2014年9月28日日曜日

N響第1789回 定期公演 Aプログラム

2014-09-28 @NHKホール


ヘルベルト・ブロムシュテット:指揮
NHK交響楽団

モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 作品74「悲愴」


今日は、ほぼ満席。こんなに客席が埋め尽くされたのは初めての経験。自席の周囲でいつもは空いている席も埋まっていた。
9月から新シーズンということで、定期会員の数が増えたのかもしれないが、おそらく、一時的なものではないか。

まずは、ブロムシュテット人気だ。
そして、演奏曲目の人気だろう。

シーズン幕開けの3つのプログラム(ABC)はいずれもヘルベルト・ブロムシュテットの指揮で、モーツァルトとチャイコフスキーの最後の3つの交響曲の組み合わせだ。

Aプロはモーツァルト41番ジュピターとチャイコ6番悲愴。
Bプロは同じく39番と4番。
Cプロは40番と5番。
演奏会の日程はB-C-Aの順番だから、曲目も番数の順番になっている。

全日程を聴く人も少なく無いだろう。僕も追加でCプロを聴きたかったが、行事がダブってダメだった。
この3つのプログラムのうちどれか一つと言えば、多くの人は両天才の最後の傑作のカップリングを選ぶだろう。

多分、そんな理由で大観衆になったのではないか。
いつにない熱気があった。

ブロムシュテットは昨年も同じ時期に(ABCプロで連続して)ブラームスを取り上げ、これが昨年のN響コンサートの人気投票ベスト3を独占したという。
僕は生では聴いていないけど放送されたものを全部録画して聴いた。交響曲1番だけ抜けているのは(演奏会が3日間)残念至極だけど、ちょっとした宝物だ。


さて、モーツァルトとチャイコフスキーの組合わせって、前日のモーツァルトとレスピーギの組合わせと同じで、変に思う。
しかし、プログラムの解説では、ブロムシュテット自身が「チャイコフスキーはモーツァルトを敬愛していた~からチャイコフスキーを演奏するときはモーツァルトを意識しなければなりません。チャイコフスキーの作品は、速いテンポの大音量で演奏されることがしばしばです。チャイコフスキー自身はそういった大げさなことは嫌いでした。根本的には古典派なのです。」と語っている。

なるほど。
昨日、日フィル定期のアンコールで聴いたモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」はリスト編曲のピアノ版だったが、チャイコフスキーも管弦楽組曲に編曲しているそうだ。

録画しておいた「らららクラシック」が偶々チャイコの再放送で、ここでも、少年時代にオーケストリオンという自動演奏装置によって、モーツァルトのオペラを夢中になって聴いていたと紹介していた。

ま、2人に強固なつながりはあるようだ。
でも、モーツァルト以降の作曲家にとってモーツァルトの影響を受けなかった人はいないだろうし、どうも肌に合わないという人もいないだろう。

チャイコが「敬愛」を超えて、作曲技法など技術的な面でもモーツァルトを取り込んでいるのかどうかは分からない。

ブロムシュテットの指揮ぶりは「ジュピター」も「悲愴」も平凡なる耳にはフツーに聴こえた。
それで十分で、フツーが一番安心だ(時にはフツーでないのを聴いて感動するときももちろんあるけど。)。

チャイコは<大音量で速く>は良くないそうだし、<古典派>っぽいチャイコに不安があったけど、実際に始まってみると全然そういうことは感じない。
キビキビした演奏がまずは印象的で、安心して音楽に身を任せられた。


「悲愴」の終曲は長い休止が続いた。
ブロムシュテットは指揮棒を止めたまま降ろさない(この様子は放送されるだろうか。)。
チャイコの世界から現実世界に戻るにはだいぶ時間を要した。
しかし、観客席も水を打った静けさで息を呑んでブロムシュテットの呼吸に合わせている。
ようやくタクトが完全に降りたや否や、3千人以上入ったホールは割れんばかりの拍手喝采の嵐に包まれた。これはお義理の拍手ではない。敬愛、感謝、感動が音を立てているのだ。
今日の目的はこの時にあるとばかりの歓声も混じってものすごく、ブロムシュテット人気を実感した。

