2014-12-12 @国立劇場大劇場
中村吉右衛門⇒唐木政右衛門
中村歌六 ⇒山田幸兵衛
中村又五郎 ⇒誉田大内記/奴助平
尾上菊之助 ⇒和田志津馬
中村歌昇 ⇒捕手頭稲垣半七郎
中村種之助 ⇒石留武助
中村米吉 ⇒幸兵衛娘お袖
中村隼人 ⇒池添孫八
嵐橘三郎 ⇒和田行家/夜回り時六
大谷桂三 ⇒桜田林左衛門
中村錦之助 ⇒沢井股五郎
中村芝雀 ⇒政右衛門女房お谷
中村東蔵 ⇒幸兵衛女房おつや
ほか
近松半二ほか=作
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言伊賀越道中双六 五幕六場
国立劇場美術係=美術
序 幕 相州鎌倉 和田行家屋敷の場
二幕目 大和郡山 誉田家城中の場
三幕目 三州藤川 新関の場
同 裏手竹藪の場
四幕目 三州岡崎 山田幸兵衛住家の場
大 詰 伊賀上野 敵討の場
「伊賀越道中双六」は、昨年の11月に同じ国立劇場で通し狂言として上演された。それが初見だったが、なかなか面白かった。
「沼津」の幕が有名で、単独でも上演されるそうだ。
仇討ちをする和田志津馬とこれを助ける唐木政右衛門が主人公と言っていいと思うが、見どころとされている「沼津」では登場しない。
「沼津」は、今は敵味方に分かれた実の親子の再会が一転して悲劇に終わる話で、なかなか味わい深い。
しかし、この話はいわば仇討ちの本道からは逸れた脇道だ。
一方で、この時の公演では悲惨極まりない「岡崎」の場面が省略された。省略されることのほうが多いらしい。
ま、普通の観客の好みで言えば「岡崎」より「沼津」を観たいだろう。
ところで、今回の「伊賀越道中双六」ではその「沼津」が省略され、「岡崎」が上演された。歌舞伎では44年ぶりだそうな。
ほかにも昨年の公演とはだいぶ構成が異なっていた。
いわゆる「饅頭娘」*と言われる「政右衛門屋敷の場」もなくなり、「沼津」が省略され、これらに代わって「藤川」と「岡崎」が置かれた。
換骨奪胎だが、それでも成り立つのが歌舞伎という演劇の面白さなんだろうな。
今回の構成で、仇討ちモノとしては、スッキリと分かりやすくなったように思う。志津馬と政右衛門を軸に話が展開するからだ。
「藤川 新関の場」では志津馬<菊之助>が、「同 竹藪の場」では政右衛門<吉右衛門>が中心となり、「岡崎」も政右衛門と元の妻の芝居が凄絶で見応えがある。
「饅頭娘」が省略されているので、「岡崎」への話のつながりが分かり難い(お谷が巡礼している理由)ところもあるけど、やむを得ないか。
「岡崎」では、幸兵衛<歌六>の屋敷に、運命の糸で手繰り寄せられるように、それぞれの身柄を偽った志津馬、政右衛門と巡礼になったお谷が出会うことになるが、とりわけ、お谷とその乳飲み子(政右衛門の子)が哀れだ。お谷を救えない、そして我が子を手にかけて刺し殺す政右衛門も哀れだ。
すべては、仇討の本懐を遂げるためである。
この凄絶な葛藤は役者にとっても浄瑠璃語りにとってもなかなか至難の芸らしく、達者が揃わなければ上演できないと言われるのも宜なるかなである。
吉右衛門も芝雀も、迫真の芝居だったと思う。
吉右衛門には政右衛門として立ち回りも何度もあるが、やはり、この悲痛この上ないお谷とのやりとりの場面が一番いい。
芝雀も哀れを誘う。
志津馬に一目惚れしてしまった幸兵衛の娘お袖を演じた米吉くんがとても色っぽく可愛らしく、最後は意外な覚悟を見せてなかなか良かった。
志津馬役について言えば、菊之助はとても似合っていた。昨年の公演では虎之介くんで、存在感はいまいちだったが、これは志津馬が引き立つような演出ではないので仕方なかったろうと思う。
筋に戻れば、「岡崎」の我が子を殺した後の場面、幸兵衛の剣術の腕が衰えていないのを見て政右衛門が「まだお手の内は狂いませぬな、ハハハ~」と持ち上げるところなどは、いやはや男どもは呆れたものだと笑えてしまう。このやりとりはない方がいいと思う。
武家社会の義理や面子が、夫婦・親子の情愛を蹴散らしてしまうバカバカしさをもっと直截に工夫できないものか、と思ったが、そこに力点を置けば古典の枠からはみ出てしまうのだろうなあ。難しいところだ。
*政右衛門は、義理の弟(厳密には内縁の妻お谷<芝雀>の弟)の(父和田行家<橘三郎>を殺した沢井股五郎<錦之助>に対する)仇討ちの助っ人になるために、お谷を離縁(?)し、お谷と志津馬の異母妹でまだ7歳のおのちと正式に結婚するのだが、その幼い花嫁は結婚の場で三三九度の代わりに饅頭を欲しがることから「饅頭娘」と言われている。
内縁関係のままでは助太刀できないという理由によるけど、ならばこの際(結婚に反対していたお谷の父は殺されたのだから)、お谷と正式に祝言を上げれば済んだのではなかったかと思うけど、それでは話が盛り上がらないか…。歌舞伎が追求するのはリアリズムじゃないものな。
♪2014-114/♪国立劇場-07