2014年6月18日水曜日

横響第655回定期演奏会

2014-06-18 @県立音楽堂

竹澤勇人(ピアノ)
飛永悠佑輝指揮:横浜交響楽団

【国民楽派の音楽】<伊福部昭生誕100年>
伊福部昭(1914~2006):交響譚詩
グリーグ(1843~1907):ピアノ協奏曲イ短調 作品16
ドボルザーク(1841~1904):交響曲第9番ホ短調 作品95「新世界より」
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アンコール(ピアノソロ)
レスピーギ:3つの小品から「ノクターン」


前回の4月定期は東響のコンサートとバッティングして行けなかった。5月はそもそも定期演奏会がなかったので、3ヶ月ぶりの横響定期。

伊福部昭は、今年生誕100年ということもあって、いくつかの演奏会が彼の作品を取り上げているようだ。NHKでもドキュメンタリーを放送していた。

伊福部といえば「ゴジラ」を始めとする映画音楽で有名だけど、純粋器楽・声楽曲も多数作曲しており、いくつかは作曲コンクールで優勝するなどクラシック界からもその才能は認められている。

音楽は独学で、いまでいう農水省の官吏をしながら作曲の勉強をしたそうだ。そのためかどうか知らないが、西洋古典音楽理論を無視した作曲法で、正統派からは難色を示されたそうだが、21歳の作曲「日本狂詩曲」は、かえって外国人の耳には新鮮だったようでフランスで賞を得ている。

今日の「交響譚詩」はその「日本狂詩曲」の一部を取り込んで29歳で発表され、これも国内で賞を受けた。

2楽章形式で、ほとんど全体が変拍子の明確で強力なリズムで出来上がっている。あまりメロディアスではないが、歌われるのは、日本の古謡の音律(ヨナ抜き音階)に依っているようだ。

彼自身が(先日のTVドキュメンタリーで)話していたが、ストラヴィンスキーを聴いて、これなら自分もできると思ったそうだが、確かに、和風「火の鳥」のようでもある。

第2楽章(第2譚詩)には、後の「ゴジラ」の音型が顔を出すのがご愛嬌。

「譚詩」は「バラード」の訳語だそうだけど、現代の「バラード」が持つ意味(恋愛風味)とは異なって、本来の物語詩的な内容や雰囲気を音楽で表現した作品であった。



グリーグのピアノ協奏曲でソロを弾いたのはまだ高校2年生の竹澤勇人くんだ。
2012年に開催された第66回全日本学生音楽コンクール中学生の部で2位入賞し、横浜市民賞も受賞したのが縁で、今日の舞台につながった。

こういうキャリアを積んできた若者が如何に高度なテクニックを持ち、音楽性を備えているかは、もうずいぶんといろんな才能のある若い芽を聴いてきているので、驚きもしないのだけど、まあ、上手なものだ。
県立音楽堂は、残響が非常に少ないホールなので、フルコンサートグランドの鋭くきらめくような音がモロに響いてきて心地よい。

オケとの協奏部分で、少し呼吸が合っていないような部分もあったけど、プロでもそういうことはあるので、どうってこともない。むしろ、自分なりの音楽を主張したのかもしれない。

協奏曲が終わって数回のカーテンコールに引っ張りだされた後、アンコールとしてピアノソロで弾いたのがレスピーギで、えらく渋い選曲に驚いた。


さて、メインベントは「新世界*」。
この曲、「運命」、「未完成」と並んで、三大交響曲などとして括られることが多く、確かに多くの古典音楽ファンはこれらの交響曲からクラッシックの世界に入門することが多いだろう。

それからベートーベンやシューベルトの他の作品に興味が広がり、シューマンやブラームスに分け入る。ブルックナーやマーラーに目覚める人もいるだろう。

そうして、「新世界」を忘れてしまうというか、もう卒業した気になってしまうのではないか。
というのも、僕がまさにそういうことだった。
いわゆる「名曲コンサート」の類では取り上げられるけど、定期演奏会でなければわざわざ聴きに行きたいという気持ちはすっかりなくしていた。CDを回すこともなく、「新世界」を聴く時間があれば他の作品を聴きたい。
それにそもそもドボルザークという作曲家は「天才性」を持っているのだろうか?という疑いは今も払拭できないでいる。

そんな訳で、これまで「軽め」にみていた「新世界」だったが、3月ぶりに聴く横響の、腕を上げたように思える弦の熱演もあって、目からうろこの文字どおりの「新世界」が展開された。

一番有名な第2楽章。「家路」として子供の頃覚えたメロディー。
下校の合図だったり、デパートの閉店音楽として耳タコなのだけど、いやあ今回はしんみりと聴きました。
ヨナ抜き音階(厳密には違う。でもよく似ている)風の、何故か万国共通のノスタルジーを感じさせるメロディーだ。
ドボルザークも、新世界(アメリカ)からチェコを懐かしんで作曲したのだろう。

この有名なテーマは冒頭短い序奏を経てイングリッシュホルンが哀愁に満ちた音色で提示するが、終曲間際に(CD観賞だと分からなかったが)、弦5部が2人ずつでこのメロディーの前半を奏で、後半はバイオリン、ビオラ、チェロの3人だけで引き継がれる部分があって、ここがまた一入泣かせてくれる。

アマオケ時代には演奏した機会がなかったが、高校の吹奏楽でこれをやったことがあったので、そんな昔の頃もあれやこれや思い出され、万感胸に迫り、心に滲みた。

やはり、世間が「名曲」というのは素直に認めなくちゃいかんなあ。

横響の弦が腕を上げていたように思った。
神奈川県立音楽堂というソリッドな音響空間ではピッチが合っていないと非常によく目立つのだけど、今回はほぼ一糸乱れず。
特に低弦は第一楽章冒頭を綺麗に揃えてスタートできて、その後も目だった破綻もなく全曲を支えていたように思う。

*英訳はFROM THE NEW WORLDなので、「新世界から」と訳すべきだけど、世間では「新世界より」の方が大手を振っている。
「より」は本来比較・原因などを表し、物事の起点を表すには「から」を使うべきだと僕は頑固を通している。


♪2014-61/♪県立音楽堂-10