ご本人、御年87歳のはず。
温厚な好々爺然とした風貌だが、指揮棒を握っている姿はとてもエネルギッシュだ。
自身、とても演奏には満足の様子で、カーテンコールには何度も応え、団員たちとの握手を繰り返し、団員からも熱い拍手を送られていた。

こういう瞬間が、コンサートでは時に音楽以上に感動的だ。
昨年もそうだったのかもしれないが、鳴り止まない拍手に、団員が引き上げた後、椅子だけが並んだステージに呼び出されて歓声に応えてくれた。

こうしてブロムシュテットの神話が作られてゆくんだなあと思った。
その時を共にしたことをうれしく思った。

♪2014-89/♪NHKホール-04

2014年9月27日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第300回横浜定期演奏会

2014-09-27  @みなとみらいホール


三ツ橋敬子:指揮
菊池洋子:ピアノ
千葉清加:コンサートマスター(日フィル・アシスタント・コンマス)
菊地知也:ソロ・チェロ(日フィル)
日本フィルハーモニー交響楽団

ロッシーニ:歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番≪戴冠式≫
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プッチーニ:オペラ≪マノン・レスコー≫から第3幕への間奏曲
レスピーギ:交響詩≪ローマの松≫
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アンコール
モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス(Pfソロ)
レスピーギ:≪ボッティチェリの3枚の絵≫から第3曲「ヴィーナスの誕生」


7月の定期演奏会も、指揮者・ソリスト・コンマスが女性で固められたが、今回も主要キャストは女性ばかりだ。

写真で見る限り美形が揃っているというのに、こういう日に限って、こういう日のために(野鳥を見るためではなく)買った単眼鏡を忘れていったのは残念だった。



盛りだくさんのプログラムだったが、イタリア・オペラの巨頭2人の序曲(ロッシーニ)と間奏曲(プッチーニ)。
この先輩たちの後塵を拝して登場した近代イタリア管弦楽のパイオニア、レスピーギの「ローマ三部作」から≪ローマの松≫。
以上イタリア尽くし。

そこになぜかモーツァルトが挟まれた。

27曲あるピアノ協奏曲の中では「戴冠式」という名前が付いていることから、一番有名かもしれないしれない。僕も好きだけど、一番好んで聴くのは第23番かな。
大げさな表題がついた割にはとても軽やかで分かりやすい。

菊池洋子さん。何度かのカーテンコールの後、アンコールに応えて弾いてくれた曲が、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。本来は合唱と弦楽器、通奏低音による賛美歌だが、リストがピアノ用に編曲したものが演奏された。ピアノ版は初めて聴いたが、やはりきれいな曲だ。

休憩を挟んでプッチーニの間奏曲は聴いたことがあるような無いような曲だったが、さすがにプッチーニ。甘いメロディーだ。
ヒロインが恋人に抱かれて息を引き取る場面の音楽だそうでなるほど納得。

最後は、いよいよ、今日のメインディッシュ「ローマの松」。
去年の日フィル定期でも「ローマの祭」に圧倒されたが、ローマ三部作の中でも一番好きなのが「松」だ。

ありとあらゆる楽器を総動員し、弦楽の規模も大きく、パイプオルガンも交え、バンダ(別働隊ホーン・セクション)もトランペートが4本にトロンボーンが2本。ステージとは一段高いパイプオルガンのそばに位置して咆哮していた。

このバンダの「定位置」というのは決まっていないようで、演奏会場の構造の違いで、いろんな場所に出没することがある。
前にすみだトリフォニーで「ローマの松」(金聖響+読響)を聴いた際は1階客席に6人が登場したのにはびっくりした。
今回も2階バルコニーとかでやってくれたら面白かったのに。

4部構成だけど、切れ目なく演奏される。
特に最後のアッピア街道の松が圧巻で、オーケストラを聴くことがこんなにも幸福かと思わせる。

指揮者にとってもやりがいのある曲だろう。


もう、これを聴いてお腹いっぱいなのに、アンコールが準備されていた。300回記念ということもあったのかもしれない。

初めて聴く曲だったけど、同じレスピーギの作品で、「ローマの松」の余韻を引き伸ばすような音楽で、違和感がなかったからこれなら良かった。
が、途中に長い休止があったために、一部のお客さんが終曲と勘違いして拍手をし、その一帯に追随する人が出たのはちょっとまずかった。

