2014年12月21日日曜日

横浜交響楽団第659回定期演奏会

2014-12-21 @県民ホール


飛永悠佑輝:指揮
高品綾野 :ソプラノ
平山莉奈 :アルト
宮里直樹 :テナー
池内響    :バリトン
合唱       :横響合唱団
       :横響と「第九」を歌う会合唱団

ボロディン:歌劇「イーゴリ公」序曲
ベートーベン:交響曲第9番ニ短調Op.125 「合唱付」



今季の「第九」3回め。
でも、一番楽しみにしていた「第九」だ。

横響は、7月から聴いていなかった。演奏会が他のオケとダブってやむなく聴くことができなかった。

でも、12月の横響の「第九」だけは聴き逃すことができない。
幸い、他のオーケストラ公演ともダブリがなく、喜んで、売り出し当日に指定席を買った。
ちょっと前過ぎるなあ、と思いながらも、超大規模編成の管弦楽と600人の大合唱(一昨年の演奏会でそのように聞いたので、多分、毎年その規模だろうと思っている。)を間近で聴きたいという欲求に抗することができず、前から7列目のセンターを購入した。

これでよし。
最高にパワフルな演奏に身も心も包まれるはず!

だいぶ早めに着いたが、県民ホールは大勢のお客でごった返していた。横浜市内の定例の音楽行事としてはおそらく最大の盛り上がりだろう。何しろ、合唱団がものすごい数なので、その家族や友人など一族郎党が、普段はクラシックなど聴かない人まで、この日だけは義理・人情も手伝って総動員されるからほとんど関係者だけでも観客席は埋まってしまうのではないかと思う。
ホール内は開演の前から熱気ムンムンだ。


さて、大いなる期待を抱いて指定席に向かっていったらこれはびっくり。前から7列目を探して座ろうとするが、7列目に第7列がない!
泡食ってしまったが、なんてことはない。
第7列は2列目に変わっていた。
つまり、最前列が第1列ではなく第6列で、僕が買った第7列は2列目になっていたのだ。

なぜなら、大オーケストラと大合唱団を舞台に載せるために舞台が客席側に拡張された結果、前方客席の計5列分がなくなってしまったのだ。

7列目でさえ前過ぎたかなと思っていたのに、2列目はさすがに辛い。前の列の人の前はもうステージで、首席チェリストに手が届きそうだ。それに舞台が結構高いので見上げなくてはいけない。
声楽ソリストは指揮者の直前だったから、これもとても近い。
合唱団は背の高い人以外はほとんど見えない。

演奏中もやたらチェロが響いてくる。バランスは良くない。
超ステレオを聴いているような音場の広さは「目移り」ならぬ「耳移り」して落ち着かない。
元々アマチュアなのでいつものことながら弦のピッチは微妙だ。
でも、アマチュアにしては相当レベルが高いと思う。

あれこれ問題はあったが、終わってみれば、すべて吹き飛ばす熱演であった。ま、来年は2階席でも選んでみようと思うが。

横響の「第九」コンサートは、毎年、終演後「蛍の光」の演奏が恒例になっている。大合唱団のオケ伴つき「蛍の光」は感動的だ。
お客様をお見送りするという趣向なので、僕も遠慮なく演奏を聴きながら少し上気した心持ちでオーディトリアムを後にした。

ギリギリまで拡張された舞台

前5列がなくなった。

余談:
声楽がどこで登壇するか?シリーズ。
大合唱団なので舞台上で座って待つスペースはないから、冒頭から登壇したのでは出番までずっと立ちん坊になるのはしんどい。

そこで第2楽章が終わってから合唱団が入場してきた。合理的だ。その後、ソリストが4人拍手を受けて着席する。

第3楽章が終わって第4楽章の開始は一呼吸程度だった。
一昨日の神奈川フィルも(合唱団は数が少ないので最初から着座していたが)同じスタイルだった。
これが普通だと思うが、18日の日フィルはどうして第3楽章終了後にソリストを入れたのかますます疑問だ。

♪2014-118/♪県民ホール-04

2014年12月19日金曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会 県民ホールシリーズ 第1回

