2014-09-09 @サントリーホール
読売日本交響楽団
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調WAB.109
みなとみらいホールでのコンサートの日に3つのオケの定期演奏会が重なったので、読響は今日のサントリーホールでの演奏会に取り替えてもらった。
さて、本日のプログラム。
ハイドンとブルックナーという組み合わせは不可解。
共通点はオーストリア生まれということかな。
生年は92年の差がある。
演奏曲目はいずれも交響曲第9番だけど、作曲年の開きは130年以上ある。
いずれも通常の形式とは異なって第3楽章までしかない。
演奏予定時間は、ハイドンが12分に対してブルックナーは63分と5倍以上だ。
なんで、今日、この2曲が取り上げられたのかという説明はプログラムにもなかった。
時間調整のためにハイドンが使われたのかもとはじめは思ったけど、よく考えてみると、今日は9月9日。
交響曲の第9番で揃えるなら、ハイドン以外ではベートーベン、ドボルザーク、マーラーくらいしかない。いずれも長大すぎて演奏する方も聴く側にも負担が大きすぎる。現代の作曲家では9作以上作曲している人はいくらでもいるだろうけど、それらは楽譜の入手も練習も大変だし、長時間かもしれない。
ということで、なるほど、ハイドンしかいないのか。
ま、ハイドンの一桁台の交響曲ってほとんど生で聴く機会もないので、これはこれで良かったけど。
ハイドンの第9番は第3楽章までしかないが、これはこれで完成している。軽音楽のように聴きやすいが、アレグロフィナーレがないという意味でやや物足りない。まあ、余興音楽のようなものだったのではないか。
ブルックナーの第9番も3楽章構成だが、こちらは未完成作品だ。第4楽章を完成する直前に亡くなってしまった。
ブルックナーの生年は1824年で、シューマンより14年遅く、ワーグナーより9年遅く、ブラームスより9年早い。まあ、彼らはほぼ同時代と言っていいだろうけど、音楽は違う。
中では、ワーグナーとは近いものを感ずるし、とりわけ、この第9番の第1楽章の無調ぽい旋律や第3楽章のトリスタンとイゾルデを思わせるようなメロディーにワーグナーぽさを発見できる。
一方、シューマンやブラームスとは好対象かもしれない。
ところで、彼の音楽はCDで聴くのと生で聴くのはまるで別物のように聴こえる。
この日のハイドンは弦5部全員でも19名だったが、ブルックナーでは第一バイオリンだけでも16人だった。つまり、弦楽器だけで50人位はいたのではないか。それに夥しい管楽器が加わり、ステージは楽団員で溢れている。
そんな大勢が一斉に強奏したときのダイナミズムは少なくとも我が家のCD再生装置では再現できない。
コンサートの前と後に、(CDで)何度もこの曲を聴いたが、どうもあのステージのブルックナーがもたらす激しい感興は得られず、別の作品を聴いているような気がしてならなかった。
第3楽章で未完成というのが、なかなかストンと来ない。それもアダージョで終わるのだ。
これといってクライマックスもなく、いつの間にか終わってしまう。
そこで、指揮者のジェスチャーが肝心だ。
今回下野竜也の場合は、どうもそのジェスチャーがはっきりせず、さて、観客は拍手をして良いものやら、悪いものやら、判断がつかない、放送事故のような空白の時間がしばらく経過した。
余韻の時間から、終曲への気持ちの切り替えを明らかに見せることが必要ではないか。
歌舞伎のように、途中で役者に声をかけたり拍手することはマナー違反。観客が共に参加できる瞬間はまさに、よっしゃ!終わった!素晴らしかった!という場面だけなのだから。
♪2014-83/♪サントリーホール-03