聴衆マナーとして居眠りも良くないけど、終曲の判断は、指揮棒が完全に降りるかどうかだ。よく知っている曲であっても、慌てて拍手してはいけない。指揮者の感性を尊重すべきだ。

ま、その後も何事もなかったように音楽が続き、大きな拍手に包まれて終わったので良かった。

♪2014-88/♪ @みなとみらいホール-36

2014年9月21日日曜日

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団名曲全集 第100回

2014-09-21  @ミューザ川崎シンフォニーホール


準・メルクル:指揮

東京交響楽団

イリヤ・ラシュコフスキー:ピアノ

早坂文雄:左方の舞と右方の舞
R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」作品28
メンデルスゾーン:交響曲 第4番 イ長調 作品90 「イタリア」
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アンコール

メンデルスゾーン:演奏会用序曲「フィンガルの洞窟」作品26


1曲めの早坂文雄「左方の舞と右方の舞」はどういう場面でか思い出せないけど、聴いたことがある。
雅楽の中に「左方の舞=唐楽」と「右方の舞=高麗楽」という種類の舞楽を管弦楽で表現したものだと解説に書いてある。
雅楽も邦楽の一部かもしれないが、雅楽というより、もっとずっと親しみやすい邦楽を感じさせる。
大陸や半島伝来の音楽ではなく、日本で育まれた「和」の音楽を感じさせる。

早川文雄と聞けば映画音楽の巨匠という刷り込みがあるせいか、この曲を聴いていても映画音楽のように感じ、あれこれ映画作品を思い浮かべた(酔いどれ天使、羅生門、七人の侍、雨月物語、山椒大夫、近松物語などの錚々たる日本映画の音楽を担当した。)。


「ティル~」は好きな音楽。
R・シュトラウスについては別の機会に書こう。



メインディッシュがメンデルスゾーンの「交響曲イタリア」。
大変なごちそうだ。
メンデルスゾーンについては、若い頃は、失礼なことに!なんだか甘ったるい作品を書く作曲家として軽んじていたが、歳をとるに連れその魅力に目覚めた。反省の意味も込めて2年ほど前に全作品集を購入したけど、聴いている時間がない。

交響曲もよく聴くのは3番「スコットランド」と4番「イタリア」。
特に「イタリア」はどの楽章も完璧に素晴らしい。
しかし、メンデルスゾーン本人は気に入らない部分があったようで、改訂版が完成するまでは出版を許さなかったそうだが、それはついに完成しなかった。
僕の耳には手の入れようがないくらいに完璧だと思うけど。

とりわけお気に入りは第2楽章のアンダンテ。
「イタリア」を好きになるきっかけはこの哀愁漂うメロディーを知ったからだ。

東響の演奏も良かった(このオケはこの日にかぎらず、たいていいつも「巧い!」と感じさせる演奏を聴かせてくれる。)。

第1楽章にしても終楽章にしてもとてもテンポが早く、とりわけ終楽章の冒頭は管楽器は非常に早くて細かいタンギングが必要だけど、これが実にきれいに揃って見事だった。
もちろん全楽章が素晴らしい演奏だった。


僕はアンコールは要らない派だけど、演奏された。
でも、選曲が良かった。
同じメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」だ。
これも好きな曲で、ワクワクさせる動機が繰り返えされながらロマンチックなメロディーに成長して展開されてゆく。
この旋律も、一度聴いたら脳裏に染みこむのではないか。


という訳で、僕には満足のコンサートだったが、前回(東響名曲全集第99回)に引き続き、1階最前列のおばちゃん!そんな目立つ場所で寝ないでください。

♪2014-87/♪ @ミューザ川崎シンフォニーホール-10

2014年9月20日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第302回定期演奏会

2014-09-20 @みなとみらいホール


キンボー・イシイ指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
三舩優子(ピアノ)

ガーシュイン:キューバ序曲
ガーシュイン:パリのアメリカ人
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」


指揮者もピアニストも初めて。
曲目も「パリのアメリカ人」以外は初めて。
厳密には放送などで目にし、耳にしているのかもしれないけど。

ガーシュインの「キューバ序曲」は1932年に作曲された。
キューバ旅行の産物らしい。
元々は「ルンバ」というタイトルで初演されたそうだが、その名の通り、全体はルンバのリズムに乗って、いや~賑やかなこと。陽気なラテン音楽そのものだ。
中間部は様子が変わってスローテンポのジャズというか、ブルースっぽい。
終盤は再びテンポが上がって、ラテン音楽になり、派手に終曲する。

