2014年10月29日水曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.61 神奈川フィル名手による室内楽③

2014-10-29 @みなとみらいホール


古山真里江:オーボエ(神奈川フィル首席)
鈴木一成:ファゴット(神奈川フィル首席)
久下未来:ピアノ

J.W.カリヴォダ:オーボエとピアノのためのサロンの小品 作品228
サン=サーンス:ファゴットとピアノのためのソナタ 作品168
F・プーランク:オーボエ、ファゴットとピアノのための三重奏曲 FP43
--------------
アンコール
ベートーベン:3つの二重奏曲第1番 ハ長調 WoO.27 から第1楽章


オーボエ、ファゴットが主役のミニ・リサイタル。
もちろん、ピアノも入っている。

こういう楽器の組み合わせは初めてだった。
3曲とアンコールの断章を聴いたが、どの作品も初めて。

オーボエもファゴットも神奈川フィルのそれぞれのパートの首席なので、演奏面では何の不安もなかったが、ピアノとのアンサンブルが難しいように思ったのは、僕の体調が良くなかったせいかもしれないが。

まずは、オーボエとピアノによる小品。
カリヴォダ(チェコ/1801-1866)なんて作曲家の名前も初めてだったが、年代的にはメンデルスゾーン、ショパン、シューマンなどと同じロマン派に属するようだ。
メランコリックな曲調で始まり、旋律の豊かな民謡風な作品だ。
ところどころ、オーボエの聴かせどころが配されていてる。オーボエ吹きの世界では有名な曲らしい。


次がファゴットとピアノのソナタ。
ファゴットの名曲だそうだ。サン=サーンス(フランス/1835-1921)はこの時代の作曲家にしては長生きで86歳で歿したが、その亡くなる年に書いたもので、作品番号は最後の一つ前だ。

ピアノのアルペジオに乗ってロマンチックなメロディーが始まる。
とにかく、まったく老境を感じさせない、若々しい曲だったのは驚きだ。特に第2楽章はテンポも早くファゴットの技術も相当難度が高いのではないかと思った。

最後に3人揃ってプーランク(フランス/1899-1963)のピアノトリオ。
年代的にはサン=サーンスの作品とさほど変わらないが、こちらは新しい感覚を感じさせる。冒頭からしてドビューシートなんかをイメージさせる。フランスぽい。第2楽章はうって変わって牧歌的。
第3楽章は忙しい。
全曲を通じて気分が変わりやすいのが、良いのか悪いのか。


アンコールにベートーベンの二重奏曲から一楽章を演奏してくれたが、これがオーボエとファゴットの二重奏だ。
もともとはクラリネットとファゴットのための作品らしい。
およそベートーベンの声楽以外の作品で演奏会で取り上げられるような作品なら知らない曲はないだろうと高を括っていたが、あるんだなあ。
ピアノが入らないので、2本の木管楽器がよく調和して響も明瞭で、実はこの曲が一番楽しめた。
ところが、この曲は、贋作の疑いがかかっているそうだ。
しかし、いかにもベートーベンらしい音楽なのだけど、それだけにかえって怪しいということかも。

♪2014-98/♪みなとみらいホール小ホール-38

2014年10月25日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第664回東京定期演奏会

2014-10-25 @サントリーホール


アレクサンドル・ラザレフ[首席指揮者]
日本フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:弦楽セレナーデ ハ長調 作品48
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 作品43


昨日も神奈川フィルでエルガーの「弦楽セレナーデ」を聴いたが、今日はあらゆる「弦楽セレナーデ」*の中で、最も有名なチャイコフスキーのものだ。

当然、弦楽器のみ。
それも昨日の神奈川フィルよりやや編成が大きく60人前後いたのではないか。

何しろ、第1楽章冒頭のメロディがあまりに有名だ。
主調はハ長調だが出だしの和音はCではなくAmで非常に甘美で切ない。しかも全楽器の強奏だ。もうそこで気持ちを鷲掴みされてしまう。


第2楽章も耳タコの流れるようなワルツ。
第3楽章が悲愴を思わせるようなエレジー。
第4楽章はロシア民謡を取り入れた緩やかな序奏がアップテンポでリズミカルな形に姿を変えいついには第1楽章冒頭のメロディーに回帰してクライマックスを迎える。

やっぱり、弦楽セレナーデの王様だろうな。

指揮のラザレフはロシア人だからという単純な理由だけではないだろうけど、日フィルの首席指揮者として、「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズと銘打ってロシア人作曲家の作品を定期では多く取り上げている。いわばチャイコフやショスタコは自家薬籠中のものなのだろう。


メインのショスタコの4番は壮大な曲だった。
全部で15曲ある交響曲の中では、先日聴いたばかりの第7番が一番演奏時間が長いようだ(約75分)が、その次のグループに属しておよそ60分。
オーケストラ規模は15曲中最大の130人を要するそうで、これは「千人の交響曲」と同規模だ。