2014-12-19 @県民ホール


小泉和裕【特別客演指揮者】
佐々木典子(ソプラノ)
手嶋眞佐子(メゾソプラノ)
福井敬(テノール)
小森輝彦(バリトン)
神奈川フィル合唱団(合唱)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ベートーべン:交響曲第9番ニ短調Op.125 「合唱付」



神奈川フィルの定期コンサートが、メインのみなとみらい定期のほかに、今年から県立音楽堂と県民ホールでの演奏会(の全部ではない)が、音楽堂シリーズ、県民ホールシリーズという形に定期化された(これまでも両ホールで演奏会は広く行われていたけど、「定期」外の特別演奏会という位置付けだった。)。
音楽堂シリーズは既に5月に始まったが、県民ホールシリーズの方は今日が第1回めだった。
その記念すべき第1回定期の演奏曲目が「第九」とはまことにふさわしいスタートになった。

3つのホールはそれぞれに味わいがあって、同じオケを異なるコンサートホールで聴くのは楽しい。



県民ホールはオペラ公演も念頭に置いているせいか完璧なまでのプロセニアム(額縁)形式だ。
館内の色彩は黒、淡いベージュ、臙脂の系統で統一され、舞台の床まで黒い。
たいていのコンサートホールは木目調だから開設40周年(の節目にリニューアルされた。)を迎えた歴史のあるホールだがデザインの斬新さはなお健在だ。

さて、年末の「第九」も今日で2回め。
何度聴いても飽きることはないけど、だんだん感動が遠ざかっているような気もする。毎年年末に健康で「第九」を聴けることに感謝せねばならないと思うけど、本音を言えば3回も聴けばいいかとも思う。でも、次回の横響の「第九」は楽しみにしている。


今日、良かったこと。
まずは音がきれいに響いていたこと。
県民ホールはみなとみらいホールより500人近く客席数が多いが、NHKホールをモデルにした客席設計のせいで客席も横に長い分、3階席でも案外舞台が近い。
そのため音が遠いという感じは全くなく、適度に残響も効いて不満なし。

合唱団は小振りで120人程度(前回のみなとみらいホールでの日フィルの合唱団は200人くらい。)だったが、特に音量に不足は感じない。

合唱団は全員が最初から登壇した。
この程度の規模だと出番まで座って待っておれるから最初から登壇した方がいいに決まっている。
問題はソリストがいつ登壇するか、だ。
これが気になるところだったが、今回は第2楽章が終わった時点で静々と入って着座したのは良かった。やはり、ここだ。
「第九」には音楽の分かれ目というのがある。それは第2楽章と第3楽章の境目にあるんだ。

この結果、第3楽章が終わるとほんの一呼吸で第4楽章に突入したのはうれしい。「第九」はかくあるべきという形だ。


残念なこともあった。
第3楽章、ホルンの聴かせどころがあるが、音がひっくり返ってしまった。音階練習みたいなフレーズで、楽譜の見た目にはもっとすごい難所はあるのだけど、この部分の失敗例はほかでも聴いているので、ホルンにとっては特に音が出しにくい音域なのかもしれないが。


とはいえ、いつも気になる、気にする第4楽章の低弦も実にきれいな音で満足。声楽ソリストも声量たっぷり。合唱団も力いっぱい。終わりよければすべてよし。

♪2014-117/♪県民ホール-03

2014年12月14日日曜日

昭和音楽大学第39回メサイア

2014-12-14 @みなとみらいホール



山舘冬樹:指揮
内田智子:ソプラノ 
長澤美希:アルト
中島健太:テノール
田中大揮:バス
床島愛:チェンバロ

昭和音楽大学管弦楽団
昭和音楽大学合唱団

ヘンデル:オラトリオ「メサイア」HWV56


年末恒例は「第九」のみにあらず。
やはり、「メサイア」も聴かなくては年越しできない。

今年も昭和音大の「メサイア」を聴いた。

今年は神奈川フィルの「メサイア公演」もこの日に重なった。どうしようかと迷ったが、ここ2年聴いてきた昭和音大版を選んだ。重ならなかったら両方とも聴きたかったが残念。