ギロ、マラカス、クラベス、ボンゴなどのラテン・パーカッションが総動員されていた。
後2者はともかく、前2者(ギロやマラカス)の音って、放送やCDでは大抵ほかの楽器の音にかき消されよく聴こえないのだけど、やはり、生の舞台はジージー、チッチッというリズムがしっかり聴こえてくるもいとおかし。

パリのアメリカ人は29年の作曲。シンフォニック・ジャズだ。
こちらは51年に公開されたミュージカル映画「巴里のアメリカ人」でも使われている。
アカデミー賞作品・美術・撮影・作曲・脚本・衣装デザイン賞を受賞した大ヒット作となった。
「パリのアメリカ人」はこの映画のおかげで世界中に知られることになったのではないか。

グロフェの組曲「グランドキャニオン」に感じがよく似ているのは、同じ時代のアメリカ人で共にジャズに通じていたからか、と思っていたが、あれこれ調べていたら、それだけではなく、2人は音楽的に特に深い関係があったようで、ガーシュインの一番有名な作品「ラプソディー・イン・ブルー」のオーケストレーションをしたのが、グロフェで、現在我々が聴いているのはグロフェ版を元にフランク・キャンベル=ワトソンという人が再編集(42年)したものらしい。これは新発見。

グロフェよりガーシュインの方が少し若いけど、2人は互いに影響を与え合っていたのかもしれない。



さて、「パリのアメリカ人」が作曲された翌年が世界大恐慌がスタートした1929年だ。この音楽にはそのような不安感は全くない。「キューバ序曲」の32年もまだまだ、不況のさなかで、アメリカ経済が立ち直り始めるのは第2次世界対戦による戦争特需が始まってからだと言われている。
しかし、この音楽にも不安感は感じられない。

そりゃそうだろう。そんな音楽を作曲しても誰も聴きたくもない。

バーンスタインが交響曲第2番「不安の時代」を初演したのは49年。世界大戦も終わって当面の不安は解消されていた時期だが、バーンスタインがこの作品の題材にしたのは、W・H・オーデンという作家の詩「不安の時代」で、これは47年に発表さた。その詩は第二次世界大戦中の人々の不安を描いている。

何故、バーンスタインがこの詩を元に作曲しようとしたのかは、俄勉強の限りでは分からないけど、世界大戦の悲劇を音楽で総括しておきたかったのかもしれない。

ピアノ協奏曲風で、全6楽章だけど、前半の3楽章と後半の3楽章は続けて演奏されるので、2楽章構成のようにも聴こえる。

2つのパートに分かれていることは事前にプログラムの解説を読んで知っていたが、何しろ初めての曲なので、実際の演奏の形は
見当がつかない。
短い区切りっぽい部分があるので、それが楽章の区切りだったのかもしれないけど、よく分からない。
指揮者の手が休んだところで前半が終わったのだな、ということは分かったが。

構成は分かっているのに、今聴いているのはその中のどの辺に位置するのかが分からないというのはまことに「不安」だ。


交響曲だけど、ピアノ協奏曲風でもある。
このスタイルも変わっているけど、ピアノは舞台中央のフルコンサートグランドだけではなく、舞台奥にはチェレスタとアップライトピアノも登場する。こういう楽器編成の音楽も珍しい。

部分的にはミクロス・ローザの映画音楽を彷彿とさせるが、全体としてやはり「不安感」が漲った音楽である。
今、Youtubeで聴きながら、思い出しながら書いているのだけど、ホンに暗い音楽だ。
それでも、いよいよ最終局面になって、曙光が差してくる。
チューブラベルが希望の鐘を鳴らして幕を閉じる。

元の詩がそのような終わり方をしているのかどうか知らないが、音楽としてはせめて最後に救いがあったようで良かった。

ガーシュインの2曲とは対極に位置するような音楽で、決して楽しい気分では聴けないけれど、馴染んでくれば「面白い」くらい思うゆとりが出てくるのかもしれない。


♪2014-86/♪みなとみらいホール-35

2014年9月16日火曜日

みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.60 神奈川フィル名手による室内楽②

2014-09-16 @みなとみらいホール


石田泰尚(Vn)