ショスタコは1936年に(交響曲<全15曲>でいえば第3番を作った後)、オペラ作品などでいわゆる「プラウダ批判」を受けた。
そのために、既に完成していたこの第4番交響曲を封印した。
そして共産党受けする第5番で汚名返上・名誉挽回に成功する。

が、しかし、すぐには封印を解かなかったのは、内容の斬新さが再度批判を呼ぶ可能性を恐れたのか、作品に対する自分自身の不満があったのか、その両方なのか、ともかく、実際に初演されるのは四半世紀後の1961年のそれも年末ギリギリになってからだった。

音楽家人生を翻弄されたショスタコを象徴した作品と言える。
放送でも聴いたことがなかったしCDも持っていないので、まるきり初めて聴いた長大音楽だったけど、大オーケストラのハイ・ダイナミックレンジと、ところどころ調性が不明になるいかにもショスタコらしい節回しが断片的に混じっていて、案外、存外楽しめた。

全3楽章で、どの楽章も最弱音で終わる。

最終楽章など、チェレスタが数回弱々しく響き、ついには残響さえも消えてホール全体が完全静寂になっても、なお、指揮者ラザレフのタクトは宙に浮いたまま。
恐竜の完全に息絶えたのを確認するかのように20秒から30秒ちかく時間が止まっていたのではないだろうか。
確かに、現実世界に立ち戻るにはそれくらいの時間を指揮者も必要だったろうし、聴衆にも必要だった。


*参考までにNeverまとめでは、弦楽セレナーデを37曲リストアップしている。

♪2014-97/♪サントリーホール-06

2014年10月24日金曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第303回定期演奏会

2014-10-24 @みなとみらいホール


湯浅卓雄:指揮
石田泰尚:バイオリン【ソロ・コンサートマスター】
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

E.エルガー:弦楽セレナーデ ホ短調Op.20
コルンゴルト:バイオリン協奏曲ニ長調Op.35
エルガー:交響曲第3番ハ短調Op.88(アンソニー・ペイン補筆完成版)


コルンゴルト(オーストリア⇒アメリカ。1897-1957)という作曲家の存在は今年3月の読響の定期でバイオリン協奏曲ニ長調が取り上げられるまでは知らなかったが、オーケストラでは既に人気者のようで、その後も日フィルで聴き、今日が3度目だった。

それまでのほぼ半世紀にわたる我がクラシック音楽愛聴史はなんだったのか、と言われそうだが、日本でコルンゴルトの作品が初演されたのが1989年で(このバイオリン協奏曲)、評価が確立したのは没後50周年(2007年)だというから、聴く機会がなかったのも無理はないかもしれない。

映画音楽を多く手がけた人で、この作品も自作の映画音楽を散りばめているらしいが、そもそもオリジナルを知らないのでよく分からないけど、現代の作品にしてはとても親しみやすい。

神奈川フィルの名物男、石田泰尚がソロを弾くとあってか、普段の定期よりお客の入りがよい。それもおばさまたちが多い。
僕の指定席の近隣はいつも一つ空いていたが、今日は御婦人が埋めておられた。今回だけのチケットを入手されたのだろう。

石田氏はもちろんとても上手なのだけど、力の入ったオーバージェスチャーも一層ファンを沸かせる。



エルガー(英国。1857-1934)の2作品はいずれも初めて聴くものだ。
弦楽セレナーデは文字どおり弦楽器のみで演奏されるが、かなり大きな編成だったので、透明感を持ちながら厚い響が魅力的だった。

音楽はコルンゴルトより40歳も年上、というより40年も前の人だけど、それだけに明確な調性と歌える旋律を持っている点でコルンゴルトより一層親しみやすい。
第1楽章(全3楽章構成)を聴いた時、すぐに加古隆の音楽を思い出した。たとえはあべこべだけどそういう親しみやすさだ。

さて、問題は交響曲第3番。未完成である。
エルガー自身は第1楽章の冒頭部分しか総譜化していないそうだ。ただ、ジグソウパズルのピースのような状態の断片スケッチが遺された。
アンソニー・ペインという人は作曲家であり、研究者でもあったので、BBCの依頼を受け補筆完成させた、というのだけど、補筆部分の方がずっと大きい(長い)ので、エルガーの交響曲第3番というより、エルガーの着想によるペインの交響曲と言った方が正しいのじゃないかという気もする。


因みに、Amazonで調べたらCDは1種類しか出ていないようだが、ジャケットのタイトルが興味深い発見だった。
EDWARD ELGAR / The Sketche for Symphony No.3 / 
Elaborated by ANTHONY PAYNE とある。
「ペインによって綿密に練り上げられたエルガーの交響曲第3番のためのスケッチ集」みたいな意味かな。
補筆完成という訳語よりは誕生の経緯に沿ったものだろう。

この補筆完成版の完成は1997年というから、つい最近のことだ。
どこまでがエルガーの音楽なのか、どこまで真筆に肉薄しているのか、分からないけど、まあ、総じてエルガーの作品がそうであるように、難解さとは無縁だが、特に美しい旋律がちりばめられているとか、聴き覚えのある英国民謡が取り入れられているという訳でもなく、ある程度馴染まないと楽しむまでには至らないのではないか。
ただ、管・打楽器がたくさん配置された大規模なオーケストレーションで、近代的な管弦楽技法が駆使されているから退屈するような作品ではない。
コルンゴルド同様に、今後も多くのオーケストラが取り上げるようになるのかもしれない。