オーケストラも合唱団も学生(オケの中には教員も混じっている。)とはいえ音大生だ。普通のアマオケとは一線を画す。巧い。
編成が小さい分、各パートの音がよく聴き取れて音楽の動きが分かりやすい。また、繊細な弦の響がきれいだった。
まこと至福の3時間(休憩込み)。

長大曲だし、「第九」やバッハの「クリスマス・オラトリオ」と同じように季節ものという扱いになっているようで、年末にならないと取り上げられない。クリスマスシーズンに似合う作品だからだろう。
一年に一度、この時期だけのお楽しみだ。

何度聴いてもこの音楽は素晴らしい。
平明この上なく、心地よい。
おそらく、「メサイア」を聴くのは初めてだという人にとっても、抵抗なく楽しめるだろう。
長時間の拘束も、マーラーやストラヴィンスキーを初めて聴かされるのは拷問になるかもしれないけど、ヘンデルに限って、ましてや「メサイア」に限っては、まったく何の抵抗も感じずに楽しめると思う。

宗教音楽ではある。
テキストは旧約・新約聖書から採られている。
メサイア(救世主)到来の予言の成就(第1部)、イエスの受難(第2部)、復活と救い(第3部)が描かれるので、受難曲の性格も持っている。
しかし、J.S.バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲(これら受難曲も音楽形式はオラトリオであって、受難劇に特化しているだけだと理解している。)を聴くのとは少し様子が違う。

もちろん、バッハの受難曲やミサ曲はすばらしい。
荘重、厳粛な音楽はクリスチャンでなくとも敬虔な世界に惹き込まれる。
ヘンデルの場合は、そんな感じもなくもないけど少ない。
もっと俗っぽいというか、親しみやすい。
バッハで言えば同じジャンルの「クリスマス・オラトリオ」が近いのかもしれない。あるいは、ハイドンのオラトリオ「四季」の感じに近いか(こちらは宗教色ゼロ)。

全53曲(どこで区切るかによって曲数は異なるので50曲と書いてあるものもあり。)のどれも必然の音楽だからそれぞれに魅力的だけど、冒頭の「シンフォニー」は胸ときめかせてくれるし、第2部の最後を飾る「ハレルヤ・コーラス」や全曲を締めくくる「アーメン」では、ゾクゾクする高揚感に包まれて終わってほしくないという感動が湧き上がる。

「メサイア」の平明さがどこから来るのか知らないけど、バッハと同年齢だがバッハがドイツから一歩も出なかったのに対してヘンデルはドイツ生まれだがイタリアなどヨーロッパをあちこち回って27歳ころ渡英し、その後帰化して終生(享年74歳)を英国で過ごした。
そういう国際経験に加え、音楽が既にビジネスの対象となっていた音楽産業先進国英国で競争社会を生きたことと関係があるのかもしれない。

「ハレルヤ・コーラス」では、やっぱり起立する人がパラパラだがいた。以前は、知ったかぶりの嫌味を感じていたけど、今年は違った。人それぞれの思いで聴けばいいんだ、とえらく素直で丸くなった自分を発見した。来年あたりは、立ってみるか…それはないな。


♪2014-116/♪みなとみらいホール大ホール-50

2014年12月13日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第303回横浜定期演奏会

2014-12-13 @みなとみらいホール



高関健:指揮
ソプラノ:半田美和子
アルト:坂本朱
テノール:錦織健
バリトン:堀内康雄
日本フィルハーモニー交響楽団
東京音楽大学:合唱

シベリウス:交響詩《タピオラ》
ベートーベン:交響曲第9番《合唱》



最近は、気候の変調や季節の食べ物が年中手に入るようになったり、シーズン商戦の前倒しなどで季節変化のグラデーションの帯域が広くなったせいでその変わり目はますます曖昧になっている。

そんな中、音楽シーンはこの月、確実に年末モードに突入して季節を明確に告知する。

「第九」と言えば12月と決まっている。
決まっているからこそ12月は「第九」の大混戦で、「ちけぴ」に出ているコンサートだけでも横浜・川崎だけで8回。主戦場の都内となると30回は下らないようだ。ほかのプレイガイドの取扱いやアマチュアの「第九」も入れると一体どれほどの回数が演奏されるのだろう。
かくいう僕も5回も聴きに行く予定だ。特に聴きたいと思って選んだのは1回だけ。残りの4回は定期演奏会なので、いわばお仕着せなのだ(嫌な訳じゃないけど)。