プロコフィエフ:無伴奏バイオリン・ソナタニ長調 作品115
J.S.バッハ:無伴奏バイオリン組曲第2番ニ短調 BWV1004
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アンコール
黒人霊歌:Deep River
不明
リー・ハーライン:星に願いを(ピノキオから)


石田泰尚氏の活躍は、リサイタルや室内楽など多岐にわたっているが、なんといってももう14年目に入る神奈川フィルのソロ・コンサートマスターとして一番良く知られているだろう。

今日は、クラッシク・クルーズの室内楽シリーズで、地味なコンサートだけど、チケットは早くに完売となり、満席だった。

このシリーズは、毎回演奏時間が1時間強というミニコンサートであることや、チケットが格安ということで、観客席はいつも賑わっているけど、満席を経験したのは初めてだ。シリーズ会員以外にも多数が駆けつけたらしい。
いつもより女性客が多く、8割方は中年女性であった(おっかけおばさん連中がいるらしい。)。
近くの二人組など、いちいち過剰反応だったなあ。

曲目は、全くのソロばかり(ピアノ伴奏なし)。

プロコフィエフの無伴奏バイオリン・ソナタニ長調は初めて聴いた。「ニ長調」だそうだが、彼の作品(で、耳に入るもの)がだいたいそうであるように、調性はかなり怪しかったが、3楽章形式でテンポやリズムの変化は表題(モデラート、アンダンテ・ドルチェ、コン・ブリオ)どおりなので、初めて聴く無伴奏作品にしては分かりやすかったが、そもそもは、1947年、ソ連のどこかにあったバイオリン教室で学ぶ生徒2030人がユニゾン(斉唱)で弾くために作曲したものだそうだ。
ということで、多分、技術的にはそう難しいものではないのかもしれないけど、石田氏が身体をくねらせて情感たっぷりに弾くと、なんだか難しそうに聴こえる。

それにしても2030人はともかく、10人でさえ、これを合わせて弾くのは非常に難しいだろう。決して練習曲のレベルではなかった。
1人で弾くほうがよほどか楽だろう。
現実にも、バイオリン合奏曲という形よりもソロ音楽として定着しているらしい。

さて、どんな音楽だったのか、今、思い出そうとしてもかけらも出てこない。
Youtubeで検索してみたがここでもヒットしない。
Amazonでは数枚の現代無伴奏バイオリン曲集などの中にカップリングされていたが視聴できるものはなかった。


バッハのバイオリンのための無伴奏曲は、3曲のソナタと3曲の組曲から構成されているが、中でも演奏される機会が多いのは今日演奏された組曲第2番かもしれない。
6曲中一番演奏時間が長く(手持ちの前橋汀子版は32分)最終曲の第5曲「シャコンヌ」はこれだけで約15分。

もちろん音楽そのものが素晴らしいのだけど、「シャコンヌ」は1曲だけ取り上げてもまとまりのある長さであり、32の変奏という形式から、演奏家にとっても取り上げやすい、また、挑戦してみたい曲なのだろう。

そのダントツに有名な「シャコンヌ」を含んでいるからこそ組曲第2番の演奏機会が多くなり、リスナーも聴く機会が多くなる。
その相乗作用で、ますますダントツのレベルを高めているのだろう。

強面風の石田氏がどんなバッハを弾くのか、と興味深かった。
小ホールの前方なのでもう少し弦のナマの音が響くかと思ったが、丁寧な発音が残響を纏わり付けて実に柔らかい響で、とても優しげな音楽であるのに少々驚き、かつ、心地良かった。

プロコフィエフの時はもう少し硬い音がしたように思ったが、気のせいだろうか、音楽のせいだろうか。

プログラムの2曲を終わると、会場からはやんやの喝采。ファンのブラボーの声も普段にない大きさで指笛まで登場する。

先日の定期会員との交流会ではほとんど喋らなかったのが、今日はマイクを持ってちょっとお礼やら緊張しているなどというあいさつがあったが、そそくさと引き上げてしまった。

しかし、もちろん前もって準備していたのだろうけど、アンコールに応えて以外にも3曲を演奏した。
近くのおばちゃんたちのうるさいこと。

1曲めだけ曲目を紹介してくれたが、してくれなくとも分かる有名な黒人霊歌。2曲めは知らない曲だったが、ピアソラ風ではあった。
最後が、びっくりの「星に願いを」!
しみじみと童心に帰りたいと思わせる名曲の名演だった。