第2楽章と第4楽章の終わり方に興味を持ったが、再確認するすべがない(Youtubeでも見当たらない。楽譜も見当たらない。)ので、機会があれば考えてみよう。
休符で終わるというのは、本当の終曲っていつなんだろう?ということなのだけど。ま、どうでもいいようなことなんだ。

♪2014-96/♪みなとみらいホール大ホール-37

2014年10月20日月曜日

10月歌舞伎公演「通し狂言 双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」

2014-10-20 @国立劇場大劇場


松本 幸四郎
中村 東   蔵
中村 芝   雀
市川 高麗蔵
松本 錦   吾
大谷 廣太郎
大谷 廣   松
澤村 宗之助
中村 松   江
市川 染五郎
大谷 友右衛門
中村 魁   春
        ほか

竹田出雲・三好松洛・並木千柳=作
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 四幕五場       
        
   序   幕  新清水の場
   二幕目  堀江角力小屋の場
   三幕目  大宝寺町米屋の場
         難波芝居裏殺しの場        
   四幕目 八幡の里引窓の場


8月、9月に(国立劇場では)歌舞伎公演がなかったので、久しぶりの国立劇場だ。
歌舞伎座の華やかさも悪くないけど、国立劇場はロビーもホワイエも客席もゆったりとしていい。なんたって安価なのが一番いいけど、今月からプログラム代が900円に値上がりしていたなあ。
これとて歌舞伎座の筋書きに比べるとずっと安い。

今月は「通し狂言 双蝶々曲輪日記」で、幸四郎が半世紀ぶりに主人公濡髪を演じたり、染五郎が3役に扮するなどの見どころが前評判。
初めて鑑賞する演目だし、こういう話があるということも知らなかった。それならしっかり予習しておけばよかったけど、その時間もなくて、幕間に筋書きを読みながらの鑑賞だった。

この作品に限ったことではないけど、通し狂言となると、長丁場だし登場人物も多く、なかなか役柄も筋書きも頭に入らない。

プログラムには人物関係図が書いてあったが、これに加えて演じている役者も覚えようとすると並大抵ではない。
せっかくの熱演を目一杯楽しむには、せいぜい劇場に足を運んで目や耳を養わなくてはいかんなあ。


●序幕では、染五郎の(与五郎を助ける与兵衛)二役早替わりが面白く宙乗りも出たのにはびっくりした。

●2幕目の堀江角力小屋の場は面白い趣向だ。
舞台上手に掘建小屋のような角力小屋が作ってあるが、土俵は見えない。見物人が出入り口で押し合いへし合いの中、相撲見物に興じている。
その様子だけで勝負の有様を表現している。

この場面から主人公というべき関取濡髪長五郎(幸四郎)と因縁の仲となる素人力士放駒長吉(染五郎の3役目)が登場する。「双蝶々」というタイトルは、この両者がともに「長」が付く名前であることに由来しているそうだが、ちょいと無理がありゃしませぬか。

ともかく、なぜか結びの一番で二人が勝負をし、大番狂わせが起こる。それを端緒に二人は達引(意地の張り合い。それによる喧嘩)を約束することに。

●3幕目は放駒長吉の実家、米屋の場だ。
弟長吉の日頃の不行跡に業を煮やした姉おせき(魁春)が一策を案じて改心させる。達引に訪れた濡髪長五郎とも仲直りするが、その前には一波乱あり、両者の米俵を投げ合う喧嘩などがおかしくて見ものだ。

濡髪にとって贔屓筋の息子である与五郎と与五郎の恋仲である吾妻(高麗蔵)の身に危険が迫ったことを知り、救出に向かうが、誤って二人の武士を殺してしまい、落ち延びることになる。

●4幕目八幡の里引窓の場。
芝居としてはここが一番面白かった。
南与兵衛の住まいに、濡髪が忍んで来る。
実は(歌舞伎には「実は」が多い!)その家の主の継母お幸(東蔵)は濡髪の実母であった。
いずれ入牢することとなる前に一目実母に会いに来たのだ。
お幸はワケありげな様子の濡髪を2階の部屋に連れて行く。

同じ日、皮肉なことに与兵衛は、めでたく父の跡を継いで代官に取り立てられ、その初仕事が濡髪を捕らえることだった。

お幸はその話を聞いて驚愕する。
先妻の子(与兵衛)が実の子(濡髪)を捕らえるとなっては、居ても立っても居られない。
2階には濡髪が引窓を開けて下の様子を窺う。
それが手水鉢の水面に映ったのを与兵衛も見逃さない。
この緊張の三角関係の中で、母、実子、継子が互いを想う真情が交錯してとてもドラマチックだ。
時は恰も石清水八幡の放生会(魚や鳥を放す儀式)の前夜、というのが良い設定で、得心の大団円を迎えて満足。