そのお仕着せ第1号が今日だった。

日フィルのホームページを見ると今月中に「第九」は2人の指揮者で7回演奏するようで(他の在京オケも似たり寄ったりだが)、毎回の演奏に気合を入れられるのかと心配になる。

が、今回の横浜定期が日フィル「第九」の一番乗りだったようで、おそらく、それなりの緊張感を持って臨んでくれたのだろう。

いつもながら、日フィルの響は実に柔らかい。ホールの残響に包まれた耳に優しいサウンドだが、物足りなさもあるのは聴く席のせいもある。これは畢竟費用対効果の問題に帰すので、日フィル定期ではメリハリの良さよりも柔らかサウンドを尊重するということにしておく。


ちょっと違和感を感じたのは、ソリストの出番だ。
合唱団は最初から舞台に陣取った。これはいい。
声楽ソリストはいつ登壇するか。
普通は第2楽章が終わったあとが多いように思う(この際に合唱団も入るということも多い。)。
今回は、違った。

第2楽章が終わってもソリストが登場しない。残るは第3楽章のあとしか無いので、その時点から残念感が同居した。
やはり、第3楽章が終わってからソリストが登場して拍手を受け着席するにはけっこう時間がかかるので、それまで継続していた音楽的緊張感が途切れてしまった。
これは良くない。

第3楽章と第4楽章間はアタッカ(切れ目なし)の指示がないけど、ここは間髪入れず第4楽章になだれ込んで欲しい。
第3楽章と第4楽章は一体なのだ。

第2楽章と第3楽章の間は空いてもいい。
音楽的に質が異なるし、むしろここで休憩代わりに合唱団とソリストを入場させるのが適当だと思う。

第4楽章の低弦のレシタティーヴォも綺麗すぎて物足りなかった。ここはタメを効かせて見得を切るように歌ってほしいな。まあ、好みの問題なのだけど。

残る4つの「第九」はどのように演奏されるだろうか。楽しみではある。


♪2014-115/♪みなとみらいホール大ホール-49

2014年12月12日金曜日

12月歌舞伎公演「通し狂言伊賀越道中双六 (いがごえどうちゅうすごろく)」

2014-12-12 @国立劇場大劇場


中村吉右衛門⇒唐木政右衛門                    
中村歌六       ⇒山田幸兵衛
中村又五郎   ⇒誉田大内記/奴助平
尾上菊之助   ⇒和田志津馬
中村歌昇       ⇒捕手頭稲垣半七郎
中村種之助   ⇒石留武助
中村米吉      ⇒幸兵衛娘お袖
中村隼人      ⇒池添孫八                    
嵐橘三郎      ⇒和田行家/夜回り時六
大谷桂三      ⇒桜田林左衛門
中村錦之助  ⇒沢井股五郎
中村芝雀      ⇒政右衛門女房お谷
中村東蔵      ⇒幸兵衛女房おつや
                     ほか

近松半二ほか=作
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言伊賀越道中双六 五幕六場
           国立劇場美術係=美術

序 幕 相州鎌倉 和田行家屋敷の場
二幕目 大和郡山 誉田家城中の場
三幕目 三州藤川 新関の場
     同     裏手竹藪の場
四幕目 三州岡崎 山田幸兵衛住家の場
大 詰 伊賀上野 敵討の場


「伊賀越道中双六」は、昨年の11月に同じ国立劇場で通し狂言として上演された。それが初見だったが、なかなか面白かった。
「沼津」の幕が有名で、単独でも上演されるそうだ。
仇討ちをする和田志津馬とこれを助ける唐木政右衛門が主人公と言っていいと思うが、見どころとされている「沼津」では登場しない。
「沼津」は、今は敵味方に分かれた実の親子の再会が一転して悲劇に終わる話で、なかなか味わい深い。
しかし、この話はいわば仇討ちの本道からは逸れた脇道だ。