♪2014-85/♪みなとみらいホール-34

2014年9月14日日曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団:2014年度 みなとみらい年間会員交流イベント

2014-09-14 @はまぎんホールヴィアマーレ


川瀬賢太郎(常任指揮者)
永峰大輔(副指揮者)

メンデルスゾーン⇒ピアノ三重奏曲第1番Dm Op49から第1、2、4楽章

Vn:﨑谷直人
Vc:門脇大樹
Pd:梅村百合

石田泰尚 ミニ・リサイタル
ピアソラ⇒アディオス・ノニーノ/「タンゴの歴史」より’現代のコンサート’
ビジョルド⇒エル・チョクロ
ガーデ(大橋晃一編曲)⇒ジェラシー

Vn:石田泰尚
Pf:中島剛

神奈川フィル次期定期プログラム発表
懇談会


今日の催しは、交流会(来季の定期演奏会のプログラム発表や常任指揮者、コンマスなどと定期会員との懇談・撮影・サイン会)が主眼だったので、時間の制約もあったのだろうけど、演奏会はオマケ程度のミニコンサートだった。

事前に「~から」と案内もされていたが、楽しみだったメンデルスゾーンのピアノトリオ第1番は第3楽章が省略された。
第3楽章は3分強という一番短い楽章なのに、何もこれを外さなくともいいではないか。

今日のトリオは神奈川フィルの首席(バイオリンとチェロ)にピアノの梅村百合さんを加えた編成で、7月にも同じメンバーでハイドンのピアノ三重奏曲を聴いている。
トリオとして本格的に活動しているのではないのだろうけど、息が合っているように思う。前にも感じたけど、各楽器が出しゃばらず音量のバランスがとても良い感じだ。

後半は、神奈川フィルの顔ともいうべきソロ・コンサートマスターの石田泰尚のタンゴ・リサイタル、と言っては不正確かもしれないけど、ピアソラを中心に情熱的な古典タンゴから、超絶技巧ぽい現代曲を計4曲。
いつ聴いてもこの人の演奏は気合が入っている。
もう少し愛想よくすればどっと人気が出るんだろうけど、硬派を気取っているところが魅力なのかもしれない。石田氏の演奏スタイルを見ていると、ケレン味たっぷりで、コンマスってこのくらいの存在感がなくちゃなあといつも納得してしまう。


みなとみらいの横浜銀行本店内にある「はまぎんホールヴィアマーレ」というところは初めて入った。
客席500人強の多目的ホールだが、今日は、後ろ半分は使っていなかったので、観客は250人位だったのかも。
前から4列目の中央という、室内楽を聴くには好都合な場所を確保したが、この辺だとコンサート専用ホールでなくとも、チェロの柔らかい中低音、ヴァイオリンの繊細な高音、ピアノのキラメキとすっきり抜ける重低音が実にきれいだ。

そろそろ各オーケストラの来季の予定が発表される時期になったようだ。
神奈川フィルの3つの定期演奏会がその先陣を切って今日発表された。
再来年(2016年)の3月までの予定が入った訳だ。
なんか、あまりに先のことで呆然とする。それまで健康で過ごしたいな。

♪2014-84/♪はまぎんホールヴィアマーレ-01

2014年9月9日火曜日

読売日本交響楽団第540回定期演奏会

2014-09-09 @サントリーホール


下野 竜也:指揮
読売日本交響楽団

ハイドン:交響曲第9番 ハ長調Hob.Ⅰ- ­9
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調WAB.109


みなとみらいホールでのコンサートの日に3つのオケの定期演奏会が重なったので、読響は今日のサントリーホールでの演奏会に取り替えてもらった。

さて、本日のプログラム。
ハイドンとブルックナーという組み合わせは不可解。
共通点はオーストリア生まれということかな。
生年は92年の差がある。


演奏曲目はいずれも交響曲第9番だけど、作曲年の開きは130年以上ある。
いずれも通常の形式とは異なって第3楽章までしかない。

演奏予定時間は、ハイドンが12分に対してブルックナーは63分と5倍以上だ。

なんで、今日、この2曲が取り上げられたのかという説明はプログラムにもなかった。

時間調整のためにハイドンが使われたのかもとはじめは思ったけど、よく考えてみると、今日は9月9日。

交響曲の第9番で揃えるなら、ハイドン以外ではベートーベン、ドボルザーク、マーラーくらいしかない。いずれも長大すぎて演奏する方も聴く側にも負担が大きすぎる。現代の作曲家では9作以上作曲している人はいくらでもいるだろうけど、それらは楽譜の入手も練習も大変だし、長時間かもしれない。
ということで、なるほど、ハイドンしかいないのか。

