2014年12月7日日曜日

N響第1796回 定期公演 Aプログラム

2014-12-07 @NHKホール


シャルル・デュトワ:指揮

ペレアス:ステファーヌ・ドゥグー(Br)
ゴロー:ヴァンサン・ル・テクシエ(Bs/Br)
アルケル:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(Bs)
イニョルド:カトゥーナ・ガデリア(Sp)
医師:デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(Br)
メリザンド:カレン・ヴルシュ(Sp)
ジュヌヴィエーヴ:ナタリー・シュトゥッツマン(Ct)コントラルト
東京音楽大学:合唱
NHK交響楽団

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(演奏会形式)


「ペレアスとメリザンド」という音楽作品は数種類あり、それらの中ではフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」の中の「シシリエンヌ」という曲がいろんな器楽曲に編曲されていて聴く機会が多いので馴染んでいるが、他の作曲家(シベリウス、シェーンベルク)はもちろん、今回聴くことになったドビュッシーの作品については存在を知るのみで自覚的に聴いたことはなかった。

メーテルリンクが戯曲「ペレアスとメリザンド」を発表したのが19世紀末。どこが良かったのか、大勢の作曲家が一斉に飛びついて、上に記した4人のほかウィリアム・ウォレスという作曲家も加えて少なくとも5人が音楽にしたのが2000年から2005年という時期に集中している。

メーテルリンクは「象徴主義」の詩人と言われているらしい。
「象徴主義」を広辞苑で引けば「リアリズムに対抗し、象徴作用によって内的世界を表現しようとする芸術思潮。」とある。

他の作曲家は知らないが、ドビュッシーにとっては、「牧神の午後への前奏曲」(1894年)で骨格を固めた独自の作曲手法を発展させるには格好の題材だったのだろう。
メーテルリンクの台本をそのまま活用してオペラとして完成させた(初演は1902年)。
「ワーグナーから影響を受けたライトモティーフの技法を用いながらも、全音音階や平行和音、小節線から自由になったリズム法など新しい作曲法を導入し、メーテルリンクの原作よりもいっそう深い意味をもった作品を作り上げた」(世界大百科辞典)。

かくして、ドビューッシーによる「ペレアスとメリザンド」の完成は20世紀初頭の音楽界を揺るがす大事件となったらしい。



確かに、現代に生きる我々は、ベートーベンを聴いて、次にルネサンス音楽を聴き、ストラヴィンスキーを聴くかと思えばドビュッシーも聴き、次にシューマン、といったふうに音楽史を自在に行ったり来たりしていろんな時代の音楽を楽しんでいるために、ドビュッシーだけではなく、バッハの改革もベートーベンの新工夫もワーグナーの発明も、ショスタコーヴィチの跳躍も、その時代の人のような衝撃を持って受け止めることができないのだけど、もし、シェーンベルクやストラヴィンスキーを一度も聴かず、せいぜいワーグナーまでしか知らなかった人がこの「ペレアスとメリザンド」を聴けば、とりあえずはびっくりしたに違いない。初演は酷評の嵐だったそうだ。ま、それも束の間、すぐ理解者を得て興行は成功したようだが。

内容をうまく説明するのは力不足なので簡単に…と言うか、自分のための備忘録として気がついたことを書いておこう。

掻い摘んでいえば、オペラからアリアをなくした。
ここ一番、といった聴かせどころをなくした。
不自然な大音声はなく、語られるような旋律で人間の感情が忠実に音楽化されている。
必要な長さだけ歌われ、音楽形式上の都合で表現が断ち切られることはない。言葉(感情表現)こそ主で言葉が音楽に合わせるのではなく、音楽が言葉に合わせる。
調性は無い(古典派以来の調性はない)し、律動もない(と言っていいと思う)ので、着地点の予想はつかず、ひたすら音楽が揺蕩う。

管弦楽も登場人物の感情表現に奉仕するので、それを外れて器楽的クライマックスというものはない。序曲もファンファーレもコーダ(終結尾)の昂ぶりもなし。

まあ、この辺の音楽的特徴や物語のあらすじなどは事前の予備知識として持っていたが、休憩を入れて3時間20分という大作。
果たして、全編を楽しむことができるかが大いに疑問であった。

結果的には、マエストロ(シャルル・デュトワ)には申し訳ないけどウトウトする場面もあった。
いや、この音楽はそもそも、聴いている者を夢か現かといったまどろみに誘ってくれるのだ。聴きながらウトウトするのは敢えてそうありたいとコチラが願うような状況になってしまうから…というのは言い訳にすぎないかもしれないけど。

物語そのものがよく分からない。いや、分かるけど納得できない内容だ。あれこれ言い出すときりがない。
登場人物がなぜそういうキャラクタ設定なのか、が分からない。例えば、老いた王は盲目。主人公格のゴローとペレアスは異父兄弟。ゴローには妻がいないが前妻の子がいる。メリザンドは何者か一切の説明がない。そういう特異な設定にする以上、その設定が物語の展開に必須の役割を果たすべきである…。
と、思っているようでは「象徴主義」は理解できないようだ。
多分、大切なのは、そういうガチガチの有機的な構成とは無縁の心の蠢きなのだろう。

いろいろ感ずるところはあったし、決して飽きることはなかった。

こんなに大掛かりな作品を演奏会形式とはいえなかなか聴く機会はないだろう。次に聴くときは「象徴主義」の詩作に馴染んで、ドビュッシーの心境に十分思いを馳せて臨まねばなるまい。


♪2014-113/♪NHKホール-07