盲目。主人公格のゴローとペレアスは異父兄弟。ゴローには妻がいないが前妻の子がいる。メリザンドは何者か一切の説明がない。そういう特異な設定にする以上、その設定が物語の展開に必須の役割を果たすべきである…。
と、思っているようでは「象徴主義」は理解できないようだ。
多分、大切なのは、そういうガチガチの有機的な構成とは無縁の心の蠢きなのだろう。

いろいろ感ずるところはあったし、決して飽きることはなかった。

こんなに大掛かりな作品を演奏会形式とはいえなかなか聴く機会はないだろう。次に聴くときは「象徴主義」の詩作に馴染んで、ドビュッシーの心境に十分思いを馳せて臨まねばなるまい。


♪2014-113/♪NHKホール-07

2014年12月1日月曜日

神奈川フィル フレッシュ・コンサートVol.9 未来へと飛び立つ次世代の旗手たち

2014-12-01 @みなとみらいホール


現田茂夫(名誉指揮者):指揮
大江馨【ヴァイオリン】(2013年日本音楽コンクール1位入賞)
阪田知樹【ピアノ】(2013年ヴァン・クライバーン国際コンクール入賞)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」序曲
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
----------
パガニーニ:「24のカプリース」より第24番(Vnソロ)
ラフマニノフ/坂田知樹編曲:歌曲「ここは素晴らしい所」作品21-7(Pfソロ)


「フレッシュコンサート」というのは、神奈川フィルが神奈川県に縁のある若き俊英をソリストに迎えて演奏の機会を提供し、応援しようという企画だ。
主に20歳代前半(今回のバイオリンの大江くんは94年、ピアノの阪田くんは93年生まれ。)で、著名なコンクールの優勝・上位入賞者が招かれている。


今回も、バイオリンの大江くんは63回全日本学生音楽コンクール(⇒学音)優勝者であり、82回(昨年)日本音楽コンクール(⇒日音)第1位というから、素直にすごい。

ピアノの阪田くんも61回学音2位、昨年のヴァン・クライバーン国際コンクールその他いろいろ入賞というからこちらもなかなかのスグレモノなのだろう。

今日(12/06)、たまたまNHKTVが今年の日音の最終審査の様子をドキュメンタリーとして放映したのを興味深く見た。
熾烈な競争というより、結局は自分との闘いを制した者が勝利するのではないかと思いながら見ていたけど、このレベルになると技術や音楽性の違いなど僕に分かるはずもない。

少なくとも、練習を積んできた挑戦曲に関しては、もう出来上がっているのではないかと思えるような演奏ぶりだった。


さて、「フレッシュコンサート」の2人が披露した曲は、いろんなコンクールでも弾いた曲だったのかもしれない。すると、今、2千人のお客様の前であらためて「演奏家」として演奏することに大きな興奮や感慨があっただろうなあ。

2曲とも叙情性たっぷりの曲なのでベタベタになりやすい気もするけど、そこは若いとはいえど磨き上げた感性がケレン味を抑えていたのではないか。心地よく楽しめた。

横浜在住など、横浜と縁のある2人なので、今後も聴く機会があるだろう。若い才能がすくすく育って再会できた時に果たして僕の感覚はボケていないだろうか心配だが。

余談:
先月末に第68回学音の横浜市民賞選定員としてバイオリン部門を聴きに行った際に、一般的にはその作品が知られていないヴィエニャフスキの作品を弾く子が多くて、どうしてかなあ、と思っていたら、この作曲家はバイオリンの名手で、その名を冠した国際コンクールがおよそ5年に1回開催されていることを知り、前回の「フレッシュコンサート」(今年3月)に登場したバイオリンの小林美樹さんが直近(2011年)の同コンクールで2位だったことを記録を手繰って知った。

因みに、今をときめく神尾真由子(07年チャイコフスキー・コンクール優勝)もヴィエニャフスキ~の2001年の第4位だというのだから、このコンクールは相当ハイレベルなのだろう。

という事情からもこの「フレッシュコンサート」に登場する新人たちがかなりの腕利きだということが分かる。


♪2014-112/♪みなとみらいホール大ホール-48

2014年11月30日日曜日

第68回全日本学生音楽コンクール全国大会in横浜 バイオリン部門中学校の部

2014-11-30 @みなとみらいホール

<コンクール時の写真ではありません>


参加者:地方予選を勝ち抜いてきた中学生13人

バイオリン部門中学校の部入賞者

第1位 山影頼楓(やまかげ・らいか)
第2位 三谷本太一(みやもと・たいち)
第2位 清水怜香(しみず・れいか)
第3位 森山まひる(もりやま・まひる)
横浜市民賞 真田大勢(さなだ・たいせい)

27日のフルート部門(中学校の部/高校の部)
に続いて今日は、バイオリン部門中学校の部だ。

バイオリンは小学校、高校の部もあるけど、僕が忙しくて応募しなかった。ついでに、ピアノ部門は応募したけど選に漏れてしまった。

バイオリンはフルートと異なって演奏人口が多く、このコンクール出場者も多いのだろう。全国大会出場者は絞られているから同じ中学校の部のフルート部門より3人多い13名に過ぎなかったけど、厳しい競争を親子一丸となって勝ち抜いてきたからだろうが、付き添い保護者の多いこと。
フルート部門は会場はガラガラだったけど、バイオリン部門はほぼ満席状態だった。いやが上にも気持ちは高ぶるだろう。