一方で、この時の公演では悲惨極まりない「岡崎」の場面が省略された。省略されることのほうが多いらしい。

ま、普通の観客の好みで言えば「岡崎」より「沼津」を観たいだろう。


ところで、今回の「伊賀越道中双六」ではその「沼津」が省略され、「岡崎」が上演された。歌舞伎では44年ぶりだそうな。
ほかにも昨年の公演とはだいぶ構成が異なっていた。
いわゆる「饅頭娘」*と言われる「政右衛門屋敷の場」もなくなり、「沼津」が省略され、これらに代わって「藤川」と「岡崎」が置かれた。

換骨奪胎だが、それでも成り立つのが歌舞伎という演劇の面白さなんだろうな。

今回の構成で、仇討ちモノとしては、スッキリと分かりやすくなったように思う。志津馬と政右衛門を軸に話が展開するからだ。
「藤川 新関の場」では志津馬<菊之助>が、「同 竹藪の場」では政右衛門<吉右衛門>が中心となり、「岡崎」も政右衛門と元の妻の芝居が凄絶で見応えがある。

「饅頭娘」が省略されているので、「岡崎」への話のつながりが分かり難い(お谷が巡礼している理由)ところもあるけど、やむを得ないか。

「岡崎」では、幸兵衛<歌六>の屋敷に、運命の糸で手繰り寄せられるように、それぞれの身柄を偽った志津馬、政右衛門と巡礼になったお谷が出会うことになるが、とりわけ、お谷とその乳飲み子(政右衛門の子)が哀れだ。お谷を救えない、そして我が子を手にかけて刺し殺す政右衛門も哀れだ。
すべては、仇討の本懐を遂げるためである。
この凄絶な葛藤は役者にとっても浄瑠璃語りにとってもなかなか至難の芸らしく、達者が揃わなければ上演できないと言われるのも宜なるかなである。

吉右衛門も芝雀も、迫真の芝居だったと思う。
吉右衛門には政右衛門として立ち回りも何度もあるが、やはり、この悲痛この上ないお谷とのやりとりの場面が一番いい。
芝雀も哀れを誘う。

志津馬に一目惚れしてしまった幸兵衛の娘お袖を演じた米吉くんがとても色っぽく可愛らしく、最後は意外な覚悟を見せてなかなか良かった。
志津馬役について言えば、菊之助はとても似合っていた。昨年の公演では虎之介くんで、存在感はいまいちだったが、これは志津馬が引き立つような演出ではないので仕方なかったろうと思う。


筋に戻れば、「岡崎」の我が子を殺した後の場面、幸兵衛の剣術の腕が衰えていないのを見て政右衛門が「まだお手の内は狂いませぬな、ハハハ~」と持ち上げるところなどは、いやはや男どもは呆れたものだと笑えてしまう。このやりとりはない方がいいと思う。

武家社会の義理や面子が、夫婦・親子の情愛を蹴散らしてしまうバカバカしさをもっと直截に工夫できないものか、と思ったが、そこに力点を置けば古典の枠からはみ出てしまうのだろうなあ。難しいところだ。

*政右衛門は、義理の弟(厳密には内縁の妻お谷<芝雀>の弟)の(父和田行家<橘三郎>を殺した沢井股五郎<錦之助>に対する)仇討ちの助っ人になるために、お谷を離縁(?)し、お谷と志津馬の異母妹でまだ7歳のおのちと正式に結婚するのだが、その幼い花嫁は結婚の場で三三九度の代わりに饅頭を欲しがることから「饅頭娘」と言われている。
内縁関係のままでは助太刀できないという理由によるけど、ならばこの際(結婚に反対していたお谷の父は殺されたのだから)、お谷と正式に祝言を上げれば済んだのではなかったかと思うけど、それでは話が盛り上がらないか…。歌舞伎が追求するのはリアリズムじゃないものな。


♪2014-114/♪国立劇場-07

2014年12月7日日曜日

N響第1796回 定期公演 Aプログラム

2014-12-07 @NHKホール


シャルル・デュトワ:指揮

ペレアス:ステファーヌ・ドゥグー(Br)
ゴロー:ヴァンサン・ル・テクシエ(Bs/Br)
アルケル:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(Bs)
イニョルド:カトゥーナ・ガデリア(Sp)
医師:デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(Br)
メリザンド:カレン・ヴルシュ(Sp)
ジュヌヴィエーヴ:ナタリー・シュトゥッツマン(Ct)コントラルト
東京音楽大学:合唱
NHK交響楽団