♪2014-95/♪国立劇場-05

2014年10月19日日曜日

N響第1790回 定期公演 Aプログラム

2014-10-19 @NHKホール


ロジャー・ノリントン:指揮
フランチェスコ・ピエモンテージ:ピアノ
NHK交響楽団

ベートーベン:序曲「レオノーレ」第1番 作品138
ベートーベン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92
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アンコール
ドビュッシー:前奏曲第2集から第12曲「花火


ロジャー・ノリントン(1934年英国生まれ)は、3年前からN響でベートーベンチクルスを始めて、今年、この10月のプログラムで完結するんだそうな。

ともかく、遅ればせながら、シリーズ最後のプログラムに生で聴く機会を得た。

結果的には、ノリントンのベートーベンを生で聴くというのはちょっとした事件だった。新しい体験だ。
この世界の通人には有名なことらしいが、何が新しいかといえば、「テンポ」と「サウンド」だ。


ノリントンは、テンポはベートーベンが楽譜で指定したとおりのテンポを守る。
もちろん、他のたいていの指揮者も守るのだろうけど、たいていの指揮者は自分なりのテンポを優先させている。
それも一興だが、ベートーベンの場合は、テンポを守るというのがなかなか難しい問題になってくる。
なぜなら、ベートーベンは楽譜上に客観的な演奏速度を指定しているからだ。

彼の時代に発明されたメトロノームを重宝して、譜面にいちいち数値化したテンポを書き込んでいる。♪=120といったふうに。

改めてベートーベンの交響曲のスコアをめくってみたが、第1番から第9番まで全部の作品にメトロノームによるテンポが書いてあるのを確認した。冒頭だけではなく途中の速度変化も、実に細かく数値で指示がある。





指揮者はメトロノームみたいに正確には指揮棒を振ることはできないだろうけど、まあ、4分音符で80といえばこんなところ、という風に身体が覚えているだろう。
ノリントンは特にその点に意識をして正確を期そうとしているようだ。

その結果、以外なベートーベンが演奏されることになる。

プログラムの解説に、ノリントンが昨年N響を振ったベト8第4楽章は6分23秒であったのに対し、同じ頃ティーレマンがウィーンフィル来日公演を指揮した際は8分12秒だったと書いてある。

因みに、手持ちのCDでトスカニーニ+NBCでは7分30秒、朝比奈+新日本フィルでは8分57秒だ。

ノリントンの指揮がトスカニーニよりまだ早いというのにびっくりだが、これもベートーベンご指定のテンポなのだろう。
今日の第7番も全体として早めだった。
早足のベートーベンは、本来の形かどうかは別にして好きだ。
今夏、鈴木秀美の指揮で神奈川フィルの「運命」を聴いた際に、あまりのアップテンポに驚きつつも実に爽快だったが、彼もベートーベンの指示を守っただけなのかもしれない。


もう一つの新体験はサウンドだ。

普通、特に指示がない限り、弦楽器は音を伸ばす際にビブラートをかける。人声による歌でもたいてい伸ばす音にはビブラートをかける。
多用するとみっともないが、自制的なビブラートは感覚的に音を美しくするように思う。

ところが、ノリントンの考えでは、ベートーベンの時代はノン・ビブラートで演奏されたそうで、現在のオーケストラによる演奏においてもビブラートをかけずに演奏すべきである、と主張し、実践している。

もっとも、ベートーベンが生まれる(1770年)前に、既にレオポルド・モーツァルトは「最近の演奏家は全ての音にビブラートをかけるが、神の欲するところだけに使うべき」と書き残している(1756年)そうなので、ノリントンの見解が正確かどうか分からない。

彼は、ベートーベンだけでなく、古典派はもちろん、ロマン派の音楽でさえノン・ビブラートで演奏するそうだから、必ずしも作曲された時代に忠実というのではなさそうで、このノン・ビブラートで演奏されるサウンドを「ピュア・トーン」と呼んで多用しているのは単に好みなのかもしれない。


さて、その音を生で初めて聴いた。
N響がビブラートしないのだ。

確かに、弦楽器奏者の指・腕を見ていても揺れない!
それでいて、そのサウンドにさほどの違和感はないのが不思議。
古楽器の演奏にちょっと似ているが、意識して聴かなければノン・ビブラートとは分からないくらいだ。

短い音型(動機)を積み上げてゆくベートーベンの作品にはビブラートがその効果を発揮するような、センチメンタルな泣き節みたいな部分は殆ど無いから、ノン・ビブラートで疾走しても格別目立たないのだろう。
むしろ、清潔感があってこれは面白い。

それにしても、弦楽器奏者にとって、ビブラートは身体に染み込んでいると思うが、敢えてそれを無しで弾くっていうのが難しいだろうなと思う。
誰か、間違えて腕を揺らさないかと目を凝らしていたがそれはなかったな。