バイオリン部門も過去2年も選定員として関わてきたので、顔なじみもあった。
67回の中学の部の参加者が3人、66回の小学校の部の参加者が1人、気がついたが、ほかにも混じっていたかもしれない。

フルートの部では誰が1位になるかという僕の予想は当たったのだけど、バイオリンに関しては今回もみんなのレベルが高くて、技術的な面や音楽性の面で、際立った子は居なかったように思ったのだが、専門家の耳には将来性も含めて判断可能なんだなあ、というか判断しなくちゃいけないものな。

全員自由曲を弾くが、13人中3人がヴィエニャフスキのバイオリン協奏曲第1番第1楽章を弾いた。同じ作曲家のバイオリン協奏曲第2番や別の作品を選んだ子もいて、結局ヴィエニャフスキの作品が6人に選ばれた。
過去の記録を手繰ってみるとやはりこの作曲家の作品を何人かが選んでいる。よほどコンクール向きなのだろう。

一体何者なのだ?
Wikipediaによると「1835-80年。ポーランドのヴァイオリニスト・作曲家。驚異的な技巧と情熱による華麗な演奏が知られ、その作品もまたスラヴ的情緒と名人芸的要素により今日なお愛される。1935年には彼の生誕100年を記念して、現在でもヴァイオリニストの登竜門として知られるヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールが創設された」…とある。
ブラームス、サン=サーンス、ビゼー、ブルッフなどと同じ頃の人だ。

さらにヴィエニャフスキ・コンクールについて調べると、第2回目以降はほぼ5年に1回開催され、第6回(72年)以降は日本人が常に上位入賞している。
いずれはこのコンクールにも出場を果たしたいという思いが今回の選曲にも反映しているのかもしれないな。

それにしても5年に1回って…どういう思想なんだろ?
最新の第14回(11年)は小林美樹が第2位だが、この人の演奏は今年だけでも2回聴いている。

…と脱線したけど、日本人好みなのかな。バイオリンの技巧を聴かせるのにはふさわしいのだろう。





横浜市民賞の選定基準は「演奏に感動したこと。もう一度聴きたいと思ったこと」という極めて主観的なものだ。選定員それぞれによって演奏から受ける印象は異なるだろうけど、そのために大勢の選定員が選ばれている。
投票結果を見ると、自分の意中ではないとしても、なるほどなあというところに落ち着くのが面白い。


♪2014-111/♪みなとみらいホール小ホール-47

2014年11月29日土曜日

読売日本交響楽団第76回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2014-11-29 @みなとみらいホール



シルヴァン・カンブルラン:指揮
読売日本交響楽団

モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
シューマン:交響曲第3番 変ホ長調作品97「ライン」
ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調作品55「英雄」


「魔笛」序曲はともかく、「ライン」は思い出せないくらい久しぶりだし、「英雄」は2月に聴いたけどその折も感ずるものがあったのでとても楽しみな組合わせだった。

そして、新たな発見というか音楽体験をした。

2月に金聖響+神奈川フィルで聴いた際にも「英雄」という作品の凄さの片鱗を感じたのだけど、今回はそういう次元ではなかった。
音楽の神の啓示を聴いたような、と大げさだけど、そんな気がしたなあ。神なんて信じていないけど、音楽の神はいるのかもしれないな。

シューマンは好きだし、「ライン」はとても良い感じで聴いた。
その後に「英雄」だ。ずいぶんと聴き馴染んだ作品で、心地よく楽しめるに違いない。そう思ってリラックスして聴いていたが、音楽が進んでゆくに連れ、いつもは感じないものを感じ始めた。
この感覚はどう説明すればよいのか分からないのだが、次から次へと表れる曲想は、聴き飽きるほど聴いているのにもかかわらず、この日はいちいちがとても新鮮だ。
よく思いつくなあと思うくらい突飛で新鮮なメロディーが噴き出してくるのだけど、すべての曲想は必然的に一つの形に収まってゆくのが奇跡にも思える。
おお、これこそがベートーベンの真髄なのか。
僕はようやく今、その入口に立っているのか、と思った。

こんな経験は初めてのことだ。
アマオケ時代、第九の演奏中に、やはり説明し難い感興高まる経験をしたことがあったが、それとは違う。

演奏・解釈が素晴らしかったから…でもないと思う。
シューマンの後に続けて聴いたのがそういう効果を齎したのかもしれないけど、だからといって、家でCDを聴いていたんでは到底得られない感覚だ。