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(演奏会形式)


「ペレアスとメリザンド」という音楽作品は数種類あり、それらの中ではフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」の中の「シシリエンヌ」という曲がいろんな器楽曲に編曲されていて聴く機会が多いので馴染んでいるが、他の作曲家(シベリウス、シェーンベルク)はもちろん、今回聴くことになったドビュッシーの作品については存在を知るのみで自覚的に聴いたことはなかった。

メーテルリンクが戯曲「ペレアスとメリザンド」を発表したのが19世紀末。どこが良かったのか、大勢の作曲家が一斉に飛びついて、上に記した4人のほかウィリアム・ウォレスという作曲家も加えて少なくとも5人が音楽にしたのが2000年から2005年という時期に集中している。

メーテルリンクは「象徴主義」の詩人と言われているらしい。
「象徴主義」を広辞苑で引けば「リアリズムに対抗し、象徴作用によって内的世界を表現しようとする芸術思潮。」とある。

他の作曲家は知らないが、ドビュッシーにとっては、「牧神の午後への前奏曲」(1894年)で骨格を固めた独自の作曲手法を発展させるには格好の題材だったのだろう。
メーテルリンクの台本をそのまま活用してオペラとして完成させた(初演は1902年)。
「ワーグナーから影響を受けたライトモティーフの技法を用いながらも、全音音階や平行和音、小節線から自由になったリズム法など新しい作曲法を導入し、メーテルリンクの原作よりもいっそう深い意味をもった作品を作り上げた」(世界大百科辞典)。

かくして、ドビューッシーによる「ペレアスとメリザンド」の完成は20世紀初頭の音楽界を揺るがす大事件となったらしい。



確かに、現代に生きる我々は、ベートーベンを聴いて、次にルネサンス音楽を聴き、ストラヴィンスキーを聴くかと思えばドビュッシーも聴き、次にシューマン、といったふうに音楽史を自在に行ったり来たりしていろんな時代の音楽を楽しんでいるために、ドビュッシーだけではなく、バッハの改革もベートーベンの新工夫もワーグナーの発明も、ショスタコーヴィチの跳躍も、その時代の人のような衝撃を持って受け止めることができないのだけど、もし、シェーンベルクやストラヴィンスキーを一度も聴かず、せいぜいワーグナーまでしか知らなかった人がこの「ペレアスとメリザンド」を聴けば、とりあえずはびっくりしたに違いない。初演は酷評の嵐だったそうだ。ま、それも束の間、すぐ理解者を得て興行は成功したようだが。

内容をうまく説明するのは力不足なので簡単に…と言うか、自分のための備忘録として気がついたことを書いておこう。

掻い摘んでいえば、オペラからアリアをなくした。
ここ一番、といった聴かせどころをなくした。
不自然な大音声はなく、語られるような旋律で人間の感情が忠実に音楽化されている。
必要な長さだけ歌われ、音楽形式上の都合で表現が断ち切られることはない。言葉(感情表現)こそ主で言葉が音楽に合わせるのではなく、音楽が言葉に合わせる。
調性は無い(古典派以来の調性はない)し、律動もない(と言っていいと思う)ので、着地点の予想はつかず、ひたすら音楽が揺蕩う。

管弦楽も登場人物の感情表現に奉仕するので、それを外れて器楽的クライマックスというものはない。序曲もファンファーレもコーダ(終結尾)の昂ぶりもなし。

まあ、この辺の音楽的特徴や物語のあらすじなどは事前の予備知識として持っていたが、休憩を入れて3時間20分という大作。
果たして、全編を楽しむことができるかが大いに疑問であった。

結果的には、マエストロ(シャルル・デュトワ)には申し訳ないけどウトウトする場面もあった。
いや、この音楽はそもそも、聴いている者を夢か現かといったまどろみに誘ってくれるのだ。聴きながらウトウトするのは敢えてそうありたいとコチラが願うような状況になってしまうから…というのは言い訳にすぎないかもしれないけど。