以上「テンポ」と「ピュア・トーン」の2点で、ノリトンの音楽は特異だけど、少なくともベートーベンの作品に関しては、これはこれで楽しい聴きものだ。

♪2014-94/♪NHKホール-05

2014年10月18日土曜日

東京交響楽団第624回定期演奏会

2014-10-18 @サントリーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
庄司紗矢香:バイオリン
東京交響楽団

ヴィチェフ・キラル:交響詩「クシェサニ」
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53
ヴィトルト・ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲
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アンコール
パガニーニ:「うつろな心」による変奏曲から(Vnソロ)



6日前に同じウルバンスキ指揮東響でショスタコの大作を聴いたが、今日は、彼の故郷ポーランドの現代作曲家と隣国チェコの大家ドボルザークのプログラム。

ドボルザークは聴き馴染んでいるけど、ポーランドの2人は初めて聞く名前であり、音楽も初めてだ。

ヴィチェフ・キラルという人は、1932年生まれで2013年(去年!)まで存命だった人だ。その作品交響詩「クシェサニ」(「打つ」とか「閃光」というような意味らしい。)は74年の初演なので、もうとびきりの現代音楽だ。

7分程度の小粒な作品だけど、オーケストラの規模はものすごい。
ティンパニは3人の奏者が計9つを操るのも壮観。
木管、金管の数も非常に多く、これに見合う弦楽5部の総勢もステージに目一杯並んでいる。そして、オルガンも使われた。

この大編成は、ドボルザークを挟んで最後のヴィトルト・ルトスワフスキ(1913~1994)の「管弦楽のための協奏曲」においてもほぼ同様に維持されていた。


コチラの初演は「クシェサニ」より少し古いがそれでも1954年だ。
だからというわけでもないのだろうけど「前衛度」は「クシェサニ」程ではなかったものの、やはり、一体これはなんだろう?というような感じの音楽だ。
2作ともポーランドの民族音楽が取り入れられているそうで、それを感じさせる部分もあるし、そういう箇所はメロディを追うこともできるけど、全体としては強烈な不協和の連続で、こんな音楽ならいっその事調弦しなくともいいのではないかとさえ思わせる。

ところがどっこい。CDで聴けばとても聴くに耐えないだろうが、この100人超のオーケストラで生を聴くと、これがなかなかおもしろいのだ。
また、聴いてみたい、というより、あのプリミティヴな感性を直撃するような体験をもう一度味わってみたいという気にさせる。

ただし、不協和大音響と変質を繰り返す強烈なリズムに浸りながら、「音楽ってなんだろう」と、これはいつも現代音楽を聴く度にもたげる疑問を同居させていたが。



ドボルザークは中規模編成。といっても60人位だろうか、これでもハイドンが見たらびっくりするような大編成だろうけど、この規模で演奏したのは当然なのだろうね。

このスラブぽいちょっとセンチな曲調が、掃き溜めに鶴といった感じでとても安心感を与えてくれた。

ウルバンスキは、前回のショスタコ第7番も完全暗譜で指揮をしたが、今回も3曲とも総譜は持たなかった。
ドボルザークはともかく、他の2曲は極めて複雑な上「~協奏曲」など3楽章構成で30分程度の長さはあるのだけど、よく隅々まで勉強が行き届いているんだろうな。
完全に自分のものにしているのはすごいよ。

♪2014-93/♪サントリーホール-05

2014年10月12日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第101回

2014-10-12  @ミューザ川崎シンフォニーホール


クシシュトフ・ウルバンスキ:指揮
東京交響楽団

ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」


今月は東京交響楽団のコンサートが3回も続くことになった。
前回はオール・プロコフィエフ・プログラム。
今回はオールというかオンリーというかショスタコーヴィチの交響曲第7番だけ。
(因みに次回はチェコとポーランドの作品。)

演奏されるのが1曲だけ、というのは演奏時間が長いからで、プログラムに記載された(予定)時間は75分だ。当然休憩はなし。

この交響曲は、1941年末に完成し、初演は42年3月だった。
この時期は、ちょうどナチス・ドイツによるレニングラード包囲戦(41/9/8~44/1/18。戦闘自体は大掛かりなものではなかったが、交通が遮断されたことで軍人のみならず一般市民の多くが飢餓の犠牲となった。その数100万余人と言われている。)のさなかだ。


ショスタコはレニングラードに生まれ、その時点も暮らしていた。
いわば戦火の中で作曲を続け、第3楽章まで仕上げた後脱出して、当時政府の疎開地であったクイビシェフ(現在のサマーラ)に移り住んでから終楽章を書き上げて完成させたそうだ。

「レニングラード」を書く前(1936年)に共産党から所謂「プラウダ批判」を受け、作風を一変させてかの有名な交響曲第5番(日本では「革命」という副題が付いている。)を発表して熱烈歓迎され、その後は政府の路線に沿った作品を作り続けた。

交響曲第7番もその延長上にあり、対ドイツ戦のプロパガンダの側面は否定できない。
「反ナチズム」を込めたこの大曲の初演は厳しい環境の中だがソ連人民に受け入れられ成功した。