よく分からないけど、体調のせいもあったのかな。
次回聴くときには多分今回経験した感覚は味わえないだろうけど、しっかり、感覚を研ぎ澄ませて聴いてみようと思う。

ところで、この奇妙な体験とは別に、今回は面白い勉強ができた。

プログラムに実に興味深い解説が出ていたので、端折って紹介しよう。

「魔笛」、「ライン」、「英雄」(特に後2者)に共通する「3」の不思議。

「ライン」も「英雄」もシューマンとベートーベンの交響曲の第「3」番である。「魔笛」にも「3」が散りばめられているそうだが、煩雑なので省略。

3曲はいずれも調性は変ホ長調。つまり♭が「3」つだ。

そして、「ライン」と「英雄」はいずれも「3」拍子で始まる。
<プログラムから>

「ライン」と「英雄」はヘミオラ(3拍子が2拍子に聴こえる書法)が取り入れられている。
この3拍子とも2拍子とも聴き取れる不安定さが音楽をスリリングにしているが、宗教的あるいは文化史的に西洋人の「3」に対するこだわりが音楽に表現されているとも解説してあって、興味深いのだけど、ここいらも端折る。

「英雄」の第3楽章トリオ部分では、ホルンが3本使われているが、当時の標準編成は2本だったところ、わざわざ3本というのも意味があるのかも、と解説は示唆している。

余談ながら、この3曲の楽器編成も非常に似通っている。まあ、そういう時代だったということかもしれないのだけど。

魔笛 ⇒Fl2、Ob2、Cl2、Fg2、Tr2、Hr2、Tb2、Tp、弦楽5部
ライン ⇒Fl2、Ob2、Cl2、Fg2、Tr2、Hr4、Tb3、Tp、弦楽5部
英雄 ⇒Fl2、Ob2、Cl2、Fg2、Tr2、Hr3、 無、 Tp、弦楽5部


♪2014-110/♪みなとみらいホール大ホール-46

2014年11月27日木曜日

第68回全日本学生音楽コンクール全国大会in横浜 フルート部門中学の部/高校の部

2014-11-27 @みなとみらいホール



参加者:地方予選を勝ち抜いてきた中学生10人、高校生14人

フルート部門中学校の部入賞者

第1位 脇坂颯(わきさか・ふう)
第2位 古賀奏美(こが・かなみ)
第3位 齋藤遥(さいとう・はるか)
第3位 靏野帆香(つるの・ほのか)
横浜市民賞 齋藤華香(さいとう・かこ)

フルート部門高校の部入賞者
第1位 清水伶(しみず・りょう)
第2位 山本英(やまもと・はな)
第3位&横浜市民賞 園田賀家⇒そのだ・かえ


日本音楽コンクール(1932年~)の後塵を拝して学生のみを対象として1947年に始まった。いずれも毎日新聞の主催、NHKも主催又は後援している。

2007年からは横浜で全国大会(チェロだけは東京大会が同時に全国大会となっている。参加人数が少ないからだろう)が開かれるようになって、それを機に本選の1位~3位とは別に各部門に横浜市民賞が送られることになった。




今年の例はチェロを除いて、
①フルート部門(中学校の部/高校の部)
②ピアノ部門(高校の部/小学校の部/中学校の部)
③バイオリン部門(小学校の部/中学校の部/高校の部)
④声楽部門(高校の部/大学の部)
と、計4部門10部に順位が決められ、各部毎に横浜市民賞が送られる。



この横浜市民賞を選定するのが、各部毎に応募に拠って決められた横浜市の横浜市民を代表する市民賞選定員であって、これに僕はここ3年連続して応募している。
その当選倍率はどれくらいか分からないけど、まあ、半分以上の確率で当選するようだ。
今年、ピアノ部門は応募できなかった(他の用事と重なった)し、応募した部について外れたものもある。

応募すると缶詰状態になって、彼らの演奏を審査員と一緒に聴くことになる。
しかし、横浜市民賞は、あくまでも素人の目に、耳に感動を与えてくれたかどうかが選定基準なので、楽器や音楽の専門家である必要はないし、むしろそれは邪魔なのかもしれない。




一つの部門の一つの部にだいたい二十数人~三十人位の選定員が選ばれ、各部門の各部毎に演奏終了後30分程度で投票して1人を選出するのだ。
技量とは関係ないのだけど、終わってみると、やはり本選で入賞した人が横浜市民賞を受けることが多いように思う。
アマチュアの目も、否、耳もまんざらではないのだ。



余談ながら、今日のフルートの中高生の各部門の優勝者は市民賞とは別に僕が多分この子だな、と思ったとおりの人が1位になった。素人目にも群を抜いていたように思った。

個人的にはこれらの部門・部に3年間選定員として継続して関わりあってきたので、出場者の多くが顔なじみだ。


高校1位の清水くんも一昨年は中学の部で1位、昨年は全国大会には姿を見せなかったが、今年は捲土重来で高校1位に輝いた。
高校の横浜市民賞の園田賀家(かや)さんは一昨年も出場だったが入賞ならず、昨年は姿を見なかったが、今年は3位入賞を果たし市民賞も獲得。僕より背が高くなっている!
彼らのこの2年間の確かな成長を目の当たりにして自分はどうか?とは思わないことにする。

♪2014-109/♪みなとみらいホール小ホール-45