ま、ハイドンの一桁台の交響曲ってほとんど生で聴く機会もないので、これはこれで良かったけど。

ハイドンの第9番は第3楽章までしかないが、これはこれで完成している。軽音楽のように聴きやすいが、アレグロフィナーレがないという意味でやや物足りない。まあ、余興音楽のようなものだったのではないか。



ブルックナーの第9番も3楽章構成だが、こちらは未完成作品だ。第4楽章を完成する直前に亡くなってしまった。

ブルックナーの生年は1824年で、シューマンより14年遅く、ワーグナーより9年遅く、ブラームスより9年早い。まあ、彼らはほぼ同時代と言っていいだろうけど、音楽は違う。

中では、ワーグナーとは近いものを感ずるし、とりわけ、この第9番の第1楽章の無調ぽい旋律や第3楽章のトリスタンとイゾルデを思わせるようなメロディーにワーグナーぽさを発見できる。
一方、シューマンやブラームスとは好対象かもしれない。

ところで、彼の音楽はCDで聴くのと生で聴くのはまるで別物のように聴こえる。
この日のハイドンは弦5部全員でも19名だったが、ブルックナーでは第一バイオリンだけでも16人だった。つまり、弦楽器だけで50人位はいたのではないか。それに夥しい管楽器が加わり、ステージは楽団員で溢れている。

そんな大勢が一斉に強奏したときのダイナミズムは少なくとも我が家のCD再生装置では再現できない。

コンサートの前と後に、(CDで)何度もこの曲を聴いたが、どうもあのステージのブルックナーがもたらす激しい感興は得られず、別の作品を聴いているような気がしてならなかった。

第3楽章で未完成というのが、なかなかストンと来ない。それもアダージョで終わるのだ。
これといってクライマックスもなく、いつの間にか終わってしまう。

そこで、指揮者のジェスチャーが肝心だ。


今回下野竜也の場合は、どうもそのジェスチャーがはっきりせず、さて、観客は拍手をして良いものやら、悪いものやら、判断がつかない、放送事故のような空白の時間がしばらく経過した。

余韻の時間から、終曲への気持ちの切り替えを明らかに見せることが必要ではないか。

歌舞伎のように、途中で役者に声をかけたり拍手することはマナー違反。観客が共に参加できる瞬間はまさに、よっしゃ!終わった!素晴らしかった!という場面だけなのだから。

♪2014-83/♪サントリーホール-03

2014年9月3日水曜日

秀山祭九月大歌舞伎(昼の部)

2014-09-03 @歌舞伎座


一 鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)
・菊畑
   
吉岡鬼一法眼 歌 六
虎蔵実は源牛若丸 染五郎
皆鶴姫 米 吉
腰元白菊 歌女之丞
笠原湛海 歌 昇
智恵内実は吉岡鬼三太 松 緑

二 隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)
・法界坊
   
聖天町法界坊 吉右衛門
おくみ 芝 雀
手代要助 錦之助
野分姫 種之助(1日~13日)
      児太郎(14日~25日)
五百平 隼 人
丁稚長太 玉太郎
大阪屋源右衛門 橘三郎
代官牛島大蔵 由次郎
おらく 秀太郎
道具屋甚三 仁左衛門

・浄瑠璃 双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)
   
法界坊の霊/野分姫の霊 吉右衛門
渡し守おしづ 又五郎
手代要助実は松若丸 錦之助
おくみ  芝 雀


「鬼一法眼三略巻」は平成24年の暮に国立劇場で観た(4幕構成-除幕・菊畑・檜垣・奥殿)。
吉右衛門が鬼一と一條大蔵卿だったが、話の中身は非常に複雑で、よく覚えていなかった。