しかし、ショスタコはその後もジダノフ(ジダーノフとも)批判にさらされ、その評価が二転三転した作曲家だ。

第5番の評価・解釈も未だに定まっていないようだが、第7番も同様で、壮大なる失敗作という評があった。今もあるようだ。
一方、ショスタコが残した「証言」によって、第7番は「反ナチズム」というだけではなく、スターリンの圧政も含む「反ファシズム」を描いたものだという話になると、これまた評価が変わってきたようだ。中身は変わっていないのだけど。


音楽という抽象芸術は、生み出された途端、人の手を渡るたびに数々のストーリーを纏うことになる。作曲家の頭の中にあった音楽(コンテンツ)は、純粋な形ではもはや存在し得ない。
スコア(総譜)は共有されても、演奏家の解釈はそれぞれだし、同じ演奏を聴いても聴く耳の数だけの受け取り方がある。
その音楽がこれまでに纏ってきたストーリーが演奏家や聴衆をコンテンツから遠ざけたり過剰評価の原因を作るのだ。

佐村河内事件も、コンテンツがあまりに美しいストーリーを纏って登場していたのに、本人の作品ではなかったことが知られてしまうと、今度は薄汚いストーリーを身に纏うことになってしまった。コンテンツは少しも変わっていないのだけど。

僕は、佐村河内、否、新垣氏の作品が本当は立派なものだとか言うのではない。第一、聴いたことがないのだから好きも嫌いもないのだ。そうではなくて、(少なくとも)音楽はコンテンツが純粋に評価されることはない(作曲技法となると評価できるだろうけど)。
常に、我々はそれが身に纏ったストーリーを一緒に味わっている、ということを言いたいのだ。
良くも悪くも両者は切り離せない。
ストーリーは薄汚れているがコンテンツは美しいと言えればいいだろうけどそう簡単に割り切れない。割り切ってみたところで、その実、それはまたそういうストーリーを新たに付加させるのだ。

クラシック(音楽)は、そのストーリーに安定性がある。各自のストーリーがおよそ共有されるだけの時間を経てきたからだ。
安定評価までには長い時間がかかる。世間一般の評価が安定してきても、各人の受け取り方が一律になる訳ではない。各人には各人のストーリーがある。


で、この「レニングラード」は初めて聴く音楽だった。

でも、随所にショスタコーヴィチらしい旋律が顔を出して、全体として違和感なく受け入れることができた。
4つの楽章にはそれぞれショスタコが描いたイメージがある(最初は副題が付けられていたらしい。)。
「戦争」、「回想」、「祖国の大地」、「勝利」だ。

各楽章、そのイメージに沿って聴いておれば、なるほどそういう感じもする。
ただ、第3楽章は切れ目なく第4楽章に突入するので、そこのところを僕は聴き取れずに少しうろたえてしまった。

この曲も、先日の「千人の交響曲」程ではないにしてもオーケストラは大規模で、トランペット、トロンボーン各3本の組が2組。ホルンは9本。これに見合う弦や木管が並ぶ。
ラストの勝利の雄叫びは強力なものだった。


指揮のクシシュトフ・ウルバンスキも初めて。
ポーランド出身の32歳くらい。
レニングラード包囲戦は祖父の時代の話だろうが、ナチス・ドイツにもソ連にも侵略を受けたポーランド人としては、この曲を指揮するに当って、ショスタコが「証言」に残したように「反ファシズム」のストーリーを展開させたのではないだろうか。

75分の長尺を、暗譜で振り切った。
なんだか、すごいぞ!という感動のさざなみがホールにこだましたような気がした。

これが、僕の「レニングラード」が最初に纏ったストーリーだ。

♪2014-92/♪ @ミューザ川崎シンフォニーホール-11

2014年10月5日日曜日

神奈川県民ホール リニューアル&開館40周年記念 マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」

2014-10-05 @県民ホール


現田茂夫:指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
ソプラノ:横山恵子、並河寿美、菅英三子
アルト:竹本節子、小野和歌子
テノール:水口聡
バリトン:宮本益光
バス:ジョン・ハオ
合唱:県民ホール特別合唱団、湘南市民コール、洋光台男声合唱団、小田原少年少女合唱隊 

マーラー:交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」


マーラーの交響曲は、ブルックナーとともにオーケストラが取り上げる機会が多い。でも、1番(巨人)、2番(復活)、6番(悲劇的)といったところが多く、8番(千人の交響曲)はめったに舞台に上がらない(2011年のN響の演奏会は、19年ぶりだったそうだ。)。
言うまでもなく、演奏に大掛かりな人員を要するからで、僕も生で聴くのは今回が初めてだった。

昨年末から行われていた県民ホールの修復工事が終わって、リニューアルオープンのこけら落としとしてこの大曲が選ばれた。

マーラーは大好き!という訳じゃなく、むしろ若い自分は敬遠していたし今なお懐疑的だ。
でも、オーケストラの魅力という意味では外せない作曲家だし、千人の交響曲は大規模管弦楽に加えて声楽とのコラボレーションの魅力もある。

さりとて、これをテンションを維持したまま聴き通すというのは長時間を要する(約90分)ということもあり、なかなか困難で、これまで、手持ちのCDなど最初から最後までちゃんと聴いた覚えがなかった。

そこで、今回のコンサートを前にしてできるだけ時間を作ってCDやビデオディスクを聴き直した。

結論。
まず、CDで聴く音楽ではない。
CDでも、スコアと翻訳テキストを見ながらなら少しは没入度が高まるが、これも試したけど手間の割に効果は少ない。

やはり、映像付きだ。ビデオディスクを3種類*持っているので一応全部(部分飛ばしながら)視聴した。
テキストは字幕で出てくるし、長大曲の今、どこにいるのか、が分かるのはとても精神衛生に良い。
でも、問題は、(自宅では)大きな音で再生できないということだ。
そう言いながらも結構大きな音を立てているが、腹に堪えるような重低音や耳をつんざく高音は控えなくてはならないということだ。
ま、それでも、CDを聴くより何倍もの情報量があるので、楽曲理解に関してはとても効果的だった。

そんな風に、たっぷり予習をして臨んだ。



県民ホールは年が明けると設立40周年だ。多目的ホールとはいえ、アコースティックなコンサートにも対応した立派なホールでキャパシティは2500。みなとみらいホールより大きい。
耐震化などかなり大規模な修復工事だったようだが、デザイン・配色も以前のままに、じゅうたんの敷き替えや壁など塗装のやり直しですっきりときれいになった。

そのこけら落としに千人の交響曲だ。
チケットはだいぶ前に完売になったようで、満席。

千人の交響曲と名付けられているように、マーラー存命時の初演にはオケと合唱、ソリストで千人を超える大規模な演奏だったらしいが、現代、実際にはそんな大規模で演奏されることはないと思う。

野外音楽堂だとか、武道館のような施設に特設ステージを作ればひな壇に千人並ぶかもしれないが、普通のコンサートホールではそんなには載りきらない。

3種類のビデオディスクで見た限りでは、最も大規模なオーケストラ編成でも170人。それに合唱団が何人いたか分からないが、800人を超えることはないように思った。
他の2枚のディスクではさらに規模は小さい。

今回の神奈川フィルはオケが約130名、声楽ソリストが8名、合唱団が約500名で、合わせて約「650人の交響曲」と相成ったが、まあ、コンサートホールで演奏するには普通のサイズだろう。
オケも声楽もほとんど限界効用に達しているから、あと無理に帳尻合わせに人数を増やしてみても音楽効果は実質的には変わりはないと思う。

なお、オーケストラは、バンダ(舞台外別働隊)としてホーン・セクションが7本とソプラノが1人含まれている。今回は2階下手の客席に配置された。

とにかく各パートの人数が多いだけでなく使われる楽器も多彩だ。驚いたのは、シンバルが3組計6枚がジャーンと鳴らされるところが少なくとも2度はあった。ティンパニーの2組は時に見るけど、シンバルの3組は初めて観た。
≪そういえば、ビデオで観たドゥダメルの指揮でもはりシンバルは3組6枚だった。
シャルル・デュトワのNHK交響楽団もサイモン・ラトルのナショナル・ユース・オーケストラでも確かシンバルは2組4枚だった。このへんは自由に編成してもいいらしい。≫

音楽は、交響曲とはいい条マーラーは当初描いていた4楽章構成を変更して2部構成に仕立て直した。
全2楽章とも言えるし、(第1部の約30分に対し)第2部は約60分なので、これを3つに区分して3楽章、全曲では普通の交響曲のように全4楽章と解釈する見方もあるらしい。

ベートーベンの第9番のように声楽は終楽章だけに入るのではなく、しょっぱなから最後まで出ずっぱりの歌いっぱなし。


第1部は賛美歌(「賛歌」とも)「来れ、創造主なる聖霊よ」というラテン語のテキストを歌っている。
このテキストは手持ちのCD「グレゴリオ聖歌集」の中でも歌われているし、先日イングリッド・バーグマン主演の「ジャンヌ・ダーク」(48年)をビデオで観ていたら、このグレゴリオ聖歌「来れ、創造主なる聖霊よ」が流れるシーンがあった。
賛美歌については(も)詳しくないけど、この歌詞は中でも有名なもののようだ。

もっとも、マーラーが採用したのは歌詞だけでメロディは独自のものであり、グレゴリオ聖歌とは大違いの派手派手しい音楽で、全体は祝祭音楽のようである。

さて、第1部が終わると20分の休憩があった。
少なくとも予習したビデオディスク3枚の演奏では、すべて第1部の終わりに短い休止があるだけの休憩なしで演奏されているので、今回のように休憩を挟むのは珍しいのかもしれない。

第1部が終わると休憩になることが予めアナウンスされていたこともあり、その時点で拍手がパラパラ始まり、その輪が広がって大きな拍手になったけど、拍手しないで厳かに休憩に入るというのも居心地が悪いし、まあ、これで良かったのだろう。

第2部はゲーテの「ファウスト第2部」から最後の場面をテキストとしている。当然ドイツ語で歌われる。

クライマックスの歌詞はこうだ。
「乙女よ、母よ、女王よ、女神よ、ずっと慈悲深くいらしてください!」~「永遠に女性的なるものが、私達を高みへ引き上げるのだ。」

マーラーの高邁な精神性は分からない。
けど、女性の愛を神がかりの至高のものとして崇めている。

第1部は聖なる祝典曲で第2部は愛による救済といえるのかな。

本当に、本気で、マーラーがそういう精神性を追求したのかは疑問だ。

しかし、この長大曲が少しも飽きさせること無く、刺激に満ちた壮大な世界に誘ってくれるのは確かだ。
IMAX3DでSFアクション映画を観ているような体験に似ているかな。

でも、聴き終えて、ヤンヤの喝采と熱狂的なブラボーの嵐の中で、早くも僕は少しずつ覚醒していった。
興行師的才能も持ち合わせていたというマーラーの大掛かりなショーに付き合わされてような気がどうにも払拭できないでいる。

もちろん、こういう音楽があってもいい。
大管弦楽と声楽ソリスト+大合唱が奏でる大風呂敷の音楽アトラクションは楽しい。そこに言葉(テキスト)による祈りだの愛だのエロスだのとややこしいことを言い出すから、ちょっと抵抗を感ずるのだ。
でも、…いつか、素直になってマーラーの境地に近づけるだろうか?



*
サイモン・ラトルとユースオーケストラ(02年/ロイヤル・アルバート・ホール)、
シャルル・デュトワとNHK交響楽団(11年/NHKホール)、
グスターボ・ドゥダメルとベネズエラ・シモン・ボリバル交響楽団(13年/ザルツブルク祝祭大劇場)

♪2014-91/♪県民ホール-01

2014年10月4日土曜日

東京交響楽団第623回定期演奏会

2014-10-04 @サントリーホール


サントゥ=マティアス・ロウヴァリ:指揮
東京交響楽団
マイケル・バレンボイム:バイオリン

《オール・プロコフィエフ・プログラム》
交響曲 第1番 ニ長調 作品25 「古典交響曲」
ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調 作品63
バレエ音楽「ロミオとジュリエット」作品64
------------------------------------
アンコール
クライスラー:レシタティーヴォとスケルツォ・カプリース 作品6(Vnソロ)


オール・プロコフィエフ・プログラムだ。
はっきり言って、苦手。
交響的物語「ピーターと狼」のほか、小品の幾つかに面白いと思うものもあるのだけど。

しかし、最近はコンサートの回数が増えた(増やした)ので、プロコフィエフの出番も結構多くなった。
こうして、回数を重ねるとだんだん馴染んでくるはずだけど、何故か波長が合わない。

古典交響曲は、4楽章形式は基本的に古典派に則り、ハイドンが現代に生きていたならこういう感じで作ったであろう(という事情から「古典交響曲」と名付けた。)作品だ。

部分的には確かにハイドンのユーモアを感ずるけど、当然プロコフィエフらしさが漂う。比較的よく耳に入っている曲なので楽しめた。

プロコフィエフはバイオリン協奏曲を2曲書いているけど、1番は聴いた記憶が無く、聴くのは2番ばかり。

出だしの拍子記号は4拍子なのにメロディは5拍子という不思議な形だが、どうやら、ロシア民謡を素材にしているらしい。
ユニークな音型なのでこの冒頭部分を聴いただけで、プロコフィエフの2番と分かる。でも、まだ楽しむという域には至らない。

最後の大曲「ロメジュリ」は、今年3回めだけど毎回曲の構成が異なる。
今日のはプロコフィエフがバレエ音楽から編曲した3つの組曲から、12曲を抽出して構成されていたが、かつてシャルル・ミンシュが57年に録音した際と同様の選曲だそうだから一種の定番かもしれない。
オーケストラは舞台からはみ出そうな大編成で、それだけに繊細かつダイナミックレンジの広いサウンドは実に素晴らしい。


今日の指揮者はサントゥ=マティアス・ロウヴァリ(フィンランド人)、バイオリンのソロはマイケル・バレンボイム(イスラエル人?)で、ともに85年生まれというから28、9歳という若手だ。

ロウヴァリは映画「アマデウス」のアマデウスそのものみたいで、よく動く右手を存分に振り回して、音楽も客席も、堂々とそしてキビキビとコントロールしていた。
音楽そのものは、プロコフィエフにそもそも馴染んでないけど特異なものは感じなかった。

「ロメジュリ」の12曲が終わると、<さあ、これで全曲の終わりですよ、皆さんお疲れさま>といった感じで、指揮棒をポトリと譜面台に落とした。

バレンボイムは落ち着いていて年齢以上の貫禄。さすがにダニエル・バレンボイムの息子だ。いずれ巨匠と呼ばれるようになる可能性を秘めた青年の20歳代の演奏を聴いた、ということが記念になるかな。彼が巨匠になるまで僕が生きておればの話だけど。

♪2014-90/♪サントリーホール-04