物語そのものがよく分からない。いや、分かるけど納得できない内容だ。あれこれ言い出すときりがない。
登場人物がなぜそういうキャラクタ設定なのか、が分からない。例えば、老いた王は盲目。主人公格のゴローとペレアスは異父兄弟。ゴローには妻がいないが前妻の子がいる。メリザンドは何者か一切の説明がない。そういう特異な設定にする以上、その設定が物語の展開に必須の役割を果たすべきである…。
と、思っているようでは「象徴主義」は理解できないようだ。
多分、大切なのは、そういうガチガチの有機的な構成とは無縁の心の蠢きなのだろう。

いろいろ感ずるところはあったし、決して飽きることはなかった。

こんなに大掛かりな作品を演奏会形式とはいえなかなか聴く機会はないだろう。次に聴くときは「象徴主義」の詩作に馴染んで、ドビュッシーの心境に十分思いを馳せて臨まねばなるまい。


♪2014-113/♪NHKホール-07

2014年12月1日月曜日

神奈川フィル フレッシュ・コンサートVol.9 未来へと飛び立つ次世代の旗手たち

2014-12-01 @みなとみらいホール


現田茂夫(名誉指揮者):指揮
大江馨【ヴァイオリン】(2013年日本音楽コンクール1位入賞)
阪田知樹【ピアノ】(2013年ヴァン・クライバーン国際コンクール入賞)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」序曲
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
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パガニーニ:「24のカプリース」より第24番(Vnソロ)
ラフマニノフ/坂田知樹編曲:歌曲「ここは素晴らしい所」作品21-7(Pfソロ)


「フレッシュコンサート」というのは、神奈川フィルが神奈川県に縁のある若き俊英をソリストに迎えて演奏の機会を提供し、応援しようという企画だ。
主に20歳代前半(今回のバイオリンの大江くんは94年、ピアノの阪田くんは93年生まれ。)で、著名なコンクールの優勝・上位入賞者が招かれている。


今回も、バイオリンの大江くんは63回全日本学生音楽コンクール(⇒学音)優勝者であり、82回(昨年)日本音楽コンクール(⇒日音)第1位というから、素直にすごい。

ピアノの阪田くんも61回学音2位、昨年のヴァン・クライバーン国際コンクールその他いろいろ入賞というからこちらもなかなかのスグレモノなのだろう。

今日(12/06)、たまたまNHKTVが今年の日音の最終審査の様子をドキュメンタリーとして放映したのを興味深く見た。
熾烈な競争というより、結局は自分との闘いを制した者が勝利するのではないかと思いながら見ていたけど、このレベルになると技術や音楽性の違いなど僕に分かるはずもない。

少なくとも、練習を積んできた挑戦曲に関しては、もう出来上がっているのではないかと思えるような演奏ぶりだった。


さて、「フレッシュコンサート」の2人が披露した曲は、いろんなコンクールでも弾いた曲だったのかもしれない。すると、今、2千人のお客様の前であらためて「演奏家」として演奏することに大きな興奮や感慨があっただろうなあ。

2曲とも叙情性たっぷりの曲なのでベタベタになりやすい気もするけど、そこは若いとはいえど磨き上げた感性がケレン味を抑えていたのではないか。心地よく楽しめた。

横浜在住など、横浜と縁のある2人なので、今後も聴く機会があるだろう。若い才能がすくすく育って再会できた時に果たして僕の感覚はボケていないだろうか心配だが。

余談:
先月末に第68回学音の横浜市民賞選定員としてバイオリン部門を聴きに行った際に、一般的にはその作品が知られていないヴィエニャフスキの作品を弾く子が多くて、どうしてかなあ、と思っていたら、この作曲家はバイオリンの名手で、その名を冠した国際コンクールがおよそ5年に1回開催されていることを知り、前回の「フレッシュコンサート」(今年3月)に登場したバイオリンの小林美樹さんが直近(2011年)の同コンクールで2位だったことを記録を手繰って知った。

因みに、今をときめく神尾真由子(07年チャイコフスキー・コンクール優勝)もヴィエニャフスキ~の2001年の第4位だというのだから、このコンクールは相当ハイレベルなのだろう。

という事情からもこの「フレッシュコンサート」に登場する新人たちがかなりの腕利きだということが分かる。


♪2014-112/♪みなとみらいホール大ホール-48