今回は、「菊畑」一幕だけだが、やはり話はややこしい。
歌舞伎にありがちな、A君…実は源氏の御曹司、B君…実は主人の実の弟、という韓流ドラマもびっくりな関係がフツーに出てくるので、頭の中で、え~っと彼は、実は某…と置換え、確認しながら観ていないと取り残されてしまう。

この芝居の中心人物は、鬼一法眼の屋敷で奴(やっこ)奉公している鬼三太(きさんだ⇒松緑)と虎蔵(染五郎)で、両者は互いに「実は…」の関係を承知している。主従の間柄なのだ。

両者に絡む鬼三太の実兄鬼一と虎蔵に思いを寄せる皆鶴姫(米吉)は、「実は」の関係を知らない。
皆鶴姫に思いを寄せる湛海(歌昇)はじめその他衆も知らない。

この狂言全体の筋書きに関しては大して面白いものでもない(ように思う)が、主要な登場人物たちの間に、「実は」を知られないようにするがゆえの苦労があり、知らないがゆえの不幸があり、知ってしまったがゆえの悲劇が起こるさまが人間ドラマとして面白い。


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隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)=「法界坊」は、以前にTVで(勘三郎?)が楽しそうに演じているのをぼんやりと観ていたのだけど、全編の物語をきちんと観るのは今回が初めて。

御家再興の話が背景になって、ここでも「実は…」が含まれるけど、この作品では筋書きは大きな要素ではないと思う。
法界坊(吉右衛門)の存在があまりに大きいからだろう。
欲の塊、悪の権化のようでもあるけど間が抜けたところもあって、おかしい。

この悪党にさっそうと対抗するのは道具屋甚三(仁左衛門。この人も実は…)だ。
御家再興を願う要助(実は松若丸=錦之助)の窮地に登場し大岡裁きの如く法界坊らの悪党を懲らしめて痛快。
この後も法界坊との対決の場があって、なかなかの見応えだ。

この場面で、法界坊、というより吉右衛門がアドリブを連発して場内を大いに沸かすのだけど、仁左衛門がこれに応えられない(のは当然なのだけど)ところに吉右衛門の工夫が欠ける。つまりは、やり過ぎではないか。
まあ、満員の観客はやんやの喝采だったからここは素直に楽しむのが鑑賞の王道かもしれないけど。

ところで、この場だったかどうか記憶が定かではないけど、法界坊が少しよろけたように見えた。近くにいた後見がすぐ気がついて小走りで近づいたが、大事には至らなかった。本人も「体力的に最後かな」と言ったいたという記事が出ていたが、まだ70歳。大事にして長く続けて欲しい。





話が一段落して、幕が下り、次いで、大喜利として「浄瑠璃 双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)」が演じられた。
この一幕は、単独でも上演されるそうだ。


セリフがないわけではないけど、全体が舞踊劇。
伴奏は、上手に竹本の太夫と三味線2人ずつ。下手に常磐津の太夫が8人と三味線7人。


この一幕の趣向には驚いた。

要助と彼を慕うおくみ、隅田川渡し守りのおしづの3人が、野分姫(要助の許嫁。法界坊に騙された挙句殺された。)の菩提を弔っているところに、もうひとりおくみが登場する。実は、法界坊と野分姫の霊が合体した怨霊なのだ。
さあ、要助とおしづにはどちらが本当のおくみか分からない…。

どうしてこの物語(本篇)に野分姫が登場するのか、イマイチ意味が合点できないでいたけど、ここに及んで、なるほどこのためか!

ともに恨みを持つ者同士が一体となり、ある時は野分姫に、ある時は法界坊の姿を見せる(吉右衛門が女形を演じている。)のも恐ろしや。

その際、野分姫のセリフは吉右衛門ではなく、後ろに付いた黒衣(くろご)だった。こういう場合は後見というのだろうか?裃後見は知っているけど、頭巾かぶりの後見もいるのか?
その黒衣が透けた顔を隠す布(なんていうのかな?)越しに口紅を指しているのが見えた。
女性が黒衣を務めるのだろうか?それとも女形の黒衣なのだろうか?

浄瑠璃は常磐津と竹本の掛け合い。
多分、野分姫と法界坊で語り分け、弾き分けていたように思ったが、怨霊の動きに気持ちを奪われて確かめるゆとりはなかった。

この一幕、舞踊劇として実に興味深い。


♪2014-82/♪歌舞